夏の終わり頃に、カミングアウトについての議論に触れる機会がありました。
きっかけは、どこかの雑誌が、ある男性のセクシュアリティをアウティング(本人が公表していないことを、同意を得ず暴露すること)したことでした。その人物がトラブルの渦中にあり、どうやら擁護のしようもない状況だとたくさんの人が彼に対して深く失望していた最中だったため、そのセクシュアリティを侮蔑したり面白おかしく揶揄したりする人が出てしまい、特に同じセクシュアリティを持つ人にとって失礼で暴力的な言葉があの時期にはしばしば飛び交っていました。
——「疑惑」とかいう言葉はどう考えても不当でしたが、その報道自体については、わたしはいまはっきりと「間違っていた」と言えません。アウティングはあってはならないこと、というのは強く思うのだけど、でも、未成年の人におまえは俺の奴隷なのだと宣言したうえで買春したということが本当なら、もしも相手が女の子であったならと想像すると、それは責任を負う必要があるでしょうよと思うので……異性間の出来事であったならば告発されるべきことが、同性間ならばされないべき、そんなことってあるかしら? と考えると、すっかり分からなくなってしまいます。今でも全然分かりません。
(現行の法律では売買春が成立するのは異性間のみ、ということは大まかに知ってはいますが、わたしはそれ自体がすごく変なことに思えます)
ただ、この件をちょっと脇に置いておけるとすれば、カミングアウトというものはどんな時も本人以外の手によってされるべきではない、という気持ちは確かなものです。
その人自身が決めた相手に、決めた範囲で、その人自身が選んだタイミングと方法で、するもの(または、しないもの)だよね、と。
たとえそれが他人から見て最善のものでなかったとしても、口を出されるいわれはないと思うのです。
それは、セクシュアリティに関してだけではなく。
「カミングアウトしないと卑屈な生き方しかできないのでは」「他の当事者のためにも正々堂々と公表するのが正しいマイノリティの姿では」といった意見もありました。でもわたしはそうは思えない。全然思わない。
自分がセックスワーカーであることを言えない場面で、卑屈な気分になっちゃうことはあります。ネット上に限られるけど、わたしが職業を明かしてなにか書いていることで、同じ仕事をしている人に「どんな酷いことを言われても我慢しなくちゃと思っていた気持ちが少し楽になりました」と言われてすごーく嬉しいことも確かにありました。でも、それとこれとは全然ちがうのです。
誰もがカミングアウトできるならそれは確かに理想かもしれません(そうなれば、カミングアウトという言葉も消えてしまうでしょうね)が、でも今の社会で他人に強いることは、とてもできません。
さて。
そうもいってらんねえ場面、というのが、人生にはありますね。
わたしにとってそれは医療機関でした。そういう人は多いと思います。
これまで医師に自分の職業を伝えたこと、たぶん10回近くあるでしょうか。できるだけしたくない、と思っているのに、せざるを得ない状況が上回ってこんなにも(わたしにささいな持病がいくつかあることも関係あるかもしれませんが)。
受け入れられたこと、そうでなかったこと、今も時々思い出しては心臓をグニャと押される気持ちになる言葉をかけられたこと、いろいろとあります。
性的な労働のカミングアウトは、なにも婦人科でだけの問題ではありません。
いつだったかは突然に喉が腫れあがり、耳鼻咽喉科でそうしたことがありました。もう少し余裕があれば「カレシが〜フーゾク行ったらしくて〜」みたいなことも言えたかもしれませんが、その日わたしは診察を受けている間に急に意識が薄れて(突然発熱したのでした)両脇から抱えられ、医師は何の病気か確信を持った診断はできておらず、とても不安で仕方ありませんでした。
そんな状況で「ちょうど一週間前に怪しいお客さんのお相手をした、そやつは片側の陰嚢が膨らんでいるように見えた上触れられるのを嫌がったためまさか精巣が腫れているのでは……と疑ったのだが、膿が出ているわけでもないので接客を断れずそれなりの時間オーラルセックスをした」という事実を伏せておくことは、できなかった。クラミジアか淋菌でこんな大事になるかなあ、と思っていても、わたしの乏しい知識にはないもっと別のウイルスがあるかもしれない。なんせ性感染症が身近になる仕事ですからなるべく見聞きするようこころがけてはいても、素人は素人なのです。
医師は動じませんでしたが何人かいた看護師が一斉にわたしを見ました。まるっきりコントのようでした。不意に驚いたときに他人へ遠慮や気遣いを発揮するなんてとても難しいことだから、傷つかないようにしよう、と思い、突然周囲の視線を浴びてどぎまぎするウッチャンの姿を頭に描いて癒されようとしましたが無理でした。そういう時の内村さん、可愛くて好きです。メイクや衣裳で作り込んでいないと、途端に照れ屋さんになるんですよね。
正体は溶連菌でした。溶連菌感染症であんなになる人っているんだね!驚きました。
このように、病気というものに素人のイメージはあてにならないものなのですね。だからカミングアウトが本当に必要かどうかの判断もできなくて、ぐらぐらと悩むのです。
つい最近もまた、久しぶりに医療機関で自分の仕事を明かす機会がありました。
溶連菌のときと違ったのは、わたしの疾患が町の診療所では手に負えないもので、「もし不快な思いをしようと、主治医を変えることはまずできない」状況であったことです。
わたしはこれまでの治療を通じて、その医師に好感と信頼感を持っていました。技術面でも、お人柄の面でも。仕事のことは特に話さないまま3年間のお付き合いがありましたが、先日とうとう、カミングアウトせざるを得ない場面が出てきてしまった。その情報があるのとないのとでは治療方針の判断に違いが出てくるのではないか?と、いち患者ですら思い至るような局面が、やってきてしまったのです。そして、治療の方針をあやまると、生死を分ける……なんて大げさな言い方はしたくありませんが、わたしの人生の残り時間がいくらか変わることも、十分ありえるかもしれない、と思えました。
言いたくない。言ってしまいたい。嫌な顔をされるかもしれない。どうしてそんな仕事を、と呆れられるかもしれないし、今すぐやめなさいとお説教をされるかもしれないし、就いた理由を言わされるかもしれない。きっとこの先生は頭ごなしに叱りつけるようなタイプではないだろう、と半分くらいは思いながら、でも半分くらいしか思えませんでした。
性的サービス業に対する気持ちというのは、その人それぞれに、心のデリケートなところに置かれていることが多いものです。ちょっと知っているだけの他人から見て、普段の様子からは似合わないように思える反応をしたとしても、少しも不思議じゃありません。
あっそうだ、ねえ先生、とわたしはたったいま思いついたことのように言いました。
本当は、3年間ずっと考えていたことなのに。
わたしね、風俗で働いてるの。ソープランドじゃないからセックス……挿入はしないんだけど、それ以外のことは、いろいろする、っていうか。
そう言うと先生はわたしを見ました。怒らないで、責めないで、笑わないで、そういう気持ちはわたしの頭にもうなくて、ただひたすら、まっさらなところに最初に置かれる言葉を待っていた。
先生はわたしにいくつかの質問をしました。普段行っているサービスの内容についてや、定期的に検査している項目についてや、その他いろいろ。ああ、うんうん、なるほどね、と言って、そして少ししたあと、基本的な治療の方針は今のところ変えないことをわたしに告げました。
「そっか、入院して切る手術を受けたくないのは、そういう理由もあったんだね、有給とか、ないだろうし」
そう言われてわたしは顔を上げました。そうそうそう、そうなの、仕事に行けないこともそうだし、たぶん、今の店は傷跡があると雇ってもらえなくなるし……と。ああ、そういうのもあるのか、それは大きな問題だ……と頷いて聞いてくれる先生の表情は、もうこわくはなかった。
診察室を出るときにわたしは言いました。
「よかった。ずっと、言わないといけないなーって思ってたんです」
先生はにこっと笑って、それは普段の診察で、調子はいかがですか、とか、今回の結果はなかなかいいよ、と言うときの笑顔と変わらなかった。そして、
「うん、大丈夫だよ。……ありがとうね」
と言って、そのありがとうね、というのだけが、ほんの少しいつもとは違うように聞こえました。新鮮でした。病院でありがとうって言われることなんてあんまりないから、それは、そうなんだけど。
じゃあまた二週間後にね、お大事になさってください、と言われて診察室のドアを閉め、わたしはお手洗いに向かいました。
ここにいる人はみんな何かしらの病気を持つ人とその付き添いです。たとえこぼれていなくても患者さんが眼を潤ませている姿というのは、決して見たいものではないでしょう。そのくせ、なぜだかとても敏感に気づいてしまう、視線が捉えてしまうものだから。わたしも患者のひとりなので、それが分かります。どうしていま泣けてくるのかはよく分からなくても。
安心した、ホッとした、それも確かにそうだけど、それだけじゃありませんでした。
いったいいつまで、この葛藤とつきあい続けるのか。わたしの人生だけじゃなくて、本当はこの街に大勢いるはずの、この建物にも絶対にわたしひとりな訳などないはずの、同じ種類の労働で糧を得ている人たち。だけど、この苦しみをどこかに語れば、そんな思いするくらいなら辞めればいいのにばかみたい、と、単なる「辞める決断のできない人」として扱われるのね。
そういう整理のつかないもやもやした気持ちがほんの2、3滴の涙になって、わたしの身体から出ていきました。病院のお手洗いって、とっさに少し泣くための部屋としての役割もあるよね。
その日のお会計はいつもより金額が高く、領収書を眺めながらわたしはぼんやりと思いました。ああ、がんばって働かなきゃな。生きていかなきゃしょうがないもんね、と。
「働こう」という普通の気持ちが、傷つけられずにまだわたしの手の中にありました。
わたしのカミングアウトが、これからもわたしのものでありますように。誰のカミングアウトも、その人のものでありますように。
そしてできれば、それが刃にさらされず、尊重され、秘密は守られますように。誰も自分を責めることなく適切な医療を受けられますように。
いまはまだ遠い理想ですけど、少しずつでも現実に近づくことを願っています。そしてそれは身の程知らずの大それた、立場をわきまえない傲慢な贅沢などでは絶対にない、と。