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ガールズヘルスラボのコラム

わたしの文章が載っています。

風俗嬢コラム Worker’s Live!! – クラミジアとわたし

今回は「STDにまつわる短いストーリー」を書きたいと思っているので、この文章は100%わたしの体験談というものではなくフィクション成分がだいぶあるのですが、書かれている思いはまぎれもなくわたしの長年抱えているものです。クラミジアをはじめSTDに対する、複雑な思い。

STDは日常的にセックスをする人であればいつでもどこでも感染の可能性があり、それは「予防の対策はいろいろあれど、100%が難しい」という点で風邪やインフルエンザとおなじなのですが、だからといって「風邪ひいちゃってさー」みたいに「クラもらっちゃってさー」とは同業の人間どうしであってもなかなか言えることではありません。

STDにかかる、ということが、人間として劣っている、ふしだらな者であることと同じ意味になる。
接触する相手やその方法を自らの判断と査定で選んでいるとは言えないセックスワーカーの間でさえ、そういう空気は流れているのです。
そしてなぜか、客に対してもそれを告げることは難しい。告げれば「病気を撒き散らし迷惑をかけた」ということになります。そのウイルスが、客から受け取ったものであっても。

ウイルスは人を選びません。人の心を見ません。どんなに誠実な心で、将来にわたって共に過ごすことを前提にして臨んだ性行為であっても、感染する可能性は風俗店で行われるそれと一切変わりありません。

ならば、人生のどんな場面でも「あなたは最後にいつ検査をしましたか?」と訊ね合って結果が印刷された紙を交換してから、ベッドに入るようにしましょうか。
そうでなければ、感染した人を「軽率だ」とは言えないのです。

 

そんなような、ややこしくも避けて通れないわだかまりを、少しずつ書いて行こうと思っています。

けれどSTDについて考えることは、明るい話題ではなくとも奥の方に自分や他人のからだやいのちについて思いをめぐらせるどこまでも広く自由な大地も広がる可能性が埋まっているように思います。そんなこともどうにか表せたらいいけれど。

またそのうちに更新されるので、よろしくお願いします。

 

ガールズヘルスラボのオープンによせて

風俗嬢のためのSTD(性感染症)とからだの情報サイト-Girls Health Lab

今年の夏にいちばんうれしかったこと。なにをおいてもこのサイトの誕生です。このことについて書き始めるといつまでも喋りつづけてしまいそうで、まとめられずにいましたが、公開当日の夜、あふれ出る気持ちをぶつけてしまったtwitterのログをここにまとめて残すことにします。
それでも長いのだけど、読んでいただけるとしあわせです。

RT @tamiyaryoko: ガールズヘルスラボ、オープンしました! http://t.co/gfvRKuA #
ついに!待ち遠しかった日がやってきました。わたしも今日初めて見たんだけど、うん。すごい。いいものができた!!!すごいすごい!!やったやったぁ!! http://www.girls-health.jp/ #
こういうサイトを作るとタミヤさんから聞い た時、ほんとうにわくわくした。まだ形のないそれを、どれだけの人が待ち望んでいるかがよくわかったから。そして少しだけお手伝いさせてもらえることになって、心からうれしかった。会ったことのない、でも同じ立場の人に、語りかけることができるんだ、と。 #
風俗業界の特殊な部分のひとつに、同業の人や同僚と、意見や情報を交換できる場所が極端に少ないことがあると思う。これまで従事してきた人々のノウハウを知ることができる場所も特にない。それは疑問や迷いや危機に直面したとき、業界内の人に頼ることができない、ということになる。#
かといって外の世界に助けを求めるとなると、自分がセックスワーカーであることを明かさなくてはならなくなる。わたしも婦人科で「なぜそんな仕事を?」と医師に言われたことがある。「貴女のような人に来て欲しくない」と看護師に言われた女の子を知っている。もちろん極端な例だと信じたいけれど。 # つづきを読む

 

夢について:セックスの相手

中学生の時に読んでいた雑誌の読者お悩み相談コーナーに「セックスする夢を見ました。わたしは変態なのでしょうか?」というものがあった。その女の子(おそらく同年代であったと思う)がその状況で「変態」という言葉に行き着くことにショックを受けたのでよく覚えている。

わたしはときどきセックスする夢を見る。だけどそれは、他の人がみているそれとは、違うものでもある。もしもその夢を調べたくなって「夢占い辞典」を開くとしたら(持ってないけど)、【セックス】ではなく【仕事】のページをまず引く、そういう夢もあるから。

仕事の夢、としてのそれは、特に余韻を残さない。夢の中の仕事でうんと気を遣って神経を磨り減らしていたときは、起きてからなんだかすっきりせず夢に文句を言いたくなったりもするけれど。

ときどき見る、そうでない方の「セックスする夢」。それらはほとんど、とても気に入ったものになる。ふだん夢の中ではあまり情緒が強調されないというか、現実よりも淡々と飛ぶように時間が過ぎることが多いけれど、そういう夢はたいてい、濃密でとても情緒的だ。夢の中でのわたしの感情が、とても豊かではっきりとしていて、それが目覚めた後もずっと残っている。

きのう、そういう夢をみた。

相手は夢の中でも現実の世界でも知らない、架空の男だった。恋人でも客でもないひと。夢でわたしが彼に対し好意を持っている、という演出もなかった。淡々とひたすら、言葉もなくただセックスしただけだった。

それはとても夢中で楽しくて、安心のある時間だった。相手が決してわたしを傷つけはしない、故意だろうとウッカリだろうと勘違いだろうと。それが保証されたような、安心がそこにあった。わかってもらえている、知ってもらえている。

そういう安心が現実のセックスにないことの不満があらわれた夢だったりして? と思わず自分を振り返ってみた。わたしは仕事外のセックスパートナーに対しては思うことをとても正直に話してしまう方だし、その点について夢に見るほどの不満を抱えてるってわけじゃないけど、求めるのは誰にも簡単じゃないことだと思う。当たり前だけど他人とすることだもの、自分でない存在の感覚を知る術はないし、ちょっとした痛みやちょっとした不快感と「そんなつもりではない」との間の細い隙間をちくちくと手作業で埋めてゆくのは、どちらにとっても気力の必要なことだ。

どんなに長く付き合って、何度も関係を重ねて信頼関係を築いた相手であっても、わたしだって爪の先を何かの拍子に引っかけてしまったり、指先の力がつい弾みで乱れたり、そういうことはしてしまう。されてしまう。100%の安心なんて、夢の中以外ではない。

痛いこと、あるかもしれないけど、もしそんなことがあっても怖くない。そう思ってもらえたら幸せだし、そう思ってもらえるようにいつも心を込めていたい。

セックスする夢のうち、特に強く印象に残って気に入っている夢の相手は、人間ではなくて水だった。水(正確にはぬるま湯)とのんびり抱き合っていた。
人間に期待しないあまり無機物との愛に目覚めたか! と自分の脳みそにときめいたものでした(そんなんじゃないけどね)。水、付かず離れず間合いも絶妙で、けっこう上手だったよ。

2011-09-01 | カテゴリ: たわいないはなし | |  

 

夢について:twitterで

午前3時50分。twitterで。
怖い夢をみて目覚めてしまった友だち。
たまたま目にして、あわてて声をかけた。こわい夢、という言葉がとても、わたしにもこわくて。彼女の夢の中に出ていって、助けてあげられればいいのに。
それからしばらくわたしはtwitterに残り、夢と眠りのことをぼんやりと考えていた。

そのときのpost、なんとなくとっておく。
夢について考えるのは、すこしこわくて楽しい。

 

*******
すごいこわい夢を見て、眠りに戻れない。

 

よし!じゃあいっしょにあそぼうか。それともぶたさんもよんでこようか。

わーい、こゆりんがいてくれるだけで充分だよ。ありがとう!

こゆりんもぶたさんもずっといっしょにいるよ。もうこわい夢はどこにもないよ。安心してゆっくりおやすみ。(注:彼女は豚をこよなく可愛がっている)

*******

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2011-06-08 | カテゴリ: たわいないはなし | タグ:  

 

夢について:白い塔の子ども

子ども時代、くり返し見る夢がわたしにもあった。

何度も何度も見る夢の定番は、きっと「何者かに追いかけられる夢」と「落っこちる夢」だと思う。どちらも、絶体絶命もうだめだ、ってところで目が覚める、っていう、あれ。怖い夢を繰り返して見ることは子どもによくあるようだけど、脳や精神の成長となにか関わりがあるのだろうか。いつのまにか見なくなって少しさみしかったり、とうに大人になってから不意打ちで一度だけやってきたりというのも、夢の「スパルタ教育」によく見られる手法のようだ。

わたしの場合は、塔のてっぺんから落っこちる夢だった。たしか、小学校にあがってすぐのころから見始めたんだったように思う。何度も見たけれど、それは怖いものではなかった。
どのくらいの高さだったかよく覚えてはいないけれど、何の柵もない白い塔のてっぺんから下を見ていた。静かで、落ち着いた光景だった。ふと空中へ足を出した。怖さなどなかった、落ちるかもなんて考えもせずただ一歩前に出ただけだった。
そして身体は落下した。真っ逆さまには違いないのだけれど、そのスピードはごく遅くて、わたしはふわりふわりと徐々に地面へと近づいてゆく。落ちている最中には仰向けだった。ほとんど平行な状態で、落ちるというよりも空気の中を沈んでゆくような感覚。——このままだとどうなるのかな。高いところから落ちると死んでしまう、ということくらいは知っていた。でもやっぱり怖くなかった。あまりにも気持ちのよいひとときだったのだ。
やがて、まもなく着地だと自然にわかった。少しは緊張したんだと思う、けれど衝撃はなくわたしの身体はそっと、羽毛のようにやわらかなクッションに受け止められた。あ、痛くない。やったぁ。そう思ったところで、スッと終わった。目覚めたわたしは単なる敷き布団に抱かれてそこにいた。

それから時々、夢の中でその塔の上にいることがあった。二度目からは、わたしはその空中散歩(自由に移動はできないし、お散歩というにはあっという間だけれど)をちょっと楽しむようになっていた。いつでも心地よい気分だったし、空はきれいだった。

あるとき、何度目かに訪れた塔は、それまでと様子が違っていた。
学校の友だちが、おおぜいそこにいたのだ。「この中の誰かが飛び降りなければならない」ということのようだった。誰もが絶望していて、天気は悪く、塔の下は草も生えていない焦げ茶色の砂地だった。いいよー、と言ってわたしは前に出た。だってどうせわたしはケガしないもの。痛くもないし、ただ下まで行ったら目がさめるだけなんだもの。そして、「ああ、これのためにわたしは、何度も何度も落ちたんだ。今までのあれらは、練習だったんだ」と納得した。みんながわたしを止めたが、わたしはきかなかった。いいからいいから、だいじょうぶなんだってば。そして笑顔で落ちた。
その瞬間、「もしもこれがお話だったら、『今日に限って普通に落ち、死ぬ』となるのではないか?」ということに思い至った。でもまあいいや。もし死んでしまったとしても、目を覚ませばいいだけだわ。
わたしは死ななかった。いつも通りにふんわりと着地し、今日くらいは立ち上がってみんなに手を振って無事を知らせよう、というのもかなわずあっさりと目が覚めた。

そしてその夢は姿を消した。その点についてはお話のようだわ、と思った。最後だけいつもとちがい、お別れになる、ってところ。そういうパターンのお話は本でよく読んでいた。あのふわふわをもう味わえないことは残念だったけど、特に惜しみはしなかった。子どもの暮らしは「これがさいご」の連続みたいなものだったし。

わたしは順調に年をとり、10歳を過ぎた。6歳の頃のわたしを知る大人が、みな目を細めて大きくなったね、と言ってくれるような、順当なよい子の年のとり方をした。そしてある夜、それが起こる。

あの塔にいた。

そこには学校の友だちもいた。そればかりか、大人たちもいた。そしてやはり「誰かが飛び降りなければならない」のだった。
わたしのするべきことは以前と変わらなかった。しかし、それを大人に知られてはいけない、と思った。自分の家族はこの中にいないようで、子どもはみんなわたしの友だちだけれど大人は面識のない人ばかりだった。かといって大人たちがわたしを黙って行かせるはずはない。何を言っているんだと叱られ、見張られてしまうだろう。けれど他に道はないのだ、ここから落ちて死ななかった実績があるのはわたしだけなんだから。多少身体が大きくなってしまったことが影響するかもしれない、とも思った。でも特に問題ないだろう、そうであってほしい。
わたしはできるだけ自然に、塔の縁へと近づいていった。怯えているみんなに気づかれないようにそっと。そしてある地点から一気に走った。走って飛び降りたのも初めてだったけど、なりふりかまっていられなかった。とにかく落ちろ、落ちればすべてがうまくいく。

ふわん、といつも通りのやわらかい感触が身体を包んだ。やった。昔と変わっていない。やはりこのまま地面まで落ちて、そっと着地して夢は終わるのだ。
その時、不安がよぎった。「待って」という声が聞こえたのだ。待って、ユリちゃん。はっきりと頭に浮かんだのは、わたしを追いかけて落ちる人たち、の姿。

だめ!これができるのはわたしだけかもしれないのに、あなたたちは落ちられるか分からないのに、落ちて無事でいるか分からない、いいえきっと無事じゃない。わたしは焦った。ついさっき自分が踏み出したあの塔のてっぺんを見ようと身体を起こした。みんなは、みんなはどうしてる? どうか黙ってみていてほしい、その場で呆気にとられていてほしい。しかしなんと身体はまったく自由にならない、ふわふわと優しく包まれているのに、自分の意思で首を持ち上げることはただの1センチもできなかった。
どうしよう、どうしよう、さっき聞こえた風の音は、あれは友だちの悲鳴ではなかっただろうか? もはやわたしはパニックだった。子どもが大人が、海に入るペンギンのようにばたばたと落っこちてゆく様が、確信を伴って頭から離れなかった。死んじゃう! 本当に死んじゃう、みんなどうして、だけどそれは、わたしのせい、わたしが、飛び降りたから、わたしが、わたしが殺した!!!!

やがて身体が地面に着いた。いつも通り、約束通り、ふんわりとあたたかく。
そして目が覚めた。
とにかく怖かった。目が覚めた安堵感よりもさっきまでの恐怖が勝り、それに「味方だと思っていた夢に裏切られた」というショックまで加わって、わたしは深く傷ついていた。すぐそばでは母親が眠っていて、その寝息がやっと心を落ち着かせ、同時にとてつもない罪悪感におそわれた。おかあさんごめんなさい、と強く強く泣いてあやまりたい気持ちだった。なにをあやまるのか分からないままで。

それはわたしが生まれて初めて見た「怖い夢」だった。
それ以来二度と塔に行くことも、どこかから落っこちることもなかった。

夢を分析してなにか納得しようとは思わないけれど、あの塔で起こったことは今でも時々思い出す。——まだ、どこかに建っているんだろうか。もしもそこで誰かが助けを待っているなら、わたしはまた飛び降りに行くだろうか。
もしまた連れていかれることがあったなら、時間がかかっても話してみよう。わたしを信じて、目を閉じて20数えてほしい、そう頼んでみたらどうなるだろう。時折そんなことをちょっと考えて、大人のわたしはベッドに入る。おやすみなさい、小さなわたし。パチン。

2011-06-08 | カテゴリ: たわいないはなし, むかしのはなし | |  

 

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