ご報告とわたしの気持ち〔1〕

東京都写真美術館へ質問した件ですが、担当者の方よりすでにお返事をいただいております。心配してくださっている方、お知らせが遅くなってごめんなさい。回答の内容は先だってニュースサイトで取り上げられた際に書かれていたものと特に変わりありません。
とても不安な気持ちで送信し、もしお返事いただけるとしたら年明けかしらと思っていましたので、すぐに対応して下さったことに安堵しました(24時間と経たないうちのお返事でした)。

わたしの希望としてはかなうのであればもう少しやり取りを続けたく、お返事のお返事も、既に送信しています。現段階で受け取っているメールをこのブログにコピーペーストすることが望まれているかもしれませんが、いたしません(掲載の可否を伺うこともしていません)。

メールの公開から、さまざまなご意見やご助言をいただきました。twitterだったり直接のメールだったり、たくさんの人にいろいろと気にかけていただきました。わたし自身の目に入ったご意見(や、ご意見と呼ぶべきかわからないけれどさぞかし仰りたかったのであろう叫び)に接して、考えたことをできる範囲で書きます。

年末の休暇時期でなくてはできなかったことですので、今後ここまで時間を割けることはないかと思います。そのぶんできるだけたくさん書きました。

なお、こうして掲載するにあたり、わたしの手で一般的な言葉を選びできるだけ意味を損なわないよう書き直させていただいたものもあります。距離感その他があまりにも適切でないと、読んだ方の気持ちを乱してしまいそうでいやだったので……そしてわたし自身も穏やかな気持ちでいたいからです。

——被害者を想っての行動ではなく、ご自身の身の心配ありきだということにがっかりしました。この件での被害者はタイの女性たちですよ。抗議したいのならもっと彼女たちの気持ちに沿うべきだと思います。
——なぜ勝手にタイの女性たちの代弁をしているのですか。彼女たちの本当の気持ちなど、わかるはずがないではありませんか。ご自分のされたことのみに対して怒るべきだと思います。
——結局のところ、椎名さんのお気に召さないのはかいつまんでどういった点でしょうか?文章が長くてよくわかりませんでした。

はじめのお2人でちょっとよく話し合ってもらってもいいですか? ここで待ってますから。だめですか。ふふ。
文章が長いのは仰る通りです。電話とかもすぐ長くなってしまう方です。すみません。できるだけかいつまんでみますね。

1)相手が認めていないことを、認めていないと十分認識した上で、(生まれた国や性別や職業や立場からくる)互いの権力の差に乗じて執拗に行った写真家への憤り

2)しかもそれを日本で公開した上、私は暴力的な行為によってこれらをつくりましたよ、とまるで自慢のように公言した写真家への憤り

3)美術館がそれを展示したこと、当時専門家(とか批評家みたいな方)から問題点の指摘などもなされなかったことで、その写真たちに正当な作品であると「お墨付き」が与えられてしまったことに対する戸惑い(このあたりはまだはっきりとわかっていませんが)



4)この件で写真家の行為に嫌悪感を表明している方がこんなにたくさんいるにも関わらず、日ごろ自分が働く中で「相手が認めていないことを、認めていないと十分認識した上で、権力差に乗じて執拗に」やってくるお客さんの数、撮影したり録音したり私物の荷物を漁ったり本番行為を求めてゴネたりその他いろいろルール違反の行為におよぶお客さんの率を考えると、今ひとつ理屈が合わなくない? パソコンの前では思い遣りの心を持つ人が、生身のセックスワーカーの前ではそうでなくなるってこと? というなんだか追いかけたくない巨大なモヤモヤへの恐怖

そして今回わたしは 3)の疑問を東京都写真美術館へ直接お伺いするためメールを送りました。その際ネット上で誰でも読める状態にしたことで、
わたしのメールを「件の写真家を批判している人々の意見まとめ」だとか、
わたしのことを「批判派のみんなを代表して矢面に立つ覚悟を決めた人」だと解釈した方もいらっしゃいました。がわたしにそのような考えはありません。わたしが行ったことは、あのお手紙は、きわめて個人的な気持ちを綴ったきわめて個人的な行いです。まとめサイトではございません。広告収入も残念ながら得られません。

被写体となったタイの女性たちに代わって写真家を糾弾する使命を負ったなんてこと、一切考えていません。
わたしはわたしの立場で「こういうことがまかり通るのって怖いな、困るな」と思ったので、わたしの立場からいえることを言いたいです。
わたしの立場から言えることとは、「拒否する相手に無理やり何かするのはいけない」し「明日は我が身ってことですか、それは嫌ですやめてください」です。

——タイと日本の風俗では事情が違うと思います。なぜ自分語りをなさるのでしょうか、哀れみを誘うためですか。あれはいらないですよね。

わたしの「明日は我が身ってことですか、それは嫌ですやめてください」に対して、それだけでは「一体何が嫌なのかな、明日は我が身って具体的にどういうこと?」と思われてしまいそうでしたから、明日は我が身の内訳を後半に書きました。
美術館に対し「それをアリにしちゃうと、日本のセックスワーカーも脅威にさらすことになると思うんですけど、どうですか?」とだけ言っても不親切だろうと思ったからです。
「日本の風俗でも勝手に写真とか撮る人いるんだ……」という感想をいくつか見ましたので、いらないというほどのことはなかったと思いますよ。働いたことがなかったら、わからないことですもの。

——写真を撮ることは、加害、というほどのことなのでしょうか。撮ってもいいと言うつもりはないのですが、果たして人権という言葉を振りかざすほどの被害なのでしょうか。

写真であろうと何であろうと、相手が嫌がっていることを、嫌がっていると知りながら強行する、やめてと言われてもやめない。それは相手の意思を無視することです。自分の欲求にくらべて価値のないもの、取るに足りないもの、尊重するに値しないものだとし、そしてその認識を本人に突きつける行為です。お前は私より格下だ、お前の意思は認めない、お前より私が貴い。そう宣告する行為です。
突きつける側に権力がある場合、これはきわめて強い圧力で、相手を支配する行為です。相手の尊厳を奪うことだと思うのです。
そしてこういった被害に遭う可能性があるのは、わたしであり、あなたです。
可能性の高い低いはあるかもしれませんが、完全に逃れられると保障された人はいません。わたしは「明日は我が身ってことですか」と怯えていますが、ほんとうは誰の身にも起こりうることです。堅気と呼ばれるお仕事であっても、立場や権力の差から尊厳までも軽んじられること、あると思うんです。絶え間なく降ってくる小石を棒一本でよけようと必死な人は、顔が分からない遠い場所から見ると棒切れを振り回す元気な人に見えるかもしれませんが、誰にも近くに来てもらえなければいずれ力尽き、あきらめてしまうかもしれません。「もっと早く知っていれば」という側になることも、またこわいことです。

——被害に遭った方にはお気の毒ですが、写真を撮るという行為は、そして芸術というのは、元々暴力的なものなのです。
——確かに人権は大切で、そのことに異論はありません。しかし「これはやりすぎ」という線を引かないことで素晴らしい作品が生まれるのです。現代アートというものはそういうものなのです。
——この世から芸術が失われたら、椎名さんの人生もつまらない、味気ない無味乾燥のものになると思いますよ。

もともと暴力的なのであればなおのこと、その暴力が生身の人間に向かわないために、また向かってしまった時に被害を受けた人が最大限に保護されるために、何かできることはないのでしょうか。どこにもひとつも、ないのでしょうか。
まるでわたしが芸術のすべてを拒絶しているかのように受け取られたのかもしれません。でも、そうではないので芸術と人権の二者択一を迫られるのは不本意です。
そして、問題になっている作品が果たして芸術と呼ぶに値するものなのかそうでないのか、あるいは別の名称がふさわしいのか、といったお話は、わたしの疑問とはあまり関係のないことです。
(美術館で展示されたことによって芸術作品だというお墨付き、肩書きが与えられたのではと、そのことに戸惑ってはいます)
あの作品が何のカテゴリに属しているかは、関係ないのです。芸術と扱う人がいる、いいや現代アートだと言う人がいる、いやいやあんなのはただの趣味だと評する人がいる。わたしの抗議の内容は変わりません。変えようもないのです。
嫌がる相手に無理やり○○するのはいけない、というのは、芸術でもアートでも悪ふざけでもロックンロールでも変わりないです。

芸術のない人生はつまらない、芸術には力がある、それは本当のことなのでしょう。ですが芸術がやったことだからと「嫌がる相手に無理やり○○する」の片棒を担がせてそれを認めていれば、いずれ芸術なり何なりは信頼を失うような気がして、それはいいことだとは思えません。

——あの方は、もともとそういう人なんです。狂気の天才、とでも言いましょうか、界隈では常識です。そして確かに天才なのですよ。本人はこういった批判も覚悟していて、それでもこうするしかなかったんだと思います。
——過去に彼が発表した写真集を見てください。なんなら私がプレゼントしたっていいと思っています。作品を見ればきっと気に入ってもらえると思います。一点だけでなく、彼のすべてを見て判断してください。

「もともとそういう人」から受ける暴力と、そうではない人から受ける暴力とで痛みの種類や傷の深さは変わるでしょうか。
あの人はもともとそういう人なのだ、仕方がないんだ——そういうふうに被害者が自分に言い聞かせて心を癒そうとするケースはたくさんありましょうが、外側から投げかけるとすればそれはとても暴力性にみちた言葉ではありませんか。「狂気の天才」によって傷つけられた人がいたなら、正気の人が手を差し伸べるしかないと思うのです。

彼のいろいろな面(すべて、というのはちょっとおこがましいので)を目にしたら、好きになれるところもあるかもしれません。
とても気に入る写真もあるかもしれませんし、別のインタビューなりを読んだり実際にお会いしたりしたら、魅力的な方だな、と思う可能性もないとは言えません。
でも、そうなれば今回の件がなかったことになるかというと、ならないです。彼のあの言動から受けた恐怖はなくなりませんし、展示に対して誰もなにも言わなかったんだろうか、ざわざわ、という戸惑いもなくなりません。

——彼が筋骨隆々とした黒人の男性に辱められる様を余すところなく撮影し、そして芸術でござ〜いと公共の美術館に展示すればいい。タイの女性たちにやらせればいいんですよ、それが無理なら椎名さんに。そうでなければフェアじゃない。

まじめに答えますね。おそらく、おそらくこれは同情や、怒ってくださる気持ちの表現だとは思うんですけど、嬉しくありません。
「おあいこだから」で解決することでは全くないからです。そんなことで「フェア」にされてはたまりません。そんな被害にあってもいい人なんてこの世のどこにもいませんし、「僕も同じ目に遭いますので、あなたを蹂躙させて下さい」とか言われてもびっくりするだけです。
もしこれが真に受けて答えるべきものではなく、「件の写真家が自分より腕力の強い相手に無理やり性的な暴力を振るわれている姿でも想像して溜飲を下げておきなよ」という意味なのだとしたら、そんな言葉で慰められると思わないでください。

——肖像権の侵害は親告罪です。被害者が訴えなければどうにもならないので、大変言いにくいのですが諦めた方がよろしいかと思います。

仰る通り今回のことは、被害者が訴えるのは著しく困難です、不可能に近いことです。被害者が訴えなければどうにもならない類のことが、訴えにくい人々を選んで行われました。
しかしわたしが自分の感じた憤りや悲しみや恐怖を美術館に対してあんなにもみっともなく表明しそれをどなたでも読めるようにしたのは、肖像権を侵害したとして撮影者に損害賠償を請求するためではありません。
よくある言い方ですが、多くの人に考えてほしい、どういった意見を持つかご自分の中で検討してほしい、と思ったからです。
それが、いずれどこかでわたしや他のセックスワーカーやそれ以外の人やこれから生まれてくる人が、理不尽で一方的な暴力からまもられることにつながるんじゃないかと思ったからです。
ありえないくらい遠い、まったく目処のつかないお話ですが、いつかささやかにでもつながれば、という思いをこめてやったことです。
それは、諦めるなんて、できないことです。諦めろといわれる筋合いもないことです。

長くなりましたので分けます。〔2〕へつづきます。

【12/30 23:16追記】——————————-
冒頭の「ニュースサイトで取り上げられた際に」というのがどの記事を指しているのか不明瞭ですみません。該当の記事は書き方に引っかかるところがあり(わたしも写真家さんも匿名の扱いなのに、なぜか意見を述べただけの別の方のお名前のみが明記されていたため)、積極的に紹介するのを躊躇してしまいました。
かわりに松沢呉一さんがお書きになったこちらの記事を紹介します。
娼婦の無許可撮影をするゲス写真家は今に始まったことではない-『危険な毒花』と『月蝕』
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