前のページからのつづきです。
(前半のあらすじ)
筋金入りの出不精でごろごろしながらネットを見るのが日課の風俗嬢、椎名。我らの労働環境ってよくならんのかねー、道徳がどうのとか言い訳にして人間扱いすら怠るやつがちょいちょいいるから危なくってやってらんねんだよ安全第一だろふざけんなよー。というブログを書いていたところTwitterで少々拡散される。すると「えらい」「声を上げた勇気ある当事者」と呼んでくる人が登場、呼ばれるだけなら居心地が悪いだけで済んだもののセックスワーカーの問題が話題になるたび「この件には何も言わないのか」「もっと戦え」「あなたは強いのだから貢献するべきかと」と変な叱咤激励をされるように。待ってくれ、そんな約束をした覚えはない。勝手に期待して失望している間にあなたはあなたのやれることをやろう、それぞれの持ち場でそれぞれの体力に無理のないだけがんばろう。身体には気をつけて大事にしよう。
そんなある日、椎名の前に「あなたは強いので黙りなさい」という人も現れたからもう大変!
まるっきり逆でややこしい上に、どっちもムリ。一体、どうすればいいの——!?
変な次週予告みたいにしてしまった。
そう、「あなたのように声を上げられる強い当事者はいいかもしれないが、その他の何も言えない弱い当事者たちのことも考えて下さい」といったお叱りを受けたこともあるんです。セックスワーカー支援を行うNPOに所属している、と名乗っていた方からのもので、わたしはそのことにさらに大きなショックを受けました。
(かんたんな当時のいきさつ)
その前日、わたしはこちらの身体をとても乱暴に扱ってくるタイプの客に運悪く当たってしまい、身動きが取れず相手が射精するまでひたすら耐え続け事無きを得たものの、軽いケガをする……という悔しい経験をしたばかりでした。そのことをTwitter上でウワーン悔しいよ〜と愚痴りまくったあとに「この体験談を、みんなも耐え抜いてなんとかしのごう!って意味に受け取らないでほしい。可能でさえあれば危険なときは部屋から飛び出したっていいはず、初めから逃げる権利もない立場なんだって思い込まされて我慢しないでほしい、私たち逃げたっていいはずだよね」……というツイートを書いたのです。
それに対し、「『いざとなったら逃亡する』というのはパワーのある人の発言」「性風俗が密室、1対1である以上は対策は無い」「暴力をふるう客からは逃げるよりも謝るべき」「あなたが対策があると主張すると、結局はセックスワーカー自身に自己防衛という自己責任を要求させ被害の訴えを無力化することにも繋がる」と、言われてしまったのでした。逃げてもいいのだから逃げろさもなくば自己責任だぞ、という主旨ではない、絶対に有効な策などないがなんらかの逃げ方を試行錯誤するのをあきらめる必要はないはず、と説明したつもりでしたが受け入れてもらえず、対話はまとまりませんでした。
(いきさつ終わり。)
もう何年か前のことですが、思い返すたびに今も胸がつぶれそうです。たった一日やり取りをしただけなのに、このようにすっかり根に持ってしまっています。むかし流行った占いでも「意外と根に持つタイプ」と書かれていたので仕方ないですが、もし生まれたときもっと難産で誕生日が1日ズレていたとしても同じだと思うんだよね……わたしとしては根に持ってるつもりはないんですよ、だってリアルタイムでつらいから!
《セックスワーク自体を否定せず、意見を言う当事者=一部、強い、自己決定だから自己責任》《そうでない当事者=その他多数、弱い、無力、保護や救済の対象》という決めつけと分断[*1]をされたと感じましたし、その仕分けは間違っているうえに有害なものです。「我々は本当に弱い人を助ける、彼らは声も上げられないはずだ、声を出せるならその人は強い」という言葉をもって行われる『支援』がどんなものになるかを考えてみてほしい。それによくこの話題では自己決定と自己責任がイコールのようにいわれるけれど、そんなことないですよね。以前の記事に書いたことがあるけど、自己決定という言葉はすべての原因や責任を無条件で本人のみへ落とし込める裏ワザではないし、自己責任論を退ける裏ワザとして自己決定権を否定してみせるのもおかしな話です。
それでね、どうして今わざわざこの話をするのかというと、この反発は、今回の「言えるあなたは強いのだからもっと戦え」という声に対するものと共通する部分があるからです。○○な当事者、として分類され、役割を着せられるのは苦しい。言うことによって、または言わないことによって、どっちにしろ誰かの都合に合う当事者として存在を許されたくはありません。
正当な理由なく自分の身に押し付けられる嫌なことについて「おかしい、そうじゃないよね」と言った、それだけだったはずなのに。
(マイノリティの中に極端に権力を持つ人がいるとその中でさらに弱い立場にある人がもっと不利益を受けることがある、というのは、そうだなあ、と思います。でも自分の思うことを自分の意見として話しただけで、他の弱い人のためにわきまえろと言われることは受け入れられないよ)
前のページで紹介したげいまきまきさんのスピーチで、彼女は「セックスワークは、自分の心身を他人に好き勝手にさせること(=モノになる仕事)と思っている人がいますが、そうではありません」「セックスワークは暴力を受けることが仕事ではありません」「どんな仕事にも人権がある」とメッセージしています。
これに対して、「『セックス』を『お仕事』として承認することは、他人の権利侵害や性差別の助長といった重大な社会的、公共的な問題と密接に結びついている」という理由で否定している文章を読みました。発行元を見ると、わたしの呼びかけを告発の無効化だと批判した方が所属されていたのと同じPAPSというNPO団体でした(当時やり取りした方が現在もつながりがあるかどうかは知りません)。それを見て、心に残っていたしこりがゴリゴリと痛みました。
読んで同意できないなと思った部分はいろいろありますが、佐原チハルさんの書かれた記事があるので紹介します。
”https://note.mu/tiharu/n/naef44a2c8d8b”とくに中盤からの『性産業は「買う男性」と「売る女性」という関係性の承認と固定化(略)ジェンダー不平等(男の「性」のあり方、女の「性」のあり方の不平等)を強力に推進し、発信する』という説をほぐして崩しているところとか、こういった問題について考えたいけれど堅い文章だと飲み込みにくくて上手く考えられない……という人に読んでみてほしいです。やさしいので。
PAPSの文章を読んでみて、彼らにとってセックスワークは決して仕事ではない(仕事とはなりえない)のだな、仕事と呼ぶことは欺瞞だと捉えているのかもしれないな、と思いました。そのためわたしたちは労働者ではなく、おおかた「心ならずも公序良俗に反した方法でしか生活ができない状態に陥ってしまった人」「尊厳を手放し、引きかえにお金を得ることを、こともあろうか“仕事”と呼んで耐える、そうしないとやっていけない人々」といった感じに思われているのではないかな、と(もしかしたら、辛さのあまり「私は好きでやってるんだから放っておいてよ」と強がる、そんな自己欺瞞から抜け出せなくなった女性だと思われているかも、なんて想像もします)。
なのでわたしたちの目指すべきは何をさておいてもまず「セックスワークからの脱出」であるはずなのでしょう。それを望まない、ましてやセックスワークを肯定した上でよりよい労働を求めるなんて、ましてやましてや当事者同士でエンパワメントし合うなんて、もってのほかなのかもしれません。
彼らはセックスワーク=客からモノ扱いをされること、と単純に定義づけていることが文面からわかりますが、確かにわたしたちは時々、モノとして扱っていいんだろうと勘違いをした利用者にめぐりあってしまうことがあります。決まりを守らずわたしたちを尊重しない客が存在すること、それによって労働がじゃまをされていること、脅威となっていることはまぎれもない事実です。かなり事実、ぜったい事実、すっごい事実。ほんと怒ってるぞ! でもそれを根拠に用いて産業そのものをなくせと言われ、仕事を取り上げられる(そして暴力に抗うことは否定される!)というのはよく分かりません。まきさんやわたしが「私たちはモノじゃないので」と言うとき、それは礼儀知らずの客にだけ言っているわけではないのです。「当然モノ扱いされるべくしてされる立場にみすみす身を置くあわれなおろかな人々」として扱って、わたしたちの労働をねじ曲げてくる人々にも言っているつもりです。
まきさんやわたし(そしておそらく他のセックスワーカーも)が持つ「私たちモノじゃないんで」って思い、それは横暴な客や経営者だけに向けられた言葉じゃない。公序良俗に反する消去すべき現象、と捉えて踏みつぶそうとしているくせに「救済」と嘯いて近づいてくるあなたたちにも当然思ってますよ。
— 椎名こゆり (@koyulic7) 2018年6月3日
佐原さんの文章中、『PAPSの文章もモノ化ダメだよねつってるのに、自身がワーカーを「モノ化」している』という部分はこういうことだと思います。悪質な客からワーカーへの乱暴なふるまいを「モノ扱い」と表現することに間違いはありません。しかし、性的なコミュニケーションの技術をサービスとして、料金をいただいて提供する——という商行為のことを、すべてまとめて「モノ扱いされる」と表現してしまっている。これではワーカーを「モノ扱い」する客を肯定してしまっています。
性風俗を利用するお客さんたちはみんな暴力的である、と思いこまれているのでしょうか。
お金のやり取りがある性的接触ならば、お金を出した側が偉いのだから何をしようと自由。だからモノ扱いして好き勝手やるに決まっている(やって当然、やむを得ない)。そう思われているとしたら、それはPAPSだけに限ったことではなく社会の中にちらほら存在しているイメージですね。「お金のやり取りがあるから」を「愛がないから」と表現する人もいます(愛という看板で暴力や搾取がカモフラージュされた性行為なんて、たくさんあるのにね)。
でも、このイメージは誤りです。想像で定義付けして語るのは、「風俗嬢は汗水垂らして働いてる人間を見下しながら楽してガッポガッポ稼いでいるんだろ」といったレベルのセリフと変わりない。『きっとそうだろ、そうに決まってる』で生み出された説です(今日2回目)。単なる想像がいつの間にか見識のひとつに昇格される、というのは誰しも知らず知らずのうちにしてしまうものかもしれませんが(後押しするような創作物もいっぱいありますしね)、こういうことになります。[*2]
ほかの産業がそうであるように、実際には「お金を出した側は何をしても自由」では全然ありません。そんなルールで運営されている風俗店もなく、どんな店にも何らかの形で決められたルール、していいことといけないことが存在します(ただね、そういうメンタルで運営されている店、はないと言いきれないのでつらい)(経営者にもいろいろいるはずですから、ルールがあっても羽根のように軽く扱われていて無いも同然じゃんってケースは正直あると思う)。店舗に所属していない場合でも何かしらの事前の取り決めはあるでしょう。
ルールを拒んで「自由だァー!」[*3]と思い込み、この誤ったイメージのまま押し通そうとする客(いるんだよ、やべえことに)は拒絶し排除する。誤ったイメージにはNOと言い、改まるようにはたらきかける。それは働く人の安全を守るための最も基本的なことです。怠れば権利や尊厳がすぐおびやかされますから(ほかの接客業にも同じようにある課題ですよね)。
PAPSの文にある「性的な『モノ』、性的な『商品』のような扱いは、彼女たちだけでなく、だれも受けるべきでない。そのように扱われる痛みを感じさせられる人を一人でも減らしたい──そう願わずにはいられません」という記述。これが本心なのであれば、彼らもまた、それをしてくれるはずではないのでしょうか。
または、直接の肉体的、精神的な暴力が現場になかろうと暴力だ、たとえどんなに客が礼儀をもってマナーを守り穏やかに振る舞おうとも、お金のやり取りに基づいて行う性的な行為は本来すすんでやりたい訳ないのですなわちサービスする側にとって暴力である、という解釈から、セックスワークはモノ扱いされることだと定義している、そういう可能性も考えました。
わたしはいつか自分の仕事について、「本来してあげる義理のないことにわざわざ応えるからそこに報酬が発生するわけで、それがサービス業」と話したことがあります(それだけで納得せず加害行為をしたがって『金をもらってるのだから我慢すべき』と言い張る客こわいよ〜、ってな話の流れでした)(あと「こころ」だの「愛」だの「本当のきみ、素の○○ちゃん」だのを求めてくる人、こっちの方が多いけどこれも迷惑だよね!)。
するとこの表現が少しショッキングだったのか、「そう考えると風俗なんて絶対に行きたくない」「風俗って悲惨」という感想を持った人がいたみたいでした。なのでそういう解釈もあるかもしれないなーって。
でも、性的な行為、のところを別のことにおきかえてもそう思う人は多くないんじゃないかな。
わたしたちは本来、知らない人を車に乗せる義理はないですし、荷物を運んであげる義理もありません。でも運輸業の人はそれをします。誰かの会社のお金の流れを計算してあげる義理などないけれど、税理士さんはそれをします。他人の身体をケアしてあげる義理はないけれど、看護師さんや鍼灸師さんやホームヘルパーさんはそれをしています、お金と引き換えに。これを悲惨な暴力だとするなら、すべてのサービス業は悲惨です(すべての労働が悲惨だし人類は労働から解放されようぜ! という考え方なら矛盾がないし、まだしもずっと理解できると思う)。
そうはいっても性に関することだけは自分にとって特別だ、ほかのサービスとはわけが違う、同じにはどうしても考えられない……って思う人は必ずいる、かなりの数いることだろうと思います。思う人も思わない人もいてあたりまえのことで、気持ちは尊重されなくちゃいけません。個人がどういう価値観を持つかは自由で、自分の価値観に沿った人生を送る権利がある。自分の中で区別をつけていい、好き嫌いしていいんです。パクチーが無理なら一生食べなくたっていいでしょう、誰にもとやかく言われる筋合いはない。じゃあ尊重するって具体的にどういうことか?
誰も性的なサービスを強いないことです。働く側でも利用する側でも、「単なるサービス業でしょ、そう思えないってことはあなたの中に差別心があるってことじゃない?」というような理屈を使って無理やりに押し付けないことです。パクチーを食べない者は人として未熟だから口に押し込んで慣れされろ〜みたいなバカげた風潮をつくらない、社会がつくろうとすれば許さないことです。仕事を仕事として一応は受け入れているセックスワーカー個人の言葉を利用して、セックスワークが抱える問題すべてを「自分で選んでやってるから自己責任でしょ」と切り捨てる道具にしないことです。
この世から性的サービス業を消してなくすこと、そこにいる人の目を覚まさせること、ではないはず。
だけど、「公序良俗に反する」から存在ごと消すべきということにされてしまっているんですよね。セックスには、他のさまざまな個人的な行為とは違って特別に、当事者間の意思よりも優先すべき「公序良俗」と「承認」の可否があると。
わたしは出会ったばかりの人と裸で抱き合うことも、条件(最低限の衛生と安全、相手の態度と納得できる対価)付きで可能です。そういう性分なのです。それをしても、とくに何も失いません。けれどこの個人的な性分が、こういう価値観? で生きている人間がいるということが、耐え難いのだという人もいるんだなっていうのはなんとなくわかります。理解も共感もしてくれとは思ってなくて、ただ変わったやつもいるもんだな、とでも受け止めて別々の人生を歩んでもらえたらいいんだ。だけどそうはしてもらえない。なにが彼らを脅かしてしまうんでしょう、哀れんだり蔑んだりが必要なのはなぜ? それでごまかせるものは何? それでもまだ足りず国とか警察に介入してほしがるのはなぜ?
——しかも「救済」や「保護」という名目で。
こうなるとロマンティックラブイデオロギーや家父長制、廃娼運動、フェミニズムの歴史、などなどの話に広がっていくところでしょうか。きりがないですし難しくなってもう無理です。だってもう、そもそもこれ何の話だったか覚えてる? わたしとっくにもうわかんなくなったよ。
いっそここからパクチーのおいしい食べ方の話とかしますか。わたし嫌いではないけど大好物でもないけどちょこっと入ってるとかわいいなって思う。あの葉っぱの形がさ。コリアンダー、パクチー、シャンツァイ、シアントロ、いろんな名前があってぜんぶいいね。そういえばわたしもいろんな名前あるんだったよ。ぜんぶかわいい名前だよ。
佐原さんの記事で結びに書かれていたように、Sexwork is work. という「セックスワーク論」が時代遅れだとはわたしも思いません。それがスタンダードだった時代があったというの? だったら連れて行ってほしいよドラえもん。でも、わたしがこんなふうにいろいろ言うことを「セックスワーク論」と呼ばれるとしたら、なんか、すっごく変な感じです。当事者の中のたったひとりが、安全に働かせてくれよって言うことがセックスワーク論、なのかな。論ってなんだろう。論だなんて考えたことない。とにかく仕事、つまり生活を邪魔されたくないだけ。「そんな仕事をするなんて変わった人だなあ」と思われようが、安全に働けて脅かされず、他の仕事をしている人と比べて権利や尊厳を加減されなければそれでいいんです(これ、ぴんとこない人もいるかもだけど、例えば「風俗店で盗撮して見つかった貴方、一般女性より安い示談金で収めてあげますよ!なんせ相手は風俗嬢ですからご安心を!」みたいなこと書いてる弁護士事務所のサイトとかフツーにあるんですよ)(そして実際そういうふうに処理される)。たったそれだけのことがとても遠くてつくづく意味が分かんないからこうして文句を言うけれど、べつにセックスワーク論とやらの話がしたいわけじゃないんです。
個人的な気持ちを言うと、わたしが望んでいるのはセックスワークが良いものとされることなんかじゃありません(差別をしないで、尊厳を守って、って言うと、なんていうのかな……尊敬しろ感謝しろってことですか、なんて早とちりして受け取られることがあるんですけど、全然そうじゃない。差別構造のせいで実害が出てるから止めてくれってだけの話です[*4])。
わたしが望んでいるのは仕事のせいでわたしが心身を傷つけられない、損害を被らないこと。危険に晒されないこと。そしてわたし以外のセックスワーカーもそうであること。この仕事をしたくないのに強いられたり、辞めたいときに辞められない人が出ないこと。その上で、もうちょっと望むとしたら自分のお客さんが後ろめたさを感じずに楽しい思いをできることです。わたしと性的なコミュニケーションを築くことを通じて、思い描くファンタジーに少し近づく体験ができたり、他人が相手でもいたわりあって丁寧に触れれば心地よさが生まれると知ったり、会ったばかりの他人にどのくらいどんなふうに心のプライベートな部分を開示するかの難しいさじ加減を自分で決めるってことを経験したり、行きずりの相手に表面上の優しさを発揮することで自分にこころよさがもたらされたり、とらわれていた性的規範や役割意識から自由になれたり、お客さんが彼ら自身の身体や性と新たな出会いをして良い関係を築く、自分を受け入れ大切にする、なんかそういうようなことの補助ができたとしたらもう、かなりいいです。
いまもそういう実感を持たせてもらえる仕事がいくらかはあって、そんなときにはああよかったな、って思います。わたしはパクチーもセロリもゴーヤもいちおう食べられる体質だし、これからも細々とつつがなく続けていければいい。それくらいかなあ、望んでることって。あとは悪事を働く客がふしぎな力で根こそぎ滅びて、ついでに楽してガッポガッポ稼げたらもう最高なんだけどなー!どうにかなんないかなー!
以上、強くて弱くて話が長い風俗嬢からのおしらせでした。おやすみ!
*1 前者が後者に対する“理解”や“支援”の妨げになっている、というニュアンスも感じます
*2 あとだいたいのセックスワーク、ものすごーーーーーーーーく汗水垂れます、垂れまくります、息は切れるし汗は垂れるしそれで満足されず他の体液もドバドバ出せと言われるよ(唾液を要求されることもよくあるけどあれも限界ってものがあります)
*3 犬井ヒロシけっこう好きでした、というとわりと同意してもらえるのに、うどん亭きつねのことを覚えてる人があまりいないので淋しい しかしわたしも「うどん亭きつね」の語感が頭に残っているだけで他のことはもう何もわからないのでした
*4 権利の回復をもとめたら「優遇しろというのか!?」と言われるの、セックスワークに限らずあるあるですよね