おはなしノート

ワーカーズライブ:ベイビー・カモナマイルーム

ガールズヘルスラボにて、11月のワーカーズライブを担当しました。
セックスワークにおいてツールとなるものは容姿や肉体サービス(だけ)ではないということ、キャリアやスキルは無視されがちだけど確かに存在すること。攻撃的だったり嫌味な相手でない場合であっても、そこに感情労働はあるということ。よくある「素人にある『優しさ』がプロになるにつれ失われる」という思い込みのまやかし……などなど、いろいろ盛りだくさんです、筆者の心の中は!

風俗嬢コラム Worker’s Live!!-Girls Health Lab: ベイビー・カモナマイルームghl1511

今回は甘めの話をひとつ、ということになり(前回が苦すぎたからね!笑)書いたものなのですが、ただのものすごく仕事する話になってしまいました。この文章の中でセックスワーカーのカナコちゃんは、キス以外の具体的な性行為をしているシーンがありませんし、裸体をさらしてもいません。ですが、彼女がとっても「仕事」していたこと、きっと分かっていただけるんじゃないかなーと思っています。

といっても、すべからく対人サービス業は(わたしたちの仕事に限らず)、一体どこまでが「仕事」なのか? というところがたいへん曖昧です。「それも仕事のうちでしょ」と言われては堪らないようなこと(規定外の行為を要求する相手を逆上させることなく諦めてもらうとか、侮辱的な言葉に対して理解できない振りをして笑うとか、いろいろ)も、たくさんさせられてしまう、せざるを得ないのが現状ですよね。

このストーリーでカナコちゃんが行っていることも、それも仕事のうちですよと言い切れないことです。だって本来の「仕事」といったら事前に了承した基本サービスにある項目、つまりキスとフェラチオと素股くらいのものなのですから。時折なぜか風俗嬢にカウンセラーや、はたまた「おかあさん」のような精神面のケアをする役割を当然に要求する人がいるのですが、それは不当です。
カナコちゃんほどキャリアがなく、お客さんの気持ちをここまで汲んではあげられない人もいるでしょうし、適性と技術があるセックスワーカーでもすべての相手を満足させられはしません。相性と時の運によるところが大きいことです。それに対して「プロじゃない、意識が足りない」などと言われるのはやっぱり納得いかないものです。

ただ、「キスとフェラチオと素股くらいのもの」を行う上で、どうしてもそれ以外に心を砕かなければならない、そうせずにはいられないことがたくさんあるのも本当です。それをするとき、単純にそうしたいと思ってしていることがあるのも。他の職業を引き合いに出すのは緊張しますが、例えば、看護師さんの役目としては「適切に採血をする」だけだったとしても、そこには「ちょっとチクッとしますよ」や「お疲れ様でした」という言葉と笑顔があり、患者は決して笑顔にお金を払っているわけではないんだけれども、それによって大いにケアされている、みたいな。それの容量大きい版が、規定の時間を過ぎた後で行われた長いディープキスだったのかなあと思います。

確かなのは、同じ「仕事のうち、とも言い切れない仕事」をするのであれば、暴力や嫌味やマウンティングから身を守りつつ相手の満足をかたちづくることより、このお客さんのような人と共に手を取り満足を探してさまよう方が、それはもうずっとずっと、幸せだということです。わたし個人においては、仕事をする中で得た大切な思い出、よいものとして大事にしまってある記憶というのはそれを通じた経験がほとんどです。

書いた人としてのわたしがこれを書いていてもっとも感情が高ぶったのは、最後の「1から始まり、あっという間に10になってドアが開く」という一文でした。セックスワーカーとしてのわたし自身の普段抱えている心情を、遠慮せず露骨に出したところだなあと思っています。伝わりやすい感情ではないかもしれませんが、すごく切実なの(笑)。文中で言うところの「気も狂いそうなほどの永遠」との対比を無意識にして、ああ「あっという間」だなぁ、と認識した瞬間、自分をねぎらっている気がするんです、普段わたしはね。

 

タイトルがすごくいい、とGHL主宰のタミヤさんに褒められて有頂天です。
これは、このお客さんの黒い本棚(の、二重になってる後ろ側)にはおそらく岡村靖幸のCDがあるようにわたしには見えたので、彼の作品みたいなタイトルをつけたくなってこのようにしました。

そうと決めるとこの男性までも岡村さんのような佇まい(このPVのときとか……)に見えてきて、そういえばタミヤさんは彼のファンだったな。と思いおもむろにLINEで「岡村靖幸さんお好きでしたよね?」と確認したところ「すきだよ超すき!だいすき!」と言われ。
今書いている原稿に出てくるお客さんが、なんだかあんな感じの男のひとなんじゃないかって思ってね……とモジモジ話したら「挙動不審なの?」とずばり言われたので胸の奥が熱くなりました。

 

それから……余計なことをちょっと書いてしまおうと思います。
このストーリー、わたしもわりと気に入っていますし、ロマンティックだと言ってくださる方も多くいらっしゃってすごく嬉しいです。ほんとうに嬉しい、これをロマンティックだと思ってもらえて。
でもね。ちょっとそれを横に置いておいて……例えばね、たとえばだよ、このお客さんがね、もし、この先もっともっとカナコちゃんと過ごして、ちょっと思い入れを持ちすぎて、いいことと悪いことの区別があやふやになってしまう状態に追い込まれて魔が差しちゃう、なんてこと、絶対に絶対にあり得ないとは言い切れないですよね。
そうなった時、おそらくカナコちゃんは「風俗で働いてたんだから自業自得だ」「どうせ性悪女が気を持たせるようなことをしたんだろう」と言われてしまう。もしも週刊誌に載るようなことになれば、どんな見出しが付くことか。
答えて欲しいわけじゃありません。ただ、一度だけ、ちょっとだけ、そういうことまでチラリと思ってくれたら、すごくすごく嬉しい。それもまた確かな現実の一部だからです。
せっかく好きになってくれた作品に自分で水を差すようなことをしてごめんなさい。ちょっと血迷いました。許してね。
このお客さんはたぶん月に一度呼ぶいいお客さんになると思うし、その度に少しずつうまくお話できるようになって、素敵な時間をたくさん持つんだと思うよ。

これを聴きながら書いてました

2015-11-03 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ: ,  

 

生きていかなきゃしょうがないんで

夏の終わり頃に、カミングアウトについての議論に触れる機会がありました。

きっかけは、どこかの雑誌が、ある男性のセクシュアリティをアウティング(本人が公表していないことを、同意を得ず暴露すること)したことでした。その人物がトラブルの渦中にあり、どうやら擁護のしようもない状況だとたくさんの人が彼に対して深く失望していた最中だったため、そのセクシュアリティを侮蔑したり面白おかしく揶揄したりする人が出てしまい、特に同じセクシュアリティを持つ人にとって失礼で暴力的な言葉があの時期にはしばしば飛び交っていました。

——「疑惑」とかいう言葉はどう考えても不当でしたが、その報道自体については、わたしはいまはっきりと「間違っていた」と言えません。アウティングはあってはならないこと、というのは強く思うのだけど、でも、未成年の人におまえは俺の奴隷なのだと宣言したうえで買春したということが本当なら、もしも相手が女の子であったならと想像すると、それは責任を負う必要があるでしょうよと思うので……異性間の出来事であったならば告発されるべきことが、同性間ならばされないべき、そんなことってあるかしら? と考えると、すっかり分からなくなってしまいます。今でも全然分かりません。
(現行の法律では売買春が成立するのは異性間のみ、ということは大まかに知ってはいますが、わたしはそれ自体がすごく変なことに思えます)

ただ、この件をちょっと脇に置いておけるとすれば、カミングアウトというものはどんな時も本人以外の手によってされるべきではない、という気持ちは確かなものです。
その人自身が決めた相手に、決めた範囲で、その人自身が選んだタイミングと方法で、するもの(または、しないもの)だよね、と。
たとえそれが他人から見て最善のものでなかったとしても、口を出されるいわれはないと思うのです。
それは、セクシュアリティに関してだけではなく。

「カミングアウトしないと卑屈な生き方しかできないのでは」「他の当事者のためにも正々堂々と公表するのが正しいマイノリティの姿では」といった意見もありました。でもわたしはそうは思えない。全然思わない。
自分がセックスワーカーであることを言えない場面で、卑屈な気分になっちゃうことはあります。ネット上に限られるけど、わたしが職業を明かしてなにか書いていることで、同じ仕事をしている人に「どんな酷いことを言われても我慢しなくちゃと思っていた気持ちが少し楽になりました」と言われてすごーく嬉しいことも確かにありました。でも、それとこれとは全然ちがうのです。
誰もがカミングアウトできるならそれは確かに理想かもしれません(そうなれば、カミングアウトという言葉も消えてしまうでしょうね)が、でも今の社会で他人に強いることは、とてもできません。

 

さて。
そうもいってらんねえ場面、というのが、人生にはありますね。

わたしにとってそれは医療機関でした。そういう人は多いと思います。
これまで医師に自分の職業を伝えたこと、たぶん10回近くあるでしょうか。できるだけしたくない、と思っているのに、せざるを得ない状況が上回ってこんなにも(わたしにささいな持病がいくつかあることも関係あるかもしれませんが)。
受け入れられたこと、そうでなかったこと、今も時々思い出しては心臓をグニャと押される気持ちになる言葉をかけられたこと、いろいろとあります。

性的な労働のカミングアウトは、なにも婦人科でだけの問題ではありません。
いつだったかは突然に喉が腫れあがり、耳鼻咽喉科でそうしたことがありました。もう少し余裕があれば「カレシが〜フーゾク行ったらしくて〜」みたいなことも言えたかもしれませんが、その日わたしは診察を受けている間に急に意識が薄れて(突然発熱したのでした)両脇から抱えられ、医師は何の病気か確信を持った診断はできておらず、とても不安で仕方ありませんでした。
そんな状況で「ちょうど一週間前に怪しいお客さんのお相手をした、そやつは片側の陰嚢が膨らんでいるように見えた上触れられるのを嫌がったためまさか精巣が腫れているのでは……と疑ったのだが、膿が出ているわけでもないので接客を断れずそれなりの時間オーラルセックスをした」という事実を伏せておくことは、できなかった。クラミジアか淋菌でこんな大事になるかなあ、と思っていても、わたしの乏しい知識にはないもっと別のウイルスがあるかもしれない。なんせ性感染症が身近になる仕事ですからなるべく見聞きするようこころがけてはいても、素人は素人なのです。

医師は動じませんでしたが何人かいた看護師が一斉にわたしを見ました。まるっきりコントのようでした。不意に驚いたときに他人へ遠慮や気遣いを発揮するなんてとても難しいことだから、傷つかないようにしよう、と思い、突然周囲の視線を浴びてどぎまぎするウッチャンの姿を頭に描いて癒されようとしましたが無理でした。そういう時の内村さん、可愛くて好きです。メイクや衣裳で作り込んでいないと、途端に照れ屋さんになるんですよね。

正体は溶連菌でした。溶連菌感染症であんなになる人っているんだね!驚きました。
このように、病気というものに素人のイメージはあてにならないものなのですね。だからカミングアウトが本当に必要かどうかの判断もできなくて、ぐらぐらと悩むのです。

 

つい最近もまた、久しぶりに医療機関で自分の仕事を明かす機会がありました。
溶連菌のときと違ったのは、わたしの疾患が町の診療所では手に負えないもので、「もし不快な思いをしようと、主治医を変えることはまずできない」状況であったことです。
わたしはこれまでの治療を通じて、その医師に好感と信頼感を持っていました。技術面でも、お人柄の面でも。仕事のことは特に話さないまま3年間のお付き合いがありましたが、先日とうとう、カミングアウトせざるを得ない場面が出てきてしまった。その情報があるのとないのとでは治療方針の判断に違いが出てくるのではないか?と、いち患者ですら思い至るような局面が、やってきてしまったのです。そして、治療の方針をあやまると、生死を分ける……なんて大げさな言い方はしたくありませんが、わたしの人生の残り時間がいくらか変わることも、十分ありえるかもしれない、と思えました。

言いたくない。言ってしまいたい。嫌な顔をされるかもしれない。どうしてそんな仕事を、と呆れられるかもしれないし、今すぐやめなさいとお説教をされるかもしれないし、就いた理由を言わされるかもしれない。きっとこの先生は頭ごなしに叱りつけるようなタイプではないだろう、と半分くらいは思いながら、でも半分くらいしか思えませんでした。
性的サービス業に対する気持ちというのは、その人それぞれに、心のデリケートなところに置かれていることが多いものです。ちょっと知っているだけの他人から見て、普段の様子からは似合わないように思える反応をしたとしても、少しも不思議じゃありません。

 

あっそうだ、ねえ先生、とわたしはたったいま思いついたことのように言いました。
本当は、3年間ずっと考えていたことなのに。

わたしね、風俗で働いてるの。ソープランドじゃないからセックス……挿入はしないんだけど、それ以外のことは、いろいろする、っていうか。

そう言うと先生はわたしを見ました。怒らないで、責めないで、笑わないで、そういう気持ちはわたしの頭にもうなくて、ただひたすら、まっさらなところに最初に置かれる言葉を待っていた。

先生はわたしにいくつかの質問をしました。普段行っているサービスの内容についてや、定期的に検査している項目についてや、その他いろいろ。ああ、うんうん、なるほどね、と言って、そして少ししたあと、基本的な治療の方針は今のところ変えないことをわたしに告げました。

「そっか、入院して切る手術を受けたくないのは、そういう理由もあったんだね、有給とか、ないだろうし」
そう言われてわたしは顔を上げました。そうそうそう、そうなの、仕事に行けないこともそうだし、たぶん、今の店は傷跡があると雇ってもらえなくなるし……と。ああ、そういうのもあるのか、それは大きな問題だ……と頷いて聞いてくれる先生の表情は、もうこわくはなかった。

診察室を出るときにわたしは言いました。
「よかった。ずっと、言わないといけないなーって思ってたんです」
先生はにこっと笑って、それは普段の診察で、調子はいかがですか、とか、今回の結果はなかなかいいよ、と言うときの笑顔と変わらなかった。そして、
「うん、大丈夫だよ。……ありがとうね」
と言って、そのありがとうね、というのだけが、ほんの少しいつもとは違うように聞こえました。新鮮でした。病院でありがとうって言われることなんてあんまりないから、それは、そうなんだけど。

じゃあまた二週間後にね、お大事になさってください、と言われて診察室のドアを閉め、わたしはお手洗いに向かいました。
ここにいる人はみんな何かしらの病気を持つ人とその付き添いです。たとえこぼれていなくても患者さんが眼を潤ませている姿というのは、決して見たいものではないでしょう。そのくせ、なぜだかとても敏感に気づいてしまう、視線が捉えてしまうものだから。わたしも患者のひとりなので、それが分かります。どうしていま泣けてくるのかはよく分からなくても。

安心した、ホッとした、それも確かにそうだけど、それだけじゃありませんでした。
いったいいつまで、この葛藤とつきあい続けるのか。わたしの人生だけじゃなくて、本当はこの街に大勢いるはずの、この建物にも絶対にわたしひとりな訳などないはずの、同じ種類の労働で糧を得ている人たち。だけど、この苦しみをどこかに語れば、そんな思いするくらいなら辞めればいいのにばかみたい、と、単なる「辞める決断のできない人」として扱われるのね。
そういう整理のつかないもやもやした気持ちがほんの2、3滴の涙になって、わたしの身体から出ていきました。病院のお手洗いって、とっさに少し泣くための部屋としての役割もあると思うので、いつでもきっちりときれいに整えられたこの個室で涙ぐんだ人は数知れずだろうけど、でも……こういう涙は、いらないんじゃないかな。いつかなくなるといい。少しずつなくなっていったらいい。

その日のお会計はいつもより金額が高く、領収書を眺めながらわたしはぼんやりと思いました。ああ、がんばって働かなきゃな。生きていかなきゃしょうがないもんね、と。
「働こう」という普通の気持ちが、傷つけられずにまだわたしの手の中にありました。

わたしのカミングアウトが、これからもわたしのものでありますように。誰のカミングアウトも、その人のものでありますように。
そしてできれば、それが刃にさらされず、尊重され、秘密は守られますように。誰も自分を責めることなく適切な医療を受けられますように。
この理想が少しでも現実に近づくことを願い信じています。そしてそれは身の程知らずの大それた、立場をわきまえない傲慢な贅沢などでは絶対にない、と。

2015-10-03 | カテゴリ: まじめなはなし | |  

 

タバコになりたい、紙切れでもいい

暑くて暑くて、ときどきもう自分は溶けだしているのではないかと思いながら二の腕に触れるとまるで本当に溶け始めているかのようにぬるりと汗が滑った今年の夏ですが、何もかも嘘か夢だったみたいに寒い。寒いです。ちょっと肌寒いともう心の隙間から冷気にやられて寒く感じるようにできています。
あんなに毎日スイカを食べていたのに。スイカかかき氷かアイスクリームのことしか思い出せないのに。
この夏ほかに何をしていたかというと、恋をしていました。春風亭昇太(7月にきいた噺の中で小鳥になっていた姿がとても可愛くてよかった)とシャーリーズ・セロン(メッメッ)と、そしてもうひとり。

 

わたしは長岡亮介さん(東京事変で「浮雲」名義でギターを弾いていた男性です)のファンで、「8月に出る椎名林檎の新譜PVに変な服を着て出演している」という情報を得てちょっと楽しみにしていました。気づけば発売日を過ぎ、そうそう、とアクセスしたYouTubeで見た彼は期待通りに真面目な顔で変なカッコして変な動きを見せてくれていてたいへんステキだったのですが、切り替わった画面にいた女の人にあっという間に目も心も奪われてしまったのです。ほんの一瞬のうちの、完全な一目惚れです。

ちょっと検索すると彼女のお名前や所属などはすぐに分かり、ああ同じようにすっかり魅了されてしまった人々がどれほどいることか、と思いたくさん開いたGoogleの画面を前に微笑んでしまいました。心の動揺を隠さないままそこかしこの知恵袋的な場所で情報を求めていらっしゃる方もお見かけしましたよ。恋心をtwitterに吐露していた方も多かったですね。おうみんな仲間だ。

こういうとき、名前がわかるとなんだか安心しませんか。確かに目の前に姿があっても、特定して呼ぶことができない状態だと相手の存在が不確かになってしまうような感覚。本当は関係ないのにね。
そういえばわたしもときどき自分のお客さんに「なんて呼んだらいい?」って言っています。基本的にお客さんに名前を使って呼びかけはあまりしないんだけど、時々はちょっと呼んでみたくなる人もいるものです。でも呼ばれ方ってできれば自分で選びたいものだと思うのですよ。たとえその場だけの名字でも。下の名前で呼んでほしいときなんかは、向こうから言ってもらわないとなかなか難しいしね。

それか、リピーターなのにその人の名前をきれいさっぱり忘れてしまったときですね。反省はしている。あと初対面で突然の呼び捨てを、それも20年前の男子校での友達かというくらいのMAX馴れ馴れしいモードで繰り出してくる人がたまに見かけられ、驚くべきことに彼らはそれで親密さを獲得できると信じていたりするのですが、全くおすすめしません。

話がそれました。

彼女のこと、本当はこれまでにも見かけたことがあったはずなのです。ウィキペディアで見たら、えっそれ知ってるよ? という作品がいくつかあった。
でも、平井堅のPVのときはもう仮装と言っていいような出で立ちだったし、PerfumeのPVのときはほとんど仮装といってもいいようなメガネをかけていたし、星野源のときはほとんど仮装といってもいいような髪型(まぶたギリギリのマッシュルームカット)をしていたし、きっと以前からのファンの方にしてみたら今回の作品で「わあついに世間に見つかった!」という感じだったかも。

ただ気怠げに歩いているだけで、正面の顎から首、鎖骨までが素敵で見とれてしまうのだけど、ダンスシーンになるとその美しさを造っていた骨組みと筋肉がぐっと強調されて目を見張ります。きれいとしか言いようがない。悲しいストーリーのビデオなんだけど、きれいとしか言いようがないです。吉田羊さんが彼女を評して「一体どこから降って湧いた」と表現しておられたのですが、ほんとそれな。ほんとそうですよ。一体どこから。

YouTubeで一度見た後すぐにiTunesを立ち上げ購入し、夏の間は毎日のように見入っていました。おかげで仕事中、シャワーを浴び(させ)ながらふと変なことを思います。

——あんなふうにこの人を手にかけたら、どんな気持ちがするかしら?
みたいなことを。ちょっとだけだよ。

しかし不思議なのは、そんなふうに思う瞬間はたいてい、好きだと思える人がそこにいる時によぎるものなのです。失礼で嫌味で怠惰な、愛想笑いの裏側で絶え間なくウンザリさせられるような相手にではなく。

 

昔こんな心理テストを見かけたことがありました。問いがいくつも重なるタイプの。

美しい牛と醜い牛、どちらかを食べるとしたらどちらを食べますか。

好きな牛と嫌いな牛、どちらを食べますか。

名前の付いた牛と付いていない牛、どちらを食べますか。

美しい人と醜い人、どちらかを食べなければならないとしたら。

好きな人と嫌いな人ならば。

 

そんなこと考えさせないでよ、と思います。
あまりにも困る。

それか、もしかしたら、こんな仕方のない問いでかわいいひとと互いに困らせあい、その困った顔を見て胸に甘苦しいときめきを得るための心理テストなのかもしれません。贅沢ですね。

何回かは空想の中で、架空の愛しい男の唇をガムテープで塞いではその心地悪い滑らかな感触越しについばんでみたりしたのですが、度胸もない上に不器用なので美しく殺めることなどできずだいたいあっけなく剥がしてしまいました。それもけっこう痛そう。口唇と皮膚の境目がたちまちヒリヒリと赤くなったのを見て、痛かった?まさかね? と言ってわたしはちょっと笑います。

そんなひとり遊びをしているうちにすっかり秋でした。

ただシェラトン(だっけ)のシャワーを見るととりあえず「あ、角があってよさげ」とは思う。

 

 

ELEVENPLAYのSAYA(篠原沙弥)さんという方です
2番の最初で一瞬だけ微笑みかけてくれるところでいつも胸が震えます
amate-raxiは閉店前に素敵な映像にのこしてもらって幸せなクラブだと思う

 

2015-09-14 | カテゴリ: たわいないはなし | |  

 

残暑(って感じしないよね!)お見舞い申し上げます

こんにちは椎名です。まいにち暑くてこまりますねえ。
またもゲストブックの話です(やれやれ)。
お返事しないルールだったんですが、ちょっと書くことにしました。
妙ちきりんなことを書けば返事するんだ!とか思われても困っちゃうので(笑)、こっちにまとめて書きます。

 

(14)c71さん

こんにちは。おかげさまでげんきに過ごしてますよ。
わたしはこういう言葉にすっかり慣れてしまっているところがあり、資料として(笑)置いて置きつつ、聞く耳を持ってくださる方のほうに向けてブログエントリにてお話させていただく、という方法を今回も取りました。
しかししっかりと怒りを表して反論するc71さんの言葉に、背筋を正されるような気持ちがしました。怒ってくれてありがとう。
c71さんのブログ、読ませていただいてます。励まされたり、自分にない視点をもらえたり、刺激的です。
どうぞお身体をいたわってください。といっても、それも簡単ではなかったりするけれど、身体が求める時は休ませて甘えさせてあげてくださいね。

 

(15)しらたまさん

メール、届いています。ていねいに謝ってくださってありがとう、でも気にするようなことじゃないですし、謝るようなことでもないですよ。優しいお気持ちからのこと、ありがたく受け取りました。書いてくださって、よかったです。
しらたまさんをドキドキさせる前にわたしが何かひとこと発していればよかったのだと思うんですが、ちょっとズボラだったもので。えへへ。しらたまさんがわたしの意図を汲んでくださったこと、じんわりと嬉しかったですよ。ほんとうに。
お盆あたりは疲れる仕事が増えてげんなりしがちですよね。あるある。お疲れさまです。
しらたまさんのお客さんがみんな紳士で(そしてできればお金持ちで♡)ありますように。
また遊びに来てくださいね。

 

(13)Bearさん

せっかくの書き込みの反映が遅くなってごめんなさい。
お察しの通り、文字数で引っかかってスパム扱いされていました……(そういうことが初めてでしたので、気づくのが遅くなり失礼いたしました)。
メールもありがとうございました。きっとかなり泳ぎの上級者でいらっしゃるのだろうな、と思いながら読みました。わたしはBearさんのような読者を持てたことがとても嬉しいですし、この嬉しさはこれから何かを書く時のすてきな栄養になることでしょう。
Bearさんが泳ぎ疲れたとき、わたしの小島で一休みしませんか、と誘えたらいいなあと思います。おいしいものを用意してお迎えしましょう。もちろんホカホカごはんも炊きましょう。すぐにわかるようかわいい旗かなにかをいつも飾っておこう(訳:エントリはさぼらず書こう……)と心に刻みました。力をくださってありがとう。
ところでほんとこの暑さが残り物なわけないだろう、ですよね。23歳くらいの男の子が10代の後輩に向かって「もうオレおっさんだからさぁ……」って言ってるのを目撃した時みたいな気持ちです。あなたは充分まぶしいよと言いたい。

 

(12)進撃の悠人さん

もうひとつ書き込んでくれましたね?
でも残念ながら問題のある言葉が含まれていたためか、スパム判定されていました。あなたの名誉のためにサルベージはしないので、感謝してくれてもいいですよ、うふふ。

(わたしの想像であなたのお気持ちを語るのは失礼かとは思いましたが、あなたが先に失礼だったので、その程度の失礼はしても良い、という判断を勝手に下しました、ご了承ください)

悠人さんにはわたしが「失敗」したかのように見えていて、それがあなたにとってとても悔しかったのだなあ、ということが伝わってきました。
今回のことで、わたしが肖像権を主張できる立場にないこと、それを主張してもあなたが言うところの「勝ち目」などありはしないこと、落ち着いて考えればわかるだろうと思います。あなたは冷静になれないまま、それっぽい物言いでわたしに何らかの苛立ちをぶつけてこられた。
わたしの想像では、あなたは風俗嬢を見下しながら、同時にどこかに共感……他人とは思えないような何かを感じているのではありませんか。社会の下層にいる風俗嬢がもし「勝ち」をもぎ取ったなら、世の中の権威に目にもの見せるようなことになったなら、どんなにかスカッとしたのに、お前ときたら「失敗」しやがって。そういう悔しさから来る憎しみを感じました。

そして荒野でうなだれているひとりぼっちのわたしを想像するとご自分もつらく、それで「結婚」という言葉が出たのではないかと推理しました。虚勢を張ってみすみす勝てない試合に打って出るようなことはやめて、権力のある男に守ってもらって平穏に暮らしていてくれよ、と(見方によっては優しさと呼ぶこともできそうな感情にも思えます)(現実には結婚ってそんな力まではないと思うんですけどね)。
残念ながらわたしはその悔しさを共有することができません。わたしにとってこれは試合ではなく、勝つとか負けるとか、そういうの、ないんです。わたしを勝手に誰かと戦わせて便乗しようと思っても、そうはいかないのです。
きっとあなたには、あなた自身の戦いがあるんじゃないかしら。だとしたら、向かうべきです。他人なので無責任に言いますよ。向かうべきです。
あなたの共感を、もっとあなたにメリットのあるように生かす理性的な方法がどこかにあるように思えます。どこかは知りませんけど、そんな勇ましいペンネームを名乗るくらいですから、きっと大丈夫でしょう。

 

(16) 明日さん
風俗の女の子か誰かに優しくされましたか。よかったですねえ。
ええ、大変な仕事です。そりゃあそうです。しかし、なんで大変になっちゃってるのか……考えたことはありますか? 誰がその大変さを作り出しているか、考える気はありますか?
そこを考えるおつもりがないなら、もう来てくださらなくて結構です。
わたしたちの幸せを願う、なんていう手軽で安易なヌルい気休めに走らないでください。
それともわたしたちが幸せになるために何かしてくださる覚悟や準備がおありなのでしょうか。
そんな難しいことは求めませんから、どうぞあなたが幸せになることを考えて生きていってくださいませ。まずは酔っ払ってこういうところに書くのをやめましょうか。

2015-08-16 | カテゴリ: たわいないはなし | |  

 

ひとつくさってふたつ芽吹いて

東京都写真美術館の一件から、半年以上が過ぎました。

担当者の方から複数回お返事をいただけましたが、当時わたしは疲れ果てており、改めて報告のような形をとりませんでした。本当はそうするべきでしたが、お返事を受け取ったということ以上にはもう何も言えませんでした。
それよりも少し前に、今までは批判する人さえほとんどいなかったことを問題視する契機を作り出したことであなたはもう十分役割を果たしています、と松沢呉一さんに声をかけていただいたのをきっかけに、ああもう何もできないけどそれでいい、今やるべきことは自分の心身を守ることだ、と思うに至っていたのです。
(松沢さんからは個人的なねぎらいの言葉としても、また連載されているウェブマガジンで当時の記事内容からもたくさんの得がたい視点や導き、また励ましをいただき感謝しています)

時間が経ってしまいましたが、いただいたお返事は主にこのようなものでした。

  • 本来は撮影OKの店ではないことは、作家本人から企画者に語られていた
  • しかし、そこで撮影されたのが作家が無断で強行に及んだゆえであったことを把握していなかった
    そのため当時倫理的な懸念を持つに至らなかった
  • 展示当時、お客様から疑問視するご意見もなかった
  • しかし事実があのようなものであるなら主催者として大変に遺憾である
    椎名さんに不安な気持ちを味わわせた事実とお伝えいただいたご意見を重く受け止める
  • 作家に対しては撮影手法について慎重に対応すべきであったと申し入れた
  • 展示の可能性がある作品に倫理・人道上の問題や、特定の個人を傷つける恐れのある場合は、当事者の立場に立った最善の対応に努めたい

結果的に皆様に不快をもたらしたなら遺憾です、というよく見るあれではなくて、椎名さんを不安にさせました、とはっきり言ってくれたことがわたしを安堵させました。送ったものの内容は読まれた、と思えましたし、身も蓋もないような表現をすると、少なくとも言葉の上で、性風俗業に従事していない人と同等の扱いを受けた、と思えたのです。その気持ちがどんなものかは、伝わりにくいかもしれません。そうですね、たとえば「被害者がホステスや風俗嬢であったことが加害者の罪の重さに影響した判例がある」とか、そういう事実(そう、事実です)(影響、の方向はご想像の通りです)(歴史上の話、ではありません)に思いを馳せていただくとちょっとは想像しやすくなる……かもしれないです。

それからもしばらくは、写美の学芸員の方がお書きになった本を読んだりしながら緩やかに長いこと考えていました。そしてやがて「これからも行きたい展示があれば美術館に足を運ぼう」「わたしを傷つける存在としてそれを避けたり諦めるのは早い」「こういった問題はこの先も考え続けられるべきだが、そのために本件にこれ以上に追及するべきものがあるのだとしても、それはわたしが背負うものではない、これ以上は背負えない」という気持ちにたどり着きました。
それから、もしまたどこかで同じように特定の職業の人を不安に陥れるような脅威があったなら、その相手が公共の施設であっても「自分は世間から後ろ指をさされかねない人間だから」と顔を覆って閉じこもらず、勇気を出して声をかけられるといいな、と。それが今のところのわたしの気持ちです。解決しましたとは言うつもりもなければわたしがそんなことを言える筋合いも全くありませんので、その点は誤解なさいませんよう念のためお願いいたします。

 

さて、ゲストブックをどうしたものかしら、としばらく考えていました。

いつの間にか偏見発表会(無自覚部門も開催だよ!)みたいになっちゃってるところがあり、わたし以外の方の目に触れさせても不毛かな、と思って。
いつまでこんなこと続くのかしら。きっと、いつまでもでしょうね。

今もなお「感情的でない」という理由で誉められたりすることがちらほらあり、わたしはその表現に接するたびに嫌悪感を抱きます。
わたしの書いたものたちは感情のかたまりであったはずです。必死で自分の感情についてお話しさせてもらったんですのに? と。

「感情的」という言葉は「激しくヒステリック」「取り乱していて見るに堪えない」みたいな意味で使われているのでしょう。つまり「あなたは興奮した様子じゃありませんね。だから支持します」「あなたの喋りはみっともなくないので、聞くに値すると思います」そういうことなのでしょうか。彼らはこの思いの何を受け取ってくれたのでしょう、わたしは安心することができません。

その一方で「感情論に終始しており冷静な意見とは言えない」「重大な犯罪でもない話に感情を持ち込んでぎゃあぎゃあと」「これだから女はみっともない」とも同時に言われるわけです。彼らが話を聞いてくれるように思いを伝えることはとても難しく(なんせ「思い」ですから)、わたしの能力ではできません。

感情というものがなぜ、このように嫌われ、避けられるのでしょう。誰も逃れられないはずのものなのに。
感情を存在させた瞬間に論理が、その正当性が即座に失われるかのように言われることさえもありますが、本当にそうなんでしょうか。同時には存在できないものなのかしら。

感情を抑えた話し合いが必要な場面はいっぱいありますね。個人の感情を持ち出すとにっちもさっちもいかなくなったりして。
でも、あの時のわたしの行為は「写真をはじめとした芸術表現にまつわる有意義な議論を交わす任務を自ら買って出た」ようなものではなかったです。「この展示がわたし(を含む性労働者)の人権を損なう可能性、それを見てください、それがそこにあると言ってくれますか、と訴えかけた」つもりのものです(マッドマックスみたいになっちゃった)。
それが結果的に知識ある方によって有意義な議論となり、その種のひとつぶとなれるなら幸いではあるけれど……と思いながら、わたしはわたし自身の持つ権利に限って主張するよう心がけました。芸術を知らない、法律を知らない、タイという国のことも知らないわたしがせめてどなたにも失礼にならない誠実な態度で公共の場に意見を述べるには、そうあるべきだと考えたからです。
わたしがわたしの話をするのです、わたしの話せるように話す以外ありません。

その内容を「この女は感情的か否か」という基準で査定しようとやって来る人々が望んでいるものは果たしてなんなのだろう、どんな理想のもとに行われる裁きなのだろうと考えますが、やはり難しいです。途方に暮れるばかりで答えは見つかりません。

 

一切の感情表現をせずに事実だけを並べたものと比べて気持ちの話に触れたものは劣っているのだ、冷静に俯瞰で中立から物事を論じるのが知的な態度であり感情を口にする者は幼稚で愚かだ、という雰囲気、なんとなく感じたことがありませんか。それこそが何らかの感情に振り回された結果のようにわたしには思えてならないのです。「中立」や「冷静」「論理的」に憧れて、ははんそれじゃダメだねと丘の上から品評する態度のほうがよほど幼稚で臆病なものではないだろうか、と。
そのような振る舞いは、いずれどんなところへ行き着くのでしょう。少なくとも実りある対話を目指す意思は伝わってきません。

他人の目に触れるSNS上で行われるものに限って言えば、自分とはあまりに関係ない世界の人間の話だという認識のもと、安全な場所からあれこれ論じる賢さのパフォーマンス、知性のアピールの題材とするに適したテーマだぞ、と見い出されたのかもしれない、と思います。
また、「おおなんと現役の風俗嬢が!差別されながら頑張る珍しくて健気なこの子の声を聞きやがれインテリ野郎ども!」みたいなおめでたい引っかき回し(最低ですね、でも見ました)と一緒にされたくない気持ちからのことかもしれません。「こんなきっかけで自らについてマジメに振り返るなんて、日頃物事を考えてもおらずセンセーショナルなものにすぐほだされる感傷的な甘ちゃん」「憤ってみせるなんて、私は女性に優しいのですアピールかよ」というレッテルを貼って回る人(これらも最低ですね、でも見ました)から逃れたい気持ちのあまり、わたし個人の存在を軽く見積もり切って捨て、あらかじめ周囲にアピールしておくに至った、そんなような心の動きもあるかもしれません。

もしかしてそんな感じなのかな、と思わされたケース、ちょっとありました。
そうして自分を守ろうとするのも、また感情のひとつです。でも彼らが怖いのなら(それは実際確かにとても怖いものです、わたしも心から怖れます)、せめて黙っていることができるのに。
自分自身の持つ知性を粗末に扱うかのような行いだと思いますし、いつでもそうしていると自尊心というか、なにか元気の素みたいなものがこわれてしまいそうです。

 

美術館に対する恐れがいくぶん解消されたのと同時に発信し続ける気力がすっかり尽きたために、わたしは以後この件をテーマとして何か書いたりはしていません。ある著名な方に、彼の登壇したトークイベントで「タイの売春婦と自分は同じ、と言い代弁するのは良くない」とご批判を受けた際には匿名の攻撃的なメールが増えて辟易しましたが、そのままにしてしまいました。
(今なら少しは言葉が出ます。「わたしもタイのセックスワーカーと同じです」と言うことと「あなたはわたしをかつてのタイのセックスワーカーにしたのと同じように扱うつもりがありますか?」と問いかけることはわたしにとって全く違うつもりでいましたが、伝え方が間違っていたでしょうか、と。しかし彼がわたしを「最強の弱者」「厄介」と表現なさった文を読むと、教えを請うたとしてただのご迷惑にしかならなかったでしょうから、黙っていてよかったと今は思っています。)
また先ほども書きましたが、美術館に対するわだかまりも現在特に大きなものを抱えているわけではありません。ゲストブック上やメールで時々ご意見が送られてくること以外は、わたしはあの頃の騒がしさから、おおむね離れることができています。

でも、最初のメールを書いたあのときの気持ち——写真家でも美術館でもないもっと大勢の他人に対して感じた抗えない巨大な恐怖(当時は「4への気持ち」と名前をつけていましたね)——が消えてなくなったわけではありません。そこから離れることはできません。だから、完全に口を閉ざすこともできないのですが、恐怖について語る限りこれからも時には小石が飛んでくるんだなあと思うと、そりゃあ、少しは憂鬱です。

こころよくない感情は、それが自分に向けられたものではなくても気持ちのいいものではないでしょう。わたしもそうです。
ですがそれを持ち表明する権利は誰にでもあって、それはとても大切なものです(それで他人の権利をおかすならもちろん制限されるべきだと思いますが、今回わたしはそのような間違いを犯してはいないはずですので、失敗だのと言われる筋合いはないでしょう)。

そういった類の感情はどうしてか、持たないことや隠すことが美徳のように扱われることがありますね。でも決して無かったことにして良いものではないはずです。見物客の他人がそう促しねじ曲げるなんてもってのほかです。それはその人の尊厳とぴったりくっついていますもの。
表し方をああだこうだと取り上げて当然のように査定し、やれ感情的だの冷静だの、ほめてみたりけなしてみたり、どちらからの言葉もわたしにとっては同じです。それなのに心の表面をジャリジャリと傷つけてゆくので困ったものです。

 

「冷静でイイね」「感情的でダメだね」「優しすぎ」「生意気」「チェンジw」「こういう女の鼻をへし折ると興奮する」「風俗嬢は天使」「売春婦が人権を主張するなんて嫌な世の中」「早く結婚すればいい」「早く死ねばいい」「あなたなら差別しませんので頑張れ」「で、美人なの?」
励ましでも寄り添いでも叱咤でもない、ご指導でもご鞭撻でもない、敬意も礼儀も省かれた品評、採点、嘲笑。それを広く発信する、あまつさえわたし本人の元へと届ける行為はなんのためなのでしょう。あなたがわたしをどう思うかなんて、わたしばかりかこの世の誰の役にも立たない。なぜそのとき話し合われている問題ではなくわたしばかりを見るのでしょう、論じるのでしょう。……まさか不器用な愛の表現? なわけないよね。万が一愛ゆえの行いだとしても破壊を伴うと効率が悪い、ということは既に先人が指摘している(*) 通りです。
問題に関するあなたの思いを、心に生まれたものを、あなたはどう考えたのかを語ってくだされば、少なくとも「椎名こゆりクロスレビュー大会」よりはよほど道が開けるはずなのに。あなたの好むであろう「冷静で論理的な態度」にだってよほど近いのに。
それは、おいやですか。わたしと話したくなんかなくていいんです、あなたの心に、好きな人に、もしくはまだ出会っていない人に向けて語りかけることは、世界とあなたの役に少しも立ちませんか。

 

あ、そうだった。ゲストブックをどうしよう、と思っていたんです。
「はあ、こういった属性の人がこのような思いをこんな感じに発信するとこういう風に言われたりするんだなあ」という資料的な価値(というと何でもちょっとよいもののように思えるので好きな言葉です)というか、なにかを考える際の材料となりそうな気もしますしので、今はそのままにしようかな、と思います。今回はたまたま「風俗嬢」という属性のお話ですが、こういうのって一事が万事で、どなたにも同じようなことは起こります。起こらないよ、と思ってもすこし辺りを見渡せば、無視できない距離の場所で起こっているものでしょうから。

どうぞこれからもお気軽に書いてください。

 

そして何度も言いますけれど(何度でも言わなくてはなりません)、
わたし以外の性労働者に対するご自身の見方を省みたと言ってくれた方、売春によって糧を得た過去をご自身の中でどう扱うかという問題に勇気を持つことにしたと語ってくれた方、暴力に対する恐怖と、自分もまた無自覚に暴力の側に立ってしまう可能性への恐怖について考えたと言ってくれた方、そのように感情にあふれた理性的なお話を伝えてきてくださった方々もたくさんいらっしゃいました。すべてにお返事をすることができませんでしたが、わたしの心の奥深いところをそっと撫でてもらったと感じています。心の奥にある掲示板はそれらの力強い言葉で埋め尽くされ、今もなお支えられていますし、感謝しています。

 

あのときわたしが書いたものはすべて、長たらしく言葉を重ねた悲鳴でした。冗長で言葉の多い、嗚咽でした。

空の下にきょうも、大きな小さなさまざまな声があります。明日もあさっても。
声をあげたことでわたしは消費され、確かに何かを失いました。でも、植わった種もあったのではないかと自分に言い聞かせています。水のある場所に落ちた種もあったと。
わたしの声を聞きつけてとにかく手を差し出してくださった他人がそこに何人もいた。語ってくださった感情がわたしを支えた。この先も自分の感情を語り表す勇気を持ち続けていられるよう、このことを思い出しながら心を守り保っていられればと強く思います。それはきっとわたしが誰かに手を差し出す側となったときの力ともなるものでしょうね。
そうしてあなたとわたしの感情はいつかさらに強い形で支え合えるかもしれません。その芽吹きが、嘲笑の小石飛び交う中のことでなければ、ずっと素敵なのだけど。

 

長いエントリをお読みくださりありがとうございました。

 

えっこんなにいっぱいあるの……(これで全部じゃないんだよぜんぜん)(あともう4倍くらいあった)。
めちゃめちゃ愛されてるねこの曲!!

 

 


このエントリを読んで当時のことに興味を持ち知りたいと思ってくださる方もいらっしゃるかもしれませんので、どのようなことがあったのかだいたいわかるように簡単にリンクをまとめました
本文中に書きましたことをご理解くださいますようお願いいたします
東京都写真美術館にて過去に展示された作品の撮影手法に関する問題が取りざたされた際、ネット上で起こったことの簡単な記録(2014年12月〜)

2015-08-12 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ: