おはなしノート

HPVワクチンの話(1)

わたしが子宮頚がんというものを強く意識し始めたのは、2010年のことだった。

前の年の終わりに日本でサーバリックスの接種ができるようになったニュースに対しては、ようやくだ、よかった、という感想を持ったものの、自分には(この先子どもを養育しない限り)直接関係のないこととして受け止めていた。「10年遅いよ」と思った。
わたしはもう、大人になってしまったから。10年前ならば間に合ったのに。という気持ち。

ところが、このことについてもっと考える機会がもたらされることになる。2010年の夏、子宮頸がんがもう一歩わたしのそばへ近づいてくる出来事があった。
それこそ10年ほど前から好きで見ていたウェブサイトを運営している女性の日記ブログに、その病名は出てきた。少し前から、病院でのごはんやベッドの写真、入院するよという記述などがあって「今日はお泊まり!」だとか「思ってたよりボリュームあって太っちゃいそう」なんて元気にお茶目に書いてくれてはいたのだけれど、どうしたのかな、とちょっと心配していたところだった。そして、記された「子宮頚がん」という文字に、わたしは息を飲んだ。 つづきを読む

2012-02-12 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

2012

いつにもましてお正月気分がぜんぜんしません。
それでも日付は変わります。
お慶び申し上げるほどの気持ちでいなくても、どんな仕様もないことが起こっても、日付だけは律義ですね。

わたしといえばMacBookのメモリを増設しているうちに2012がそこにいました。
10年前にはこれを自分で出来るなどと夢にも思いつかず、こんなことがすいすいできるなんて男の子ってすごいなあと思っていました。今思うと笑ってしまいます。
あのときは、512MBを1GBにしたんでしたっけ。
それにしてもメモリは安くなりました。
タイムマシンで買いにきている2009年ごろの人が、もしかしたら紛れているかもしれません。

目覚めたMacは以前に比べてずいぶんとすっきりした面持ちでしたので、あ、よかったね、と思いました。
わたしも、やりたいな、それ。
やれればよかったのに、あいにく人間なのでだめなんだそうです。ちぇっ。

メモリひとつ取り換えられないシステムのくせに大きな顔をしている人間のわたし。
壊れたらそれまでの野蛮な存在。

「だれだってできるよ、静電気だけ、気をつけるくらい。ああ、あと、ネジ。なくさないことと」
そう言ってくれたあの子がもしもわたしにもっといばっていたら、女の子にはできないだろうね、と言っていたら、わたしは今もひとりでMacBookの裏のフタを開けられなかったでしょうか。

タイムマシンがいつも、もしあれば、未来を夢見て過去を懐かしむだけの小道具として語られているといい。
誰もがみんな同じように、そのこと以前に戻りたいと願うような日が、来ませんように。
そんなおそろしいことが、起こりませんように。

 

じっさいにはほんとうにタイムマシンが使えたら過去のじぶんに全財産をアップルの株につぎ込めって言いにでかけるよね。

2012-01-02 | カテゴリ: たわいないはなし | |  

 

スポーツニッポン1230

昨日12月30日のスポニチに書いた文が、出来はともかくわりと自分で好きな感じだったので、
たまにはtwitterで宣伝してもいいかなと思っていたのですが

きれいさっぱり忘れておりました。
ああ。

なので、年の瀬のどさくさに紛れてここに置いておきます。

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2011-12-31 | カテゴリ: たわいないはなし | タグ:  

 

バスルーム

クリスマスにお客さんから、バスオイルのギフトをもらった。
特別なイベントごとでなくても、プレゼントに入浴剤をもらうことが多い。

女の子への贈り物、という感じがするし、使ってなくなるものをと思ってくれるのだろう。でも普段あまりお風呂まわりにこだわりのなさそうな(タワーマンションに最新の家電と住んでいて、お風呂ものはコンビニで買える商品ばかり)人が、どこでもは売っていないとても凝ったセレクトのものをくれて、不思議に思ってそっときいてみたことがある。

そうしたら「シーナちゃんお風呂が好きそうだから、デパートで店員さんに入浴剤の高くていいやつくださいってきいたらこれが出てきたー」という返事がかえってきた。 風呂場で長いこと遊ぶから、お風呂好きのイメージなんだよね、と。
実際にはお風呂でプレイするのはその人自身の趣味で、最初の時に頼まれて以来わたしは続けているだけなのだけど、そのときはとてもうれしかった。

彼らはお風呂場にいると、素直なように思う。ベッドの上よりも。
泡だらけになって洗い合ったり水鉄砲を飛ばしたり、という時間だけでなく、お湯の中で絡まり合って身体を触ったり舐めたりしている時でも、ベッドでのそれに比べると獰猛さや図々しさが弱まっているように感じるのだ。単純な楽しさ、うれしさ、男の人が持つどこに向けられたものでもない甘い恥じらい。そういうものがシンプルに伝わってくる瞬間に、バスルームで出会うことがけっこうある。それはとても素敵なので、疲れるけれどやめられない。

水に触れたり血行がよくなったりしてリラックスするせいなのかもしれない、となんとなく自分では考えていたのだけど。
「上になっていないから」というのも、あるんじゃないかしら……そんなことに、最近ふと思いあたった。

ベッドの上では、どうしても上と下ができてしまう。寄り添って愛撫することもできるけれど、それはあまりポピュラーではない。たいていの場合彼らは(無意識なのかそうでないのかはあるだろうけど)、上から覆いかぶさる形をとろうとする。
どちらがリードするわけでもなく上になったり下になったりするセックスがわたしは好きだけれど、仕事だとなかなかそうはいかない日もある。仕事であるうえ相手はよく知らない人なのだ、上下を交代することさえも上になっている人が主導権を握ることになる。それが男性で、まして「お客様の人」なんだもの。どうしても、あちらがこちらをひたすら「攻略」するようなプレイになる場合も多い(その時々での接客上のキャラクターなども少し関係しているだろうか)。そういうときの彼らは年代や性格が違ってもなぜか似通っていて平凡で、あとから思い出せない。

本番強要をはじめとする様々な「困った要求」は、たいてい上から降ってくる。 そしてこちらが受諾せずにいると彼らは迫ってくる、言葉や腕力や体重や、それをいつでももっと行使できるぞという揺るぎない威圧感をもって。それはあからさまに「気が大きくなっている」姿だ。

お風呂に入っていると、上下の体勢をとることはない。わたしが客の脚の間に入って向かい合っているか、同じ方向を見て重なるようになり後ろから抱えてもらう形になるか(これのせいでペディキュアをさぼれない)、もしくは向き合った彼の伸ばした脚の上にのっかってキスしたり、少し浮いてもらってフェラしたり。相手には基本的に安定した姿勢でいてもらって、その上でわたしがくるくると動く。身体の小さい方がささやかな主導権を持つ。 めったにないことだ。
それはなにげなく見えるけれど、彼らを「セックスにおける男らしさ」から、なにかひとつ解放する手助けとなることがあるのかもしれない。

自分のアシストがあったかどうかなんかに関わらず、とらわれていない人と過ごすことがわたしは好きだ。男らしさとか女らしさとか、公序良俗だとか金で買った関係だとか、とらえようとするさまざまな動きにさらされたこの場所で、それらに取り合わずただわたしの手を取って飛んでくれる人が好きだ。いつでもそうしようと誘っているわたしに気づいてくれる人がとても好き。

「高くていい入浴剤」は、もったいないというその人を説得して彼の家で使った。指の皮がふやけるまで遊んだ。

2011-12-30 | カテゴリ: たわいないはなし | タグ:  

 

空から甘い実が落ちてくる

朝まで働いてくたくたになり、ベッドの中で最近好きなアプリ(みつばちになり花から花へハチミツを集め飛ぶという、運動神経をまったく問われない点がわたしに向いているグラフィックの美しいゲーム)をちょっと遊んでから眠りにつき、お昼ちょっと過ぎに目を覚まして、サイドテーブルのiPhoneを引き寄せてtwitterをぼんやりと見ていたら、そこに「ありがとう」という文字がいくつもいくつも、次々に流れてきた。それでスティーブ・ジョブズの訃報を知った。

わたしが初めてAppleの製品を見たのは近所に住んでいたお兄ちゃんの家でだと思う。パソコンというものは物々しくてかわいくないけどリンゴのマークはかわいい、と思った。高校生でG4を使い、それからiPod、iPhone。

だから、いろいろ素敵なものをありがとう、という気持ちももちろんあるし、あの気性の激しさとあどけなさや繊細さが同居したセクシーさ、圧倒的な鼻持ちならなさ、知り合いだったらきっと絶対いやなのに見ている分には惹き付けられるめちゃくちゃさを魅力的だと感じてもいたんだけど。
わたしはあの人に、それとまたちょっと違う形の思い入れも、まったく勝手に持っていた。
似たような病気を持っている、という理由で。

病名はぜんぜん違うし、わたしの持っているものはずっとずっと大したことはない格段に気楽なものだ。痛みや苦労は比べものになりはしない。幸いここ数年は安定しているし、昨日も今日も自由にヘラヘラと生きている。ただ、治療していく中でとる方法や、生活に強いられる不自由さの種類に、おそらくよく似た性質のものがあるのではないかなと思う、ということ。それに思い至って以来、なんとなく彼に対して「アップルのすごい人」以上の親近感を勝手に持ち始めた。

子ども時代に別の病気を患ったとき、医師に「エリザベス・テイラーという外国のきれいな女優さんも、同じ病気になったことがあるらしいよ、だからきみもきっと美人さんになるから、どうかがんばってくれ」と力技で励まされたことがあった。言葉にするのは難しいけれど心の重荷がいくらかおりたことを覚えている。そうか、わたしもがんばって大切に治してゆこう、ではないけれど、そんなような不思議な気持ち。
名前しか知らなかった大女優よりももうちょっと身近にそう思わせたのが、AppleのCEOだった。

調子が良くなくて気分がささくれているときや、病院のベッドで不安な時間を過ごすあいだ、傍らにあのタートルネックを着たジョブズ(みたいないけ好かない人)があらわれて「それ、痛いよね。わかるわかる……ざまぁ」とニヤニヤする姿を想像して時をやり過ごしたことがある。病院では圧倒的に時間がゆっくりと進むものだからひとり遊びができなくては辛い。もはや現実を離れた「きむずかしやのスティーブおじさん」というひとつのキャラクターがわたしの中に生まれた。外国の絵本に出てくるような、色鉛筆で描かれたスティーブおじさんは口をゆがめてわたしを笑う。

そしてときどき本物の彼の姿を見る機会には(もちろんインターネットでだけど)、黒いタートルネックに包まれたその身体をなんとなく見つめてしまった。ここにもあの痛みが、いいえきっと何十倍もの忌々しい痛みが襲ったことがあるんだろう、とつい想像してしまった。もうできるだけありませんように、ずっと穏やかでありますように、と祈ってみたりもした。まったくばかげているとわかりながら。
こんなに圧倒的な人であっても病気は等しく襲ってしまうんだなあ、という当たり前にも程があることを考えたりもした。

この先もしもひどい発作があってうんうん唸っている時、今度は雲の上、虹の彼方からきむずかしやのスティーブおじさんがやってきて「お、やってるね」と言ってくれる、そのくらいの余裕がわたしにあったらいいなあ。おいしそうなリンゴをひとつ投げてくれて、でもきっと運動神経のないわたしはそれを受け取れず床に落としてしまうだろう。眉をひそめて「愚鈍な人間め」と怒られる。取らせる気もない剛速球だったくせに。そうだったらいい。

世界中の人が悲しんでいて、その景色で彼が単なる経営者とはぜんぜん違う人だったんだなあと思った。なんだか、ロックスターのお葬式みたい。知らない人には何事だろうと思われながらも、初めて会ったけれど同じことを想っているとよくわかってる大勢の人たちと、一緒に街へ出て悲しみを口にする、とても淋しい中ででも少しずつ何かを埋め合うような光景。
ほとんどの人は実際に彼と対面したことなどありもしないのに、それでも「もう二度と会えない、二度と分かち合えない」悲しみがそこにあるんだと思う。
愛されて旅立った人を見送るためには、残された人々がともに泣いたり「悲しいですね」と語り合える場所がかならず必要なのだと思った。わたしの場合は今回それがiPhoneだったので、何から何までお世話になって、と言うしかないね。

あまりに規模が大きいから、悲しみの力をあまりよくないことに使おうとする人が出てしまったり、ご遺族の悲しみが邪魔されないといいなと思う。もっともっと一緒にいたかっただろうと思う。
それから、彼の存在に勇気づけられていたたくさんの患者さんたちが、どうか力を落とさずにいられますよう。

2011-10-09 | カテゴリ: まじめなはなし | |  

 

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