とくに最近、同じようなメッセージをもらうことがたびたびあるのでちょっとしっかりお返事しますね。
(上に貼ったものを送ってくれた方だけにお伝えしたいわけじゃなく、質問箱を利用して送られた=質問内容が広く公開されるとわかっている、ということで引用させていただきました)
(あと、いちばん穏やかな言葉で書いてもらえていたのがこの質問↑だったので、っていうのもあります)
たぶんテキパキとまとめられずに長くなるので、のんびり読んでください。
質問の中にURLで言及されている椎名のツイートはこれです。
TRPの写真見ながら、この仕事してなかったら赤い傘さして歩きたかったかな、でもそしたらセックスワークに関心持ってたかな、みたいなめちゃめちゃ意味ないことを考えてた、次の人生では歩こう
— 椎名こゆり (@koyulic7) 2018年5月8日
あなたが感じた希望をわたしと分かち合いたいと思ってくださったことは、わたしにとって嬉しいこと、確かに嬉しいことです。嬉しいし、ありがたい。その部分はほんとう。
でも、あなたの希望をわたしが背負う、これはできません。無理。無理だし、「あなたならやれそうだから」といって知らない誰かの希望を託されるのは、たとえ共感する希望であっても荷が重いです。この部分は、受け入れられません。
めちゃくちゃ当たり前のことだけど、セックスワーカーはたくさんいます。それぞれの事情(これは「セックスワークをするに至った特殊でハードな事情」って意味じゃない。生きてりゃ誰でもそれぞれ事情があるよね〜ってな意味の「事情」)があり、それぞれの違った考え方と生き方があります。レインボーパレードについても、#私は黙らない0428 についても、そこにあるテーマをどんなふうに考えるか、催しの主旨に賛同するかどうか、参加したいかどうか、実際にできるかどうか、すべてそれぞれにあるでしょう。
わたしはどちらのパレードにも参加しませんでした。しなかったことはわたしの意思です。その形成には当事者性がもたらしているものも決して少なくありません。現場に足を運んで参加はしませんでしたが、たくさんの人たちがネット上にアップした写真や動画、綴られた文章を読むことによって力を得ました。
(なんで参加しなかったんですか、という質問に答えなくちゃいけない理由はもちろんないんですよ!その上で)
知っている人に会うとか写真を撮られるとか諸々嫌な思いをするとか、そういうリスクを想像すると直接参加することはできなかった、というのが理由のひとつにあります。それだけではないけど。
ほんの少しだけ淋しさのようなものはありました。もし歩けたらどんなだろうなあ……、という漠然とした、モヤッとした気持ちはありました。仕事を辞めて、さらにまとまった期間が過ぎ去り、顔とか見た目を変えたならばどうだろう……とかもぼんやりとは思いますが、そんなまったく現実的でないこと、イメージもできません。美容整形をするならもっと違った理由がいいよ。
知り合いに遭うのを気にしすぎだってば! と思われるかもしれません。でも、じゃあどのくらいの「気にする」が適切なのかって、正確に見積もれないですよね。むずかしい。すっごく数学できる人でも難しいと思う。
いまTwitterでわたしがチェックしているアカウントは、フォローとリスト合わせてきっと200〜250くらいです。たったこれだけ、たかがこれっぽっちの人数なのに
「何気なくTwitterをフラフラ眺めていたら突然自分のよく知っているお客さんのアカウントに遭遇してびっくり、仕事だとこういうキャラクターなんだなー」[*1]
「なんか会ったことあるような気がするんだよね〜いやいやロマンティックな意味じゃなくてさ……と思っていたお客さん、つい最近Twitter経由で読んだネット記事の登場人物だと確信、あなたプチ炎上してましたよね?」[*2]
そして
「新宿にてお客さんとばったり遭遇するも他人のフリくらいアタイにゃ朝飯前、眉ひとつ動かさず完璧に切り抜け……と思ったらお客さんがコントのように激しく動揺、お連れの人に『どうしたの?知ってる子?』と興味を持たれて台無しの巻」[*3]
どれも、経験があります。
本当かよ……ってなりますよね。わたしもそう思ってるよ。すっごく思ってるよ。世間はとても広く、同じだけ狭いです。インターネットもそうです。無限に広いくせに狭すぎるんですよ。なんなんですかね、少し手加減してほしいものです。自分の運の良さを信じてパーッと漕ぎ出すなんて、わたしはなかなかできません。こわいもん。
そして、「風俗嬢」として表に出るのも、「風俗嬢じゃない人」と偽って表に出るのも、どっちも簡単なことじゃない。おそらくこの質問のように、当事者は《心ない言葉を投げかける人》に怯え忌避しているのだ、と想像されていることは多いでしょう。けれどわたしが遠ざかりたいのは、大声のヤジやとんでもない中傷ばかりではありません。
仕事のことを明かしていない人と会話をして、話題がセックスワークまわりのことになったとき、複雑な思いをしたことある人はたくさんいると思います。あからさまに蔑視していない人、私は偏見ないよってスタンスの人であっても、当事者からすれば苦々しい思いをさせられる発言って、もう、本当にたくさんあるものです。たくさん、たくさんあるものです。
悪意からのものでないことは分かっているから勢いよく抗議などはしたくないし、自分が当事者だと明かさずやんわり指摘すれば何も知らないくせに小煩い人だと疎まれるかもしれない、当事者だと明かせばそんなつもりじゃなかったとか、知らなかったから、とか言われて「いいんですよ、知らなかったわけだし」と言って微笑んで許してあげなくては「当事者様かよ」と思われたりそれか悪気のない質問ぜめにあったり……などなど、ああ、どう転んでもなにもかもが億劫です。そういうやり取りがあまりにも多く行われすぎていて、休日の、プライベートの自分の心を守るためにいろいろな場所や出会いをあらかじめなんとなく避ける。そういうディフェンスに覚えがあるのは、わたしだけではないと思うんですよ。《せっかくの運動》のためにその程度のリスクは負えよ、と思う人もいるのかもしれないけど、ちょっと言われたくないなあ。
当日の写真に「セックスワーカーのことをセックスワーカー抜きで決めないで」といったプラカードを見ました。当事者抜きで物事を決めて動かしてはいけない、というのはほんとそれ! と思っていますし、それなのに当事者が排除されてきた苦渋の歴史もあることと思います。
当事者という存在の重さ、大切さを理解しているがために、“有益なムーブメントなのに、期待していた当事者自らがみすみす距離を置き、尻込みする姿”がとても情けなく、じれったく感じられる——ということは十分あると思う。想像できます。
確かにイライラするかもしれない。おいおい戦いなさいよ、あなたが傍観していてどうするんだ、 だってこれあなたのためなんですよ!? 当事者が声を上げなければ「善人ぶりたい外野が乗っかって勝手に騒いでる」と言われて片付けられてしまうのに(実際そういうこと言われますもんね……) 何してるんだよもう! ってなるかもしれない。
問題意識を持ってくれているゆえに、そうして歯がゆく感じることになるのだと思います。「もっと戦ってくれると思ってたのに」というご意見もいただきました。ご期待に沿えなくて誠にすみませんでしたね。
わたしは自分が当事者だということでもたらせるかもしれない有益さよりも、わたし自身のその日その時の気持ちを優先してしまいます。それが「ひいては自分のためになる」ことだと思っていても、そこまでがんばれないのです。
仕事中のわたしが「戦う人」な表情でいることはまずないです。楽しそうにニコニコしていたり、少し緊張した面持ちながら期待のこもった上目遣いをしたり、冗談だと明確に分かるスネた顔を作っていたり、ひたすら穏やかな微笑みで相手の髪を撫でていたりするので自分でもその最中に自覚はありませんが、でも、たぶん戦っています。なにと対戦してるのかはわかんないけど。
それらの顔を一切崩さないで、目の前の客はどういう人間でいまこの瞬間何を考えていてわたしにどういう印象を持っているか、どんなことを期待していて何を表現し何を隠しているか、これからどんなプレイを組み立てればいいか、緊張や不安や後ろめたさをどのくらい持たれていて軽減するためにはどんなふるまいが有効か、心の中の立ち入ってはならない場所を守れるか、体格の差や相手の性分から考えてついうっかりの事故が起こらないようどういう体勢を確保するべきか、
身体に気になる腫れやしこりはないか、唇のふちに出始めのヘルペスはないか、部屋に不審な機器がないか、凶器になるものがあるか、枕の下になにも隠されてはいないか、バスルームのカギの種類はどんなのか、万が一有事が発生し逃げ出すとしたらどう逃げるのが最も希望があるか、どうしたらこの凶悪なわけのわからん口臭から意識を逸らせるか[*4]、もういいかげんこんなの、読むのもウワーッてなりますよね?
そういうふうに働いてます。
そして一日の終わりにお金を受け取って少し報われたような気になり、面白おかしく茶化した形でムカつく客の愚痴を言い合ってせめてものストレスを楽しく吐きだし、クタクタになって家に帰ってせっせと保湿クリームを塗り込みながら、いややっぱムカつく許さんと思い、寝る前に眺めたツイッターで「短いボトムス姿は外国なら売女と思われても文句は言えませんよ」だの「風俗のおかげで一般女性が守られている、感謝こそすれど差別など」みたいな巷のご意見を目にしてやれやれ、ああそうですかそうですか売女ちゃんは寝るぜ! とベッドにもぐりこんでいるわけです。
休みの日には録り溜めた「きょうの料理」を3倍速で見ながら献立を考えたり、眼科でおでこをくっつけて気球を見てくださいと言われたり、ぜったいに必要とは言いきれないモノの衝動買いネットショッピングを自分に許してしまったり、寝る前に眺めたツイッターで誰かの心強い言葉を聞いて、少し元気になって眠りについたり、しています。
で、ときどきこんなブログをちょっと書き散らかしてみたりする。
これがわたしの精いっぱいです。これがわたしの精いっぱいの「戦い」みたいなものです。
(こちらは特に「誰かの心強い言葉」として共感し励まされたスピーチのひとつ)
《聡明で勇気ある》などという言葉は身に余ります。いりません。もしわたしに勇気があるとすればそれは風俗嬢だと明かした上でこんなブログだのを書くというのに使っちゃってます。ときどき送られてくる「早く死ねよ喋る肉便器www」というメールを見てもiPhoneを取り落として画面にヒビを入れるようなマネはせずにそっとゴミ箱ボタンをクリックする、そのための気力に使っちゃってます。ストックを確保しながら回せる余裕はありません。勇気と気力の自転車操業、つねに火の車だよ。キコキコいってるよ。
聡明ってなんなんでしょう? 自分の考えを持っているのに感心しましたなどと言われることもありますが、自分の考えがあるセックスワーカーはいくらでもいます(まさか性的サービスを仕事にする人はみな物事を考えていない、というような、『きっとそうだろう、そうに決まってる』で生み出された説を採用しておきながらわたしに話しかけてきたんでしょうか、ホメてるからいいと思ったの?)。だってすべてのセックスワーカーには心があり気持ちがあるもの。「どうしていいかわからない」もひとつの考えでしょう。あなたにも考えはあるでしょう。たまたまわたしはそれを文字にすることが億劫じゃないタイプで、たまたまインターネットがあり公開できる場所があった。そのせいであなたの目にも留まった、それだけのことです。
そうしたら「あなたは聡明で勇気があるのだから、もっとやれ」と言われる。「あなたみたいな人なら差別もしないし全然応援しますよ」と謎の合格点(に見せかけた見下し)をもらって分断される。どうしてでしょうね。
「声を上げられるあなたは強い。わたしとは違う、わたしにはできない」と言われるのも、またつらいことです。わたしたち、喋ったかどうかで仕分けされる必要なんてないのに。
こんな思いをすることまでも受け入れなければ、「自分の考え」を口にする資格はない、ってことでしょうか。もっと誰でも気軽に自分の思いを言っていいし、言えるべきだと思うのに。なにか表現したり行動した人にそれ以上のことを期待して重荷を背負わせ、思った通りにならなかったからといって失望してみせるのは、行動する人を減らすことにつながるばかりで何の役にも立ちません。これこそ《実を結ぶ日が遠のく》そのものなんじゃないのかな。
パレードやイベント、ムーブメント、そのすべてはとても追いきれていないはずですが、この春に行われたものもできる範囲内でネットを通じて触れました。性差別や性暴力について扱うものはそれだけで心が削られてしまうところがあるので、力を与えてくれるタイプのメディアであっても続けて接することが難しく(余計な中傷などがくっついてきてしまうことも多いしね…)時間がかかりましたが、なんとか力強さや勇気やあたたかいものを残して心の中に置けています。そういうふうに自分で距離をコントロール(これが大事なんだと思う)しながら、その時その時にできる範囲内で考え続けていくと思います。
くり返しになりますが、セックスワーカーが連帯と意思表示の場を奪われていることをあなたが不当だと思い、行動をし、そこで見た希望を分かち合いたいと、わたしのことを思い出してくださったこと、それはありがたいです。これからも関心を持ち続けていただけたらどんなに嬉しいかと思います。でも、わたしはその時のわたしにできる範囲内のことしかできなくて、それはあなたの見積もりや期待より小さいこともあります。
ご期待に沿えなくてすみません。
でもその「ご期待」っていったい何でできているのか……? それを、一度考えてみてほしいです。
「椎名さんはそんなに弱い人じゃないと信じています」とも言ってもらったけど、おかしいですよ。見間違いでしょう。あなたの期待に応えてみせるのが強さなら、わたしは弱いです。当てにされているよりも、ずっと弱い。心も身体もよわよわ、すぐ泣くしすぐ具合悪くなるしすぐ欠勤します。店長ごめんね!
強くなれたらとも思いますが、強くなければダメということはないと思うし、弱い自分にできることは何なのかを考えています(誰でもそうだとおもうんだけど、人の強さ弱さって表裏だったり部分的だったりするし、他人が測定しようとするのも変な話ですよね)(「あなたは強い」とか「弱い人間のすること」とか簡単に言えちゃうけど)。
信じる、と、期待する、は別のことです。ごちゃまぜになりやすいけど、ちがうことです。他人に期待すれば多かれ少なかれ失望するでしょう、思い通りにはならないから。けれどあなたにはあなたの考えがあり、あなたにはあなたのできることが必ずあります。それぞれができることの範囲を尊重しながら自分のできることに向き合うことで連帯がかない、それこそが直接の当事者と、そうでない場所から支えようとする人とをつなぐものでもあると思っています。そうして油が差されてちょっとましなキコキコになるかもしれない。
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さて、ここまで「あなたのように声を上げられる強い人はもっと戦え」と言われることへの苦痛と反論を書いてきました。ところが、これとまったくの反対に見えるお叱りも受けるのです。
「あなたのように声を上げられる強い人は黙ってくれ、その他の何も言えない弱い当事者たちの害になる」というように。おやおや、ふしぎですね。
長くなっているので別のページにつづきます。いつも長くてごめんね。
*1 お仕事で著名人と撮った写真をアップしていたためにわかってしまいました
*2 渡された名刺の名前と会社名に見覚えがありわかってしまいました
*3 お連れの方が察してくれたようで、デリカシーあるふるまいにより大丈夫でした♡ありがとう!
*4 この問いにだけは答えが出ています。「考えるだけムダ」です