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タバコになりたい、紙切れでもいい

暑くて暑くて、ときどきもう自分は溶けだしているのではないかと思いながら二の腕に触れるとまるで本当に溶け始めているかのようにぬるりと汗が滑った今年の夏ですが、何もかも嘘か夢だったみたいに寒い。寒いです。ちょっと肌寒いともう心の隙間から冷気にやられて寒く感じるようにできています。
あんなに毎日スイカを食べていたのに。スイカかかき氷かアイスクリームのことしか思い出せないのに。
この夏ほかに何をしていたかというと、恋をしていました。春風亭昇太(7月にきいた噺の中で小鳥になっていた姿がとても可愛くてよかった)とシャーリーズ・セロン(メッメッ)と、そしてもうひとり。

 

わたしは長岡亮介さん(東京事変で「浮雲」名義でギターを弾いていた男性です)のファンで、「8月に出る椎名林檎の新譜PVに変な服を着て出演している」という情報を得てちょっと楽しみにしていました。気づけば発売日を過ぎ、そうそう、とアクセスしたYouTubeで見た彼は期待通りに真面目な顔で変なカッコして変な動きを見せてくれていてたいへんステキだったのですが、切り替わった画面にいた女の人にあっという間に目も心も奪われてしまったのです。ほんの一瞬のうちの、完全な一目惚れです。

ちょっと検索すると彼女のお名前や所属などはすぐに分かり、ああ同じようにすっかり魅了されてしまった人々がどれほどいることか、と思いたくさん開いたGoogleの画面を前に微笑んでしまいました。心の動揺を隠さないままそこかしこの知恵袋的な場所で情報を求めていらっしゃる方もお見かけしましたよ。恋心をtwitterに吐露していた方も多かったですね。おうみんな仲間だ。

こういうとき、名前がわかるとなんだか安心しませんか。確かに目の前に姿があっても、特定して呼ぶことができない状態だと相手の存在が不確かになってしまうような感覚。本当は関係ないのにね。
そういえばわたしもときどき自分のお客さんに「なんて呼んだらいい?」って言っています。基本的にお客さんに名前を使って呼びかけはあまりしないんだけど、時々はちょっと呼んでみたくなる人もいるものです。でも呼ばれ方ってできれば自分で選びたいものだと思うのですよ。たとえその場だけの名字でも。下の名前で呼んでほしいときなんかは、向こうから言ってもらわないとなかなか難しいしね。

それか、リピーターなのにその人の名前をきれいさっぱり忘れてしまったときですね。反省はしている。あと初対面で突然の呼び捨てを、それも20年前の男子校での友達かというくらいのMAX馴れ馴れしいモードで繰り出してくる人がたまに見かけられ、驚くべきことに彼らはそれで親密さを獲得できると信じていたりするのですが、全くおすすめしません。

話がそれました。

彼女のこと、本当はこれまでにも見かけたことがあったはずなのです。ウィキペディアで見たら、えっそれ知ってるよ? という作品がいくつかあった。
でも、平井堅のPVのときはもう仮装と言っていいような出で立ちだったし、PerfumeのPVのときはほとんど仮装といってもいいようなメガネをかけていたし、星野源のときはほとんど仮装といってもいいような髪型(まぶたギリギリのマッシュルームカット)をしていたし、きっと以前からのファンの方にしてみたら今回の作品で「わあついに世間に見つかった!」という感じだったかも。

ただ気怠げに歩いているだけで、正面の顎から首、鎖骨までが素敵で見とれてしまうのだけど、ダンスシーンになるとその美しさを造っていた骨組みと筋肉がぐっと強調されて目を見張ります。きれいとしか言いようがない。悲しいストーリーのビデオなんだけど、きれいとしか言いようがないです。吉田羊さんが彼女を評して「一体どこから降って湧いた」と表現しておられたのですが、ほんとそれな。ほんとそうですよ。一体どこから。

YouTubeで一度見た後すぐにiTunesを立ち上げ購入し、夏の間は毎日のように見入っていました。おかげで仕事中、シャワーを浴び(させ)ながらふと変なことを思います。

——あんなふうにこの人を手にかけたら、どんな気持ちがするかしら?
みたいなことを。ちょっとだけだよ。

しかし不思議なのは、そんなふうに思う瞬間はたいてい、好きだと思える人がそこにいる時によぎるものなのです。失礼で嫌味で怠惰な、愛想笑いの裏側で絶え間なくウンザリさせられるような相手にではなく。

 

昔こんな心理テストを見かけたことがありました。問いがいくつも重なるタイプの。

美しい牛と醜い牛、どちらかを食べるとしたらどちらを食べますか。

好きな牛と嫌いな牛、どちらを食べますか。

名前の付いた牛と付いていない牛、どちらを食べますか。

美しい人と醜い人、どちらかを食べなければならないとしたら。

好きな人と嫌いな人ならば。

 

そんなこと考えさせないでよ、と思います。
あまりにも困る。

それか、もしかしたら、こんな仕方のない問いでかわいいひとと互いに困らせあい、その困った顔を見て胸に甘苦しいときめきを得るための心理テストなのかもしれません。贅沢ですね。

何回かは空想の中で、架空の愛しい男の唇をガムテープで塞いではその心地悪い滑らかな感触越しについばんでみたりしたのですが、度胸もない上に不器用なので美しく殺めることなどできずだいたいあっけなく剥がしてしまいました。それもけっこう痛そう。口唇と皮膚の境目がたちまちヒリヒリと赤くなったのを見て、痛かった?まさかね? と言ってわたしはちょっと笑います。

そんなひとり遊びをしているうちにすっかり秋でした。

ただシェラトン(だっけ)のシャワーを見るととりあえず「あ、角があってよさげ」とは思う。

 

 

ELEVENPLAYのSAYA(篠原沙弥)さんという方です
2番の最初で一瞬だけ微笑みかけてくれるところでいつも胸が震えます
amate-raxiは閉店前に素敵な映像にのこしてもらって幸せなクラブだと思う

 

2015-09-14 | カテゴリ: weblog, たわいないはなし | |  

 

残暑(って感じしないよね!)お見舞い申し上げます

こんにちは椎名です。まいにち暑くてこまりますねえ。
またもゲストブックの話です(やれやれ)。
お返事しないルールだったんですが、ちょっと書くことにしました。
妙ちきりんなことを書けば返事するんだ!とか思われても困っちゃうので(笑)、こっちにまとめて書きます。

 

(14)c71さん

こんにちは。おかげさまでげんきに過ごしてますよ。
わたしはこういう言葉にすっかり慣れてしまっているところがあり、資料として(笑)置いて置きつつ、聞く耳を持ってくださる方のほうに向けてブログエントリにてお話させていただく、という方法を今回も取りました。
しかししっかりと怒りを表して反論するc71さんの言葉に、背筋を正されるような気持ちがしました。怒ってくれてありがとう。
c71さんのブログ、読ませていただいてます。励まされたり、自分にない視点をもらえたり、刺激的です。
どうぞお身体をいたわってください。といっても、それも簡単ではなかったりするけれど、身体が求める時は休ませて甘えさせてあげてくださいね。

 

(15)しらたまさん

メール、届いています。ていねいに謝ってくださってありがとう、でも気にするようなことじゃないですし、謝るようなことでもないですよ。優しいお気持ちからのこと、ありがたく受け取りました。書いてくださって、よかったです。
しらたまさんをドキドキさせる前にわたしが何かひとこと発していればよかったのだと思うんですが、ちょっとズボラだったもので。えへへ。しらたまさんがわたしの意図を汲んでくださったこと、じんわりと嬉しかったですよ。ほんとうに。
お盆あたりは疲れる仕事が増えてげんなりしがちですよね。あるある。お疲れさまです。
しらたまさんのお客さんがみんな紳士で(そしてできればお金持ちで♡)ありますように。
また遊びに来てくださいね。

 

(13)Bearさん

せっかくの書き込みの反映が遅くなってごめんなさい。
お察しの通り、文字数で引っかかってスパム扱いされていました……(そういうことが初めてでしたので、気づくのが遅くなり失礼いたしました)。
メールもありがとうございました。きっとかなり泳ぎの上級者でいらっしゃるのだろうな、と思いながら読みました。わたしはBearさんのような読者を持てたことがとても嬉しいですし、この嬉しさはこれから何かを書く時のすてきな栄養になることでしょう。
Bearさんが泳ぎ疲れたとき、わたしの小島で一休みしませんか、と誘えたらいいなあと思います。おいしいものを用意してお迎えしましょう。もちろんホカホカごはんも炊きましょう。すぐにわかるようかわいい旗かなにかをいつも飾っておこう(訳:エントリはさぼらず書こう……)と心に刻みました。力をくださってありがとう。
ところでほんとこの暑さが残り物なわけないだろう、ですよね。23歳くらいの男の子が10代の後輩に向かって「もうオレおっさんだからさぁ……」って言ってるのを目撃した時みたいな気持ちです。あなたは充分まぶしいよと言いたい。

 

(12)進撃の悠人さん

もうひとつ書き込んでくれましたね?
でも残念ながら問題のある言葉が含まれていたためか、スパム判定されていました。あなたの名誉のためにサルベージはしないので、感謝してくれてもいいですよ、うふふ。

(わたしの想像であなたのお気持ちを語るのは失礼かとは思いましたが、あなたが先に失礼だったので、その程度の失礼はしても良い、という判断を勝手に下しました、ご了承ください)

悠人さんにはわたしが「失敗」したかのように見えていて、それがあなたにとってとても悔しかったのだなあ、ということが伝わってきました。
今回のことで、わたしが肖像権を主張できる立場にないこと、それを主張してもあなたが言うところの「勝ち目」などありはしないこと、落ち着いて考えればわかるだろうと思います。あなたは冷静になれないまま、それっぽい物言いでわたしに何らかの苛立ちをぶつけてこられた。
わたしの想像では、あなたは風俗嬢を見下しながら、同時にどこかに共感……他人とは思えないような何かを感じているのではありませんか。社会の下層にいる風俗嬢がもし「勝ち」をもぎ取ったなら、世の中の権威に目にもの見せるようなことになったなら、どんなにかスカッとしたのに、お前ときたら「失敗」しやがって。そういう悔しさから来る憎しみを感じました。

そして荒野でうなだれているひとりぼっちのわたしを想像するとご自分もつらく、それで「結婚」という言葉が出たのではないかと推理しました。虚勢を張ってみすみす勝てない試合に打って出るようなことはやめて、権力のある男に守ってもらって平穏に暮らしていてくれよ、と(見方によっては優しさと呼ぶこともできそうな感情にも思えます)(現実には結婚ってそんな力まではないと思うんですけどね)。
残念ながらわたしはその悔しさを共有することができません。わたしにとってこれは試合ではなく、勝つとか負けるとか、そういうの、ないんです。わたしを勝手に誰かと戦わせて便乗しようと思っても、そうはいかないのです。
きっとあなたには、あなた自身の戦いがあるんじゃないかしら。だとしたら、向かうべきです。他人なので無責任に言いますよ。向かうべきです。
あなたの共感を、もっとあなたにメリットのあるように生かす理性的な方法がどこかにあるように思えます。どこかは知りませんけど、そんな勇ましいペンネームを名乗るくらいですから、きっと大丈夫でしょう。

 

(16) 明日さん
風俗の女の子か誰かに優しくされましたか。よかったですねえ。
ええ、大変な仕事です。そりゃあそうです。しかし、なんで大変になっちゃってるのか……考えたことはありますか? 誰がその大変さを作り出しているか、考える気はありますか?
そこを考えるおつもりがないなら、もう来てくださらなくて結構です。
わたしたちの幸せを願う、なんていう手軽で安易なヌルい気休めに走らないでください。
それともわたしたちが幸せになるために何かしてくださる覚悟や準備がおありなのでしょうか。
そんな難しいことは求めませんから、どうぞあなたが幸せになることを考えて生きていってくださいませ。まずは酔っ払ってこういうところに書くのをやめましょうか。

2015-08-16 | カテゴリ: weblog, たわいないはなし | |  

 

ひとつくさってふたつ芽吹いて

東京都写真美術館の一件から、半年以上が過ぎました。

担当者の方から複数回お返事をいただけましたが、当時わたしは疲れ果てており、改めて報告のような形をとりませんでした。本当はそうするべきでしたが、お返事を受け取ったということ以上にはもう何も言えませんでした。
それよりも少し前に、今までは批判する人さえほとんどいなかったことを問題視する契機を作り出したことであなたはもう十分役割を果たしています、と松沢呉一さんに声をかけていただいたのをきっかけに、ああもう何もできないけどそれでいい、今やるべきことは自分の心身を守ることだ、と思うに至っていたのです。
(松沢さんからは個人的なねぎらいの言葉としても、また連載されているウェブマガジンで当時の記事内容からもたくさんの得がたい視点や導き、また励ましをいただき感謝しています)

時間が経ってしまいましたが、いただいたお返事は主にこのようなものでした。

  • 本来は撮影OKの店ではないことは、作家本人から企画者に語られていた
  • しかし、そこで撮影されたのが作家が無断で強行に及んだゆえであったことを把握していなかった
    そのため当時倫理的な懸念を持つに至らなかった
  • 展示当時、お客様から疑問視するご意見もなかった
  • しかし事実があのようなものであるなら主催者として大変に遺憾である
    椎名さんに不安な気持ちを味わわせた事実とお伝えいただいたご意見を重く受け止める
  • 作家に対しては撮影手法について慎重に対応すべきであったと申し入れた
  • 展示の可能性がある作品に倫理・人道上の問題や、特定の個人を傷つける恐れのある場合は、当事者の立場に立った最善の対応に努めたい

結果的に皆様に不快をもたらしたなら遺憾です、というよく見るあれではなくて、椎名さんを不安にさせました、とはっきり言ってくれたことがわたしを安堵させました。送ったものの内容は読まれた、と思えましたし、身も蓋もないような表現をすると、少なくとも言葉の上で、性風俗業に従事していない人と同等の扱いを受けた、と思えたのです。その気持ちがどんなものかは、伝わりにくいかもしれません。そうですね、たとえば「被害者がホステスや風俗嬢であったことが加害者の罪の重さに影響した判例がある」とか、そういう事実(そう、事実です)(影響、の方向はご想像の通りです)(歴史上の話、ではありません)に思いを馳せていただくとちょっとは想像しやすくなる……かもしれないです。

それからもしばらくは、写美の学芸員の方がお書きになった本を読んだりしながら緩やかに長いこと考えていました。そしてやがて「これからも行きたい展示があれば美術館に足を運ぼう」「わたしを傷つける存在としてそれを避けたり諦めるのは早い」「こういった問題はこの先も考え続けられるべきだが、そのために本件にこれ以上に追及するべきものがあるのだとしても、それはわたしが背負うものではない、これ以上は背負えない」という気持ちにたどり着きました。
それから、もしまたどこかで同じように特定の職業の人を不安に陥れるような脅威があったなら、その相手が公共の施設であっても「自分は世間から後ろ指をさされかねない人間だから」と顔を覆って閉じこもらず、勇気を出して声をかけられるといいな、と。それが今のところのわたしの気持ちです。解決しましたとは言うつもりもなければわたしがそんなことを言える筋合いも全くありませんので、その点は誤解なさいませんよう念のためお願いいたします。

 

さて、ゲストブックをどうしたものかしら、としばらく考えていました。

いつの間にか偏見発表会(無自覚部門も開催だよ!)みたいになっちゃってるところがあり、わたし以外の方の目に触れさせても不毛かな、と思って。
いつまでこんなこと続くのかしら。きっと、いつまでもでしょうね。

今もなお「感情的でない」という理由で誉められたりすることがちらほらあり、わたしはその表現に接するたびに嫌悪感を抱きます。
わたしの書いたものたちは感情のかたまりであったはずです。必死で自分の感情についてお話しさせてもらったんですのに? と。

「感情的」という言葉は「激しくヒステリック」「取り乱していて見るに堪えない」みたいな意味で使われているのでしょう。つまり「あなたは興奮した様子じゃありませんね。だから支持します」「あなたの喋りはみっともなくないので、聞くに値すると思います」そういうことなのでしょうか。彼らはこの思いの何を受け取ってくれたのでしょう、わたしは安心することができません。

その一方で「感情論に終始しており冷静な意見とは言えない」「重大な犯罪でもない話に感情を持ち込んでぎゃあぎゃあと」「これだから女はみっともない」とも同時に言われるわけです。彼らが話を聞いてくれるように思いを伝えることはとても難しく(なんせ「思い」ですから)、わたしの能力ではできません。

感情というものがなぜ、このように嫌われ、避けられるのでしょう。誰も逃れられないはずのものなのに。
感情を存在させた瞬間に論理が、その正当性が即座に失われるかのように言われることさえもありますが、本当にそうなんでしょうか。同時には存在できないものなのかしら。

感情を抑えた話し合いが必要な場面はいっぱいありますね。個人の感情を持ち出すとにっちもさっちもいかなくなったりして。
でも、あの時のわたしの行為は「写真をはじめとした芸術表現にまつわる有意義な議論を交わす任務を自ら買って出た」ようなものではなかったです。「この展示がわたし(を含む性労働者)の人権を損なう可能性、それを見てください、それがそこにあると言ってくれますか、と訴えかけた」つもりのものです(マッドマックスみたいになっちゃった)。
それが結果的に知識ある方によって有意義な議論となり、その種のひとつぶとなれるなら幸いではあるけれど……と思いながら、わたしはわたし自身の持つ権利に限って主張するよう心がけました。芸術を知らない、法律を知らない、タイという国のことも知らないわたしがせめてどなたにも失礼にならない誠実な態度で公共の場に意見を述べるには、そうあるべきだと考えたからです。
わたしがわたしの話をするのです、わたしの話せるように話す以外ありません。

その内容を「この女は感情的か否か」という基準で査定しようとやって来る人々が望んでいるものは果たしてなんなのだろう、どんな理想のもとに行われる裁きなのだろうと考えますが、やはり難しいです。途方に暮れるばかりで答えは見つかりません。

 

一切の感情表現をせずに事実だけを並べたものと比べて気持ちの話に触れたものは劣っているのだ、冷静に俯瞰で中立から物事を論じるのが知的な態度であり感情を口にする者は幼稚で愚かだ、という雰囲気、なんとなく感じたことがありませんか。それこそが何らかの感情に振り回された結果のようにわたしには思えてならないのです。「中立」や「冷静」「論理的」に憧れて、ははんそれじゃダメだねと丘の上から品評する態度のほうがよほど幼稚で臆病なものではないだろうか、と。
そのような振る舞いは、いずれどんなところへ行き着くのでしょう。少なくとも実りある対話を目指す意思は伝わってきません。

他人の目に触れるSNS上で行われるものに限って言えば、自分とはあまりに関係ない世界の人間の話だという認識のもと、安全な場所からあれこれ論じる賢さのパフォーマンス、知性のアピールの題材とするに適したテーマだぞ、と見い出されたのかもしれない、と思います。
また、「おおなんと現役の風俗嬢が!差別されながら頑張る珍しくて健気なこの子の声を聞きやがれインテリ野郎ども!」みたいなおめでたい引っかき回し(最低ですね、でも見ました)と一緒にされたくない気持ちからのことかもしれません。「こんなきっかけで自らについてマジメに振り返るなんて、日頃物事を考えてもおらずセンセーショナルなものにすぐほだされる感傷的な甘ちゃん」「憤ってみせるなんて、私は女性に優しいのですアピールかよ」というレッテルを貼って回る人(これらも最低ですね、でも見ました)から逃れたい気持ちのあまり、わたし個人の存在を軽く見積もり切って捨て、あらかじめ周囲にアピールしておくに至った、そんなような心の動きもあるかもしれません。

もしかしてそんな感じなのかな、と思わされたケース、ちょっとありました。
そうして自分を守ろうとするのも、また感情のひとつです。でも彼らが怖いのなら(それは実際確かにとても怖いものです、わたしも心から怖れます)、せめて黙っていることができるのに。
自分自身の持つ知性を粗末に扱うかのような行いだと思いますし、いつでもそうしていると自尊心というか、なにか元気の素みたいなものがこわれてしまいそうです。

 

美術館に対する恐れがいくぶん解消されたのと同時に発信し続ける気力がすっかり尽きたために、わたしは以後この件をテーマとして何か書いたりはしていません。ある著名な方に、彼の登壇したトークイベントで「タイの売春婦と自分は同じ、と言い代弁するのは良くない」とご批判を受けた際には匿名の攻撃的なメールが増えて辟易しましたが、そのままにしてしまいました。
(今なら少しは言葉が出ます。「わたしもタイのセックスワーカーと同じです」と言うことと「あなたはわたしをかつてのタイのセックスワーカーにしたのと同じように扱うつもりがありますか?」と問いかけることはわたしにとって全く違うつもりでいましたが、伝え方が間違っていたでしょうか、と。しかし彼がわたしを「最強の弱者」「厄介」と表現なさった文を読むと、教えを請うたとしてただのご迷惑にしかならなかったでしょうから、黙っていてよかったと今は思っています。)
また先ほども書きましたが、美術館に対するわだかまりも現在特に大きなものを抱えているわけではありません。ゲストブック上やメールで時々ご意見が送られてくること以外は、わたしはあの頃の騒がしさから、おおむね離れることができています。

でも、最初のメールを書いたあのときの気持ち——写真家でも美術館でもないもっと大勢の他人に対して感じた抗えない巨大な恐怖(当時は「4への気持ち」と名前をつけていましたね)——が消えてなくなったわけではありません。そこから離れることはできません。だから、完全に口を閉ざすこともできないのですが、恐怖について語る限りこれからも時には小石が飛んでくるんだなあと思うと、そりゃあ、少しは憂鬱です。

こころよくない感情は、それが自分に向けられたものではなくても気持ちのいいものではないでしょう。わたしもそうです。
ですがそれを持ち表明する権利は誰にでもあって、それはとても大切なものです(それで他人の権利をおかすならもちろん制限されるべきだと思いますが、今回わたしはそのような間違いを犯してはいないはずですので、失敗だのと言われる筋合いはないでしょう)。

そういった類の感情はどうしてか、持たないことや隠すことが美徳のように扱われることがありますね。でも決して無かったことにして良いものではないはずです。見物客の他人がそう促しねじ曲げるなんてもってのほかです。それはその人の尊厳とぴったりくっついていますもの。
表し方をああだこうだと取り上げて当然のように査定し、やれ感情的だの冷静だの、ほめてみたりけなしてみたり、どちらからの言葉もわたしにとっては同じです。それなのに心の表面をジャリジャリと傷つけてゆくので困ったものです。

 

「冷静でイイね」「感情的でダメだね」「優しすぎ」「生意気」「チェンジw」「こういう女の鼻をへし折ると興奮する」「風俗嬢は天使」「売春婦が人権を主張するなんて嫌な世の中」「早く結婚すればいい」「早く死ねばいい」「あなたなら差別しませんので頑張れ」「で、美人なの?」
励ましでも寄り添いでも叱咤でもない、ご指導でもご鞭撻でもない、敬意も礼儀も省かれた品評、採点、嘲笑。それを広く発信する、あまつさえわたし本人の元へと届ける行為はなんのためなのでしょう。あなたがわたしをどう思うかなんて、わたしばかりかこの世の誰の役にも立たない。なぜそのとき話し合われている問題ではなくわたしばかりを見るのでしょう、論じるのでしょう。……まさか不器用な愛の表現? なわけないよね。万が一愛ゆえの行いだとしても破壊を伴うと効率が悪い、ということは既に先人が指摘している(*) 通りです。
問題に関するあなたの思いを、心に生まれたものを、あなたはどう考えたのかを語ってくだされば、少なくとも「椎名こゆりクロスレビュー大会」よりはよほど道が開けるはずなのに。あなたの好むであろう「冷静で論理的な態度」にだってよほど近いのに。
それは、おいやですか。わたしと話したくなんかなくていいんです、あなたの心に、好きな人に、もしくはまだ出会っていない人に向けて語りかけることは、世界とあなたの役に少しも立ちませんか。

 

あ、そうだった。ゲストブックをどうしよう、と思っていたんです。
「はあ、こういった属性の人がこのような思いをこんな感じに発信するとこういう風に言われたりするんだなあ」という資料的な価値(というと何でもちょっとよいもののように思えるので好きな言葉です)というか、なにかを考える際の材料となりそうな気もしますしので、今はそのままにしようかな、と思います。今回はたまたま「風俗嬢」という属性のお話ですが、こういうのって一事が万事で、どなたにも同じようなことは起こります。起こらないよ、と思ってもすこし辺りを見渡せば、無視できない距離の場所で起こっているものでしょうから。

どうぞこれからもお気軽に書いてください。

 

そして何度も言いますけれど(何度でも言わなくてはなりません)、
わたし以外の性労働者に対するご自身の見方を省みたと言ってくれた方、売春によって糧を得た過去をご自身の中でどう扱うかという問題に勇気を持つことにしたと語ってくれた方、暴力に対する恐怖と、自分もまた無自覚に暴力の側に立ってしまう可能性への恐怖について考えたと言ってくれた方、そのように感情にあふれた理性的なお話を伝えてきてくださった方々もたくさんいらっしゃいました。すべてにお返事をすることができませんでしたが、わたしの心の奥深いところをそっと撫でてもらったと感じています。心の奥にある掲示板はそれらの力強い言葉で埋め尽くされ、今もなお支えられていますし、感謝しています。

 

あのときわたしが書いたものはすべて、長たらしく言葉を重ねた悲鳴でした。冗長で言葉の多い、嗚咽でした。

空の下にきょうも、大きな小さなさまざまな声があります。明日もあさっても。
声をあげたことでわたしは消費され、確かに何かを失いました。でも、植わった種もあったのではないかと自分に言い聞かせています。水のある場所に落ちた種もあったと。
わたしの声を聞きつけてとにかく手を差し出してくださった他人がそこに何人もいた。語ってくださった感情がわたしを支えた。この先も自分の感情を語り表す勇気を持ち続けていられるよう、このことを思い出しながら心を守り保っていられればと強く思います。それはきっとわたしが誰かに手を差し出す側となったときの力ともなるものでしょうね。
そうしてあなたとわたしの感情はいつかさらに強い形で支え合えるかもしれません。その芽吹きが、嘲笑の小石飛び交う中のことでなければ、ずっと素敵なのだけど。

 

長いエントリをお読みくださりありがとうございました。

 

えっこんなにいっぱいあるの……(これで全部じゃないんだよぜんぜん)(あともう4倍くらいあった)。
めちゃめちゃ愛されてるねこの曲!!

 

 


このエントリを読んで当時のことに興味を持ち知りたいと思ってくださる方もいらっしゃるかもしれませんので、どのようなことがあったのかだいたいわかるように簡単にリンクをまとめました
本文中に書きましたことをご理解くださいますようお願いいたします
東京都写真美術館にて過去に展示された作品の撮影手法に関する問題が取りざたされた際、ネット上で起こったことの簡単な記録(2014年12月〜)

2015-08-12 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ:  

 

別館ができました

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このブログとは別に、仕事にまつわる「モノ」の話をするブログを作りました。

上部メニューのannexから行くことができます。

そちらのaboutページにしつこいほど書いたので、あんまりここで熱く語るのはなんなんですけど、わたしはとても小さな待機室のようなブログを持ちたかったのだな……という感じです。

こちらのブログではそういった意識はあまり持たずに、いろいろな人を想像しながら書いているように思うのですが、別館のほうはセックスワーカーの方が読んでおもしろいといいなあ、と思いながら書いていくつもりです。ワーカーでない方に読んでほしくない、というわけではぜったいに全くないのですが、非当事者向けの解説、業界の中にいたことがある人なら容易にわかるような言葉や事情の説明のようなものはできるだけ控えめにいようと思っています。
(例えばタイマーの話でいうと『なぜスマホのタイマーアプリじゃだめなの?』というような)

ただ、セックスワーカーにもさまざまなかたちがありわたしに染みついている現場感覚のようなものもちっぽけなものですし、また当事者という存在は「これから働く人」も含んでいるはずで、そしてそういう方がいちばん不安だったりひとりきりだったりで情報をもとめているのかもしれない、とも思い、これからどういうスタンスでやっていくかは、はっきりしていないのですが。

平和に長続きするといいなあ。

あちらにはコメント機能もつけていますので、お気軽にどうぞ。

goodluck,sweetie

2015-05-26 | カテゴリ: お知らせ, weblog | |  

 

ヒマワリ、パクチー、カフェオレ色のクマ

ゆきよさんのお通夜に参列することができました。わたしが彼女のことを書いたものがご親族の方の目に留まり、声をかけていただけたのです。

少し迷いました。わたしは初めての場所に出かけることがたいへん不得手(いままでどれほど他人に迷惑をかけてきたことでしょう)ですし、まして埼玉県には全く土地勘がなく夜間で天気は雨、また次の日は大事なお客さんがロングコースの予約を入れてくれていたので、泣いたりして目が腫れたら仕事にならない、という不安もありました。
そしてなにより、友人でもなく仕事仲間でもなく、一時期ちょっと交流してもらったというだけで今となってはただの読者のひとりでしかないわたしが、そんなところに出ていっていいものかどうか、と。

それでもやはり行こうと決めたのは、やはり年上の友だちの助言でした。セレモニーは残された人のためにある、きっと区切りをつける一助になるから、できれば足を運ぶとよいと思う、と。

初めて乗った東武鉄道は知らない駅名ばかりなのでいつでも路線図から目が離せず、乗換案内アプリの示した電車にてんで間に合わず、バス乗り場では後ろ側のドアが開いたことに驚いてオロオロしたりしましたが、なんとか辿り着くことができました。ゆきよさんが高校時代を過ごした街。会場の案内図には「大塚幸代」と案内されていて、ゆきよさんの名前って漢字だとこうなんだ……とまったくばかみたいに今さら戸惑いました。

つくづくわたしは「ゆきよさん」に面倒をみてもらっただけだった。それなりの大人としてライターの大塚幸代さんにも会ってみたかった、そのずば抜けたセンスに生でくらくらしただろうな。そう思いながら中に入ってすぐ、お焼香ではなく玉串奉奠の用意がされているのに気づき、うんと昔にゆきよさんが「ねえ私死んだらどうやら神式の葬式になるらしいよ?この年まで知らなかったんだけどー」と言っていたことを急に思い出しました。持ち方とか回し方とかちゃんとしたお作法があるのだろうけど、全然わかりません。わかりませんという気持ちを瞳に込めてスタッフの方と目を合わせると「これをね、根元のほうを祭壇に向けて……」と丁寧に耳打ちしてくださり、でも結局やっぱりなにがなんだかきちんとできず、とりあえず置いた、という感じになってしまいました。ごめんねゆきよさん、ああしかもわたし御玉串料?でいいの? 入れた袋も思いきり蓮の絵ついてるし全部グダグダだよ、思い出せばよかったのにね、ごめんね、と思って写真を見たら、ゆきよさんはまるで「んああもういいよそんなの!テキトーで!」と言っているような顔で笑っていました。まごついたせいでワッと泣いたりせずに済んで、たすかりました。ただ、忘れているんだなあ、ということがつらかった。

とてもたくさんの人が来られていて、でもわたしを知っている方がいるわけではないのでそっと失礼しようと思ったのですが、片隅に置かれたテーブルに写真が飾られており、そこでしばらくの時間を過ごしました。
ゆきよさんの携わった書籍やお友達との写真、子どもの頃のアルバム、かわいがっていたのであろうぬいぐるみ。ハートをつけた茶色いクマのぬいぐるみはどこかで見覚えがあるもので、そっと触れて話しかけてみました。ゆきよさん、どっかいっちゃったねえ。さびしいねえ。

家に帰ってお引き物の箱を開けたら、そのクマさんによく似た色のタオルが入っていて、なんとなくうれしかったです。故人のぬいぐるみ(を持たない人ならそれに準ずるなにか)(ぬいぐるみに準ずるものってなんでしょうね)を置く習慣、もっともっと広まればいいのに。そのくらい、ぬいぐるみひとつで心がはげまされたのです。

 

次の日には無事にいつもとかわりばえしない顔でお客さんと会いました。普段はいちおうネイルをしているため自爪でいるのをめずらしいねと言われ、ゆうべお通夜に行ったので、と言って少しだけゆきよさんのことを、「以前お世話になったお姉さん」と話しました。彼はわたしが持つお客さん方の中でも人並み優れた育ちのよさ(育ったご実家の経済力、という意味でなく)と共感性の高さを持っている、とわたしはにらんでいる相手なので、話すことにいやな感じはしなくて。でもオフラインで彼女について誰かに話すのは初めてで、それがお客さんなのが不思議な感じでした。わたしの本名も知らない人。

 

ズーズーしくなりなね。
自信を持ちなね。
わたしたち、いま生きてる人を、いま大切にするしかないんだよね。
好きな人に好きと言わないと、いつか必ず後悔することになる。
でも……私なんかに好意を持たれて迷惑かもって気持ちがあると、もう、できないから。
ユリちゃんは自信を持ってね。理由なんていらない。だって女の子は幸福でいなくちゃいけないって、信じてる。

ゆきよさんが言っていたこと、わたしに言ってくれたこととブログやなにかに書いていたこととの区別ももうわからなくなってしまっているけれど、この数日間ずっとたぐりよせてはつなげて並べていたこと。

 

すてきなおともだちだったね、まだまだいきたくはなかっただろうに、かなしいね、いまは。お客さんがそう言った声には若い女への憐れみを楽しむような気配を少しも感じなかったので、わかってはいたけれどほっとしました。つい、この人が突然にいなくなってもわたしがそれを知ることはいつまでもありはしない、悼むことも別れることもできはしない、逆でも、という普通のことをしみじみと考えました。

好きだという言葉はあまり使えない間柄なので、別の言葉を探して、まわりくどく、忙しいでしょうけど身体を大切にして、と言いました。だって昨日まで元気で他愛ない話をしてベトナムフォーとか食べて、きょうも明日もあたりまえに元気だと本人もまわりも思っていたってわからない、人ってあっけないものなのねって思い知ったから。でももうしばらくのうちはあたしを指名してよね、と。

結局ありふれた決まり文句のようになってしまった。

彼は最初にわたしがファンレターを出して知り合った、というところを、すごいね、えらかったね、とほめました。図々しかっただけよ、と答えたけれど。

 

そしてまた突然に急に思い出したのは、いつかゆきよさんも、わたしのことを「えらいね」とほめてくれたことがあったのです。
店のホームページや客に見せるファイル用の写真(その頃はデリバリーでない店に勤めていたので、モザイクのない写真を店頭に出す必要があった)を撮られることはどんな気持ちか、という話をしていた時だったと思う。

ユリちゃんは、写真撮られるの大丈夫なんだねえ。いやわたしが苦手なだけなんだけどさ、自分の顔って、わからないじゃない。永遠に自分で見られないし、どんな顔してるのかって思うと怖いんだよね。鏡を見るのも。
超わかるー!と無邪気にわたしは言ったはずです。鏡に映った顔は左右がはんたいだし、きっと他人が見てる顔と違うと思うし、写真の中で笑ってたりするとこの人誰なんだろうって思う、自分、ってものじゃなくて、それどころか、いきもの、毛を長くのばして顔になにか塗っている変ないきもの、って思うよ。
それで、このへんないきものがわたし、このへんないきものがわたし、って思うときもくて、でもずっとやってると突然一瞬だけその「きもい」が「かわいい」と区別できなくなって笑いが出そうになるから、そこですかさずやめるの。
そいで、もう考えないの。

そんなふうに言ったときじゃなかったかな、ゆきよさんは「ユリちゃん、あなたはえらいですね」と言ってくれたんでした。どうして? ときくと答えずに、ただ、えらいですよ、ほんとえらいです、よしよし、と繰り返して。

力が抜けて、情けなくて、泣き笑いの気持ちで肩を落としました。超わかるーじゃねえよ、バカだなあ。

お客さんがシャワーを浴びているあいだ、ベッドの上でほんとにちょっと泣きました。仕事中になにやってんだ、バカだなあ。

 

お別れができてよかった。
そう思ったことも、本当です。機会をくださったご親族の方に、背中を押してくれた友だちに、心から感謝しています。でも、これから何度もわたしはゆきよさんに会ってしまうと思う。わざと呼び出したり、不意に通りの向こうを歩いているのを見たり、はち合わせて驚いたりするのでしょう。そのたびにウッとなったり、ひりひりしたり、その審美眼をあらためて尊敬したり、ああこういうこと言ってたのかと学んだり、やっぱりちょっと泣いてしまったり、なんだよゆきよ暗いよ元気出せよオイ、わかったわかったかわいいよ、なんて思ったりもするかもしれない。

それはきっと新宿で、渋谷で、池袋で、高円寺で、iPhoneの画面で。

だから、やっぱり、おこられないように、自信の練習、するよ。

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2015-04-10 | カテゴリ: weblog, むかしのはなし | |