おはなしノート

バスルーム

クリスマスにお客さんから、バスオイルのギフトをもらった。
特別なイベントごとでなくても、プレゼントに入浴剤をもらうことが多い。

女の子への贈り物、という感じがするし、使ってなくなるものをと思ってくれるのだろう。でも普段あまりお風呂まわりにこだわりのなさそうな(タワーマンションに最新の家電と住んでいて、お風呂ものはコンビニで買える商品ばかり)人が、どこでもは売っていないとても凝ったセレクトのものをくれて、不思議に思ってそっときいてみたことがある。

そうしたら「シーナちゃんお風呂が好きそうだから、デパートで店員さんに入浴剤の高くていいやつくださいってきいたらこれが出てきたー」という返事がかえってきた。 風呂場で長いこと遊ぶから、お風呂好きのイメージなんだよね、と。
実際にはお風呂でプレイするのはその人自身の趣味で、最初の時に頼まれて以来わたしは続けているだけなのだけど、そのときはとてもうれしかった。

彼らはお風呂場にいると、素直なように思う。ベッドの上よりも。
泡だらけになって洗い合ったり水鉄砲を飛ばしたり、という時間だけでなく、お湯の中で絡まり合って身体を触ったり舐めたりしている時でも、ベッドでのそれに比べると獰猛さや図々しさが弱まっているように感じるのだ。単純な楽しさ、うれしさ、男の人が持つどこに向けられたものでもない甘い恥じらい。そういうものがシンプルに伝わってくる瞬間に、バスルームで出会うことがけっこうある。それはとても素敵なので、疲れるけれどやめられない。

水に触れたり血行がよくなったりしてリラックスするせいなのかもしれない、となんとなく自分では考えていたのだけど。
「上になっていないから」というのも、あるんじゃないかしら……そんなことに、最近ふと思いあたった。

ベッドの上では、どうしても上と下ができてしまう。寄り添って愛撫することもできるけれど、それはあまりポピュラーではない。たいていの場合彼らは(無意識なのかそうでないのかはあるだろうけど)、上から覆いかぶさる形をとろうとする。
どちらがリードするわけでもなく上になったり下になったりするセックスがわたしは好きだけれど、仕事だとなかなかそうはいかない日もある。仕事であるうえ相手はよく知らない人なのだ、上下を交代することさえも上になっている人が主導権を握ることになる。それが男性で、まして「お客様の人」なんだもの。どうしても、あちらがこちらをひたすら「攻略」するようなプレイになる場合も多い(その時々での接客上のキャラクターなども少し関係しているだろうか)。そういうときの彼らは年代や性格が違ってもなぜか似通っていて平凡で、あとから思い出せない。

本番強要をはじめとする様々な「困った要求」は、たいてい上から降ってくる。 そしてこちらが受諾せずにいると彼らは迫ってくる、言葉や腕力や体重や、それをいつでももっと行使できるぞという揺るぎない威圧感をもって。それはあからさまに「気が大きくなっている」姿だ。

お風呂に入っていると、上下の体勢をとることはない。わたしが客の脚の間に入って向かい合っているか、同じ方向を見て重なるようになり後ろから抱えてもらう形になるか(これのせいでペディキュアをさぼれない)、もしくは向き合った彼の伸ばした脚の上にのっかってキスしたり、少し浮いてもらってフェラしたり。相手には基本的に安定した姿勢でいてもらって、その上でわたしがくるくると動く。身体の小さい方がささやかな主導権を持つ。 めったにないことだ。
それはなにげなく見えるけれど、彼らを「セックスにおける男らしさ」から、なにかひとつ解放する手助けとなることがあるのかもしれない。

自分のアシストがあったかどうかなんかに関わらず、とらわれていない人と過ごすことがわたしは好きだ。男らしさとか女らしさとか、公序良俗だとか金で買った関係だとか、とらえようとするさまざまな動きにさらされたこの場所で、それらに取り合わずただわたしの手を取って飛んでくれる人が好きだ。いつでもそうしようと誘っているわたしに気づいてくれる人がとても好き。

「高くていい入浴剤」は、もったいないというその人を説得して彼の家で使った。指の皮がふやけるまで遊んだ。

2011-12-30 | カテゴリ: たわいないはなし | タグ:  

 

空から甘い実が落ちてくる

朝まで働いてくたくたになり、ベッドの中で最近好きなアプリ(みつばちになり花から花へハチミツを集め飛ぶという、運動神経をまったく問われない点がわたしに向いているグラフィックの美しいゲーム)をちょっと遊んでから眠りにつき、お昼ちょっと過ぎに目を覚まして、サイドテーブルのiPhoneを引き寄せてtwitterをぼんやりと見ていたら、そこに「ありがとう」という文字がいくつもいくつも、次々に流れてきた。それでスティーブ・ジョブズの訃報を知った。

わたしが初めてAppleの製品を見たのは近所に住んでいたお兄ちゃんの家でだと思う。パソコンというものは物々しくてかわいくないけどリンゴのマークはかわいい、と思った。高校生でG4を使い、それからiPod、iPhone。

だから、いろいろ素敵なものをありがとう、という気持ちももちろんあるし、あの気性の激しさとあどけなさや繊細さが同居したセクシーさ、圧倒的な鼻持ちならなさ、知り合いだったらきっと絶対いやなのに見ている分には惹き付けられるめちゃくちゃさを魅力的だと感じてもいたんだけど。
わたしはあの人に、それとまたちょっと違う形の思い入れも、まったく勝手に持っていた。
似たような病気を持っている、という理由で。

病名はぜんぜん違うし、わたしの持っているものはずっとずっと大したことはない格段に気楽なものだ。痛みや苦労は比べものになりはしない。幸いここ数年は安定しているし、昨日も今日も自由にヘラヘラと生きている。ただ、治療していく中でとる方法や、生活に強いられる不自由さの種類に、おそらくよく似た性質のものがあるのではないかなと思う、ということ。それに思い至って以来、なんとなく彼に対して「アップルのすごい人」以上の親近感を勝手に持ち始めた。

子ども時代に別の病気を患ったとき、医師に「エリザベス・テイラーという外国のきれいな女優さんも、同じ病気になったことがあるらしいよ、だからきみもきっと美人さんになるから、どうかがんばってくれ」と力技で励まされたことがあった。言葉にするのは難しいけれど心の重荷がいくらかおりたことを覚えている。そうか、わたしもがんばって大切に治してゆこう、ではないけれど、そんなような不思議な気持ち。
名前しか知らなかった大女優よりももうちょっと身近にそう思わせたのが、AppleのCEOだった。

調子が良くなくて気分がささくれているときや、病院のベッドで不安な時間を過ごすあいだ、傍らにあのタートルネックを着たジョブズ(みたいないけ好かない人)があらわれて「それ、痛いよね。わかるわかる……ざまぁ」とニヤニヤする姿を想像して時をやり過ごしたことがある。病院では圧倒的に時間がゆっくりと進むものだからひとり遊びができなくては辛い。もはや現実を離れた「きむずかしやのスティーブおじさん」というひとつのキャラクターがわたしの中に生まれた。外国の絵本に出てくるような、色鉛筆で描かれたスティーブおじさんは口をゆがめてわたしを笑う。

そしてときどき本物の彼の姿を見る機会には(もちろんインターネットでだけど)、黒いタートルネックに包まれたその身体をなんとなく見つめてしまった。ここにもあの痛みが、いいえきっと何十倍もの忌々しい痛みが襲ったことがあるんだろう、とつい想像してしまった。もうできるだけありませんように、ずっと穏やかでありますように、と祈ってみたりもした。まったくばかげているとわかりながら。
こんなに圧倒的な人であっても病気は等しく襲ってしまうんだなあ、という当たり前にも程があることを考えたりもした。

この先もしもひどい発作があってうんうん唸っている時、今度は雲の上、虹の彼方からきむずかしやのスティーブおじさんがやってきて「お、やってるね」と言ってくれる、そのくらいの余裕がわたしにあったらいいなあ。おいしそうなリンゴをひとつ投げてくれて、でもきっと運動神経のないわたしはそれを受け取れず床に落としてしまうだろう。眉をひそめて「愚鈍な人間め」と怒られる。取らせる気もない剛速球だったくせに。そうだったらいい。

世界中の人が悲しんでいて、その景色で彼が単なる経営者とはぜんぜん違う人だったんだなあと思った。なんだか、ロックスターのお葬式みたい。知らない人には何事だろうと思われながらも、初めて会ったけれど同じことを想っているとよくわかってる大勢の人たちと、一緒に街へ出て悲しみを口にする、とても淋しい中ででも少しずつ何かを埋め合うような光景。
ほとんどの人は実際に彼と対面したことなどありもしないのに、それでも「もう二度と会えない、二度と分かち合えない」悲しみがそこにあるんだと思う。
愛されて旅立った人を見送るためには、残された人々がともに泣いたり「悲しいですね」と語り合える場所がかならず必要なのだと思った。わたしの場合は今回それがiPhoneだったので、何から何までお世話になって、と言うしかないね。

あまりに規模が大きいから、悲しみの力をあまりよくないことに使おうとする人が出てしまったり、ご遺族の悲しみが邪魔されないといいなと思う。もっともっと一緒にいたかっただろうと思う。
それから、彼の存在に勇気づけられていたたくさんの患者さんたちが、どうか力を落とさずにいられますよう。

2011-10-09 | カテゴリ: まじめなはなし | |  

 

伊藤くんのこと

twitterで、なにか穏やかで優しい話をしたくなって、だらだらと書いた 。
いろんな人に好きと言ってもらえたので、ここにとっておきます。

伊藤博文くんの話してもいい? #

きのう夢に伊藤博文くんが出てきた。2年間同じクラスだった。伊藤くんはとにかく勉強が出来て、外見もそれっぽくやせ型で黒縁のメガネ、運動はあまり得意じゃないし大声では笑わないし女子には近寄らないという、絵に描いた優等生だった。 #

名前が総理大臣なことは、誰も大っぴらにはからかわないけど「……ねぇ?(笑)」という感じで。ちょっと気を遣わないタイプの先生は「お前すごい名前だな!ちゃんと勉強せんと恥だぞガハハ」なんて笑ったりしてた。最初の自己紹介の時に、ちょっと嫌そうに小さな声で名乗った顔を覚えている。 #

伊藤くんはクラスの「地味め・高偏差値・インドア」なグループの男子とあっさり仲良くしていて、わたしはなんというかちょっとキャピッとした位置にいたので接点はそうなかった。でもあるとき、話がまどろっこしく分からないと評判の先生の授業の後に、ふと広げっぱなしの彼のノートを見てしまった。 #

ノートの隅っこに書かれた「正」の字は、まぎれもなく先生が「要するに」と言った回数だった。すぐにピンときたのは、わたしも同じことをしてたから(ひとっつも要されてないんだよ!)。「今日は××回だったね」とこっそり話しかけて、それからわたしたちはちょっと仲良くなった。 #

ある時、ジェンダーフリーの授業というものがあった。学校のカリキュラムだったのか、当時の担任の考えで設けられたものだったかは分からない。男らしさ女らしさって何?男女平等って本当はどういうこと?みたいな議題で、自由に意見を交わす授業だった。 #

(ちょうどその頃「男女混合名簿」が議論されていて、わたしたちのクラスは試験的に一学期だけ導入されてみたりでちょっと翻弄されていた。でも男女の間にあまり壁のない、男子と女子という分かれ方で対立したこともないクラスだった。) #

担任教師は、なぜ会社員に男性が多いかから考えてみようか、と言った。女性は途中でやめるから?いや、そもそも就職の時点で男子の数が多い?大学に進む人の比率は?と話が進み、誰かが「男子の方が成績がいいからかなー」と言った。そこで担任は「伊藤、どう思う」と意見を求めた。 #

伊藤くんはそういう場面でどんどん意見を言うタイプではなくて、そのときもだいぶ時間を置いてから話し始めた。そして、仮説はいろいろ立ててみても結局はよく分かっていないんです、僕はそういうことを真剣に考えたことがない、というようなことを話したあとで、うんと間を置いた。 #

だいぶ時間が過ぎた。終わりなの?とみんなが思った頃伊藤くんは「ただ僕は、自分よりも椎名さんの方がずっと頭がいいと思ってます」と言った。とにかく驚いた。「だけど、だから働くべきとかは言いたくなく…」とかいろいろごにょごにょ言い、そのうちに下を向いて座った。担任がただ微笑んでいた。 #

そのあとしばらく伊藤くんはわたしと目を合わせてくれなかった。あんまり話もしてくれなかった。女子の間で「伊藤くんって話したらいい人なのかも」「かわいいとこあるかも」の声が出たことが恥ずかしかったんだと思う。そして「ていうかユリちゃんのこと好きなんじゃないの」の声も。 #

ここで書けるのはこのくらいかなあ……。 #

名前についてはだいぶ打ち解けてから「あのねえ、いくらうちが伊藤だからって、やっちゃうことはないだろうって言いたいよね親に!」「……でも、ちょっと後悔してる気配もあるからまあ許すしかないかな」と困ったような笑顔で話してた。それが本当にとてもかわいかった。 #

 

twitterに書いたのはここまで。

つづきを読む

2011-09-20 | カテゴリ: むかしのはなし | タグ:  

 

BAD girl and BAD disease

それは昨日のこと。twitterをみていて、暗澹たる気持ちになってしまった。
やりきれなくて、それをtwitterで告白した。

これについていろいろ考えていて、暗澹たる気持ちになってしまった。
http://t.co/1zdP3YY #

リンク先にあるのは、ポケットティッシュのような見た目をした紙だ。尿をつけて色の変化を見ると、尿のpH(酸性とかアルカリ性とか)がわかるのだという。それが何の役に立つかというと、性病の早期発見ができる、らしい。ヤバい菌がいるとアルカリ性になり、中性ならセーフ……そういうことらしい。

いいえそんなわけはない。STDにかかった人は全員おしっこがアルカリ性になるだなんて!ばかげているにもほどがある。

(STDの検査を受けたことのない人は、わたしのうろたえる理由がよくわからないかもしれない。少なくともこれまでにわたしがクラミジアなどの検査を受けた医院・病院(思い出せる範囲で8軒ある)で、尿のpH検査を行ったことは一度もない。綿棒のようなものを使って膣内の分泌物を採取するか、あるいは採血するか、そのどちらかだ。)

だけど商品の説明だけを読むと、まるですばらしいもののようにみえた。病院に行って名前や顔を出すこともなく、自宅で手軽にチェックできて、使い終わったものはお手洗いに流すことができて、そして何よりもとても安価で。いいことづくめだ。
でもそれは、当たり前だけど「信頼に足りるデータが得られるならば」のお話。そうでなければ何の役にも立たない。立たないどころか、もっといやなことが起こってしまう。
つづきを読む

2011-09-08 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ: ,  

 

ガールズヘルスラボのコラム

わたしの文章が載っています。

風俗嬢コラム Worker’s Live!! – クラミジアとわたし

今回は「STDにまつわる短いストーリー」を書きたいと思っているので、この文章は100%わたしの体験談というものではなくフィクション成分がだいぶあるのですが、書かれている思いはまぎれもなくわたしの長年抱えているものです。クラミジアをはじめSTDに対する、複雑な思い。

STDは日常的にセックスをする人であればいつでもどこでも感染の可能性があり、それは「予防の対策はいろいろあれど、100%が難しい」という点で風邪やインフルエンザとおなじなのですが、だからといって「風邪ひいちゃってさー」みたいに「クラもらっちゃってさー」とは同業の人間どうしであってもなかなか言えることではありません。

STDにかかる、ということが、人間として劣っている、ふしだらな者であることと同じ意味になる。
接触する相手やその方法を自らの判断と査定で選んでいるとは言えないセックスワーカーの間でさえ、そういう空気は流れているのです。
そしてなぜか、客に対してもそれを告げることは難しい。告げれば「病気を撒き散らし迷惑をかけた」ということになります。そのウイルスが、客から受け取ったものであっても。

ウイルスは人を選びません。人の心を見ません。どんなに誠実な心で、将来にわたって共に過ごすことを前提にして臨んだ性行為であっても、感染する可能性は風俗店で行われるそれと一切変わりありません。

ならば、人生のどんな場面でも「あなたは最後にいつ検査をしましたか?」と訊ね合って結果が印刷された紙を交換してから、ベッドに入るようにしましょうか。
そうでなければ、感染した人を「軽率だ」とは言えないのです。

 

そんなような、ややこしくも避けて通れないわだかまりを、少しずつ書いて行こうと思っています。

けれどSTDについて考えることは、明るい話題ではなくとも奥の方に自分や他人のからだやいのちについて思いをめぐらせるどこまでも広く自由な大地も広がる可能性が埋まっているように思います。そんなこともどうにか表せたらいいけれど。

またそのうちに更新されるので、よろしくお願いします。

 

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