まじめなはなし

ワーカーズライブ:99 / 100

ガールズヘルスラボにて、3月のワーカーズライブを担当しました。
毎月1日更新のワーカーズライブですが、うっかり入院&プチ手術するという失態をおかしてしまったため今回に限り一週間延期をさせていただきました。すみません。
外見に傷が残る類のものではありませんでしたので失職や移籍の心配(審美的な面での問題で、セックスワーカーの病気やケガにはこの問題がついて回ります)もありませんでした。お知らせした方々にはご心配をおかけしました。もうすっかり元気です、口座の残高以外は。

入院前にだいたい頭の中で考えていたものは全然違うストーリーだったのですが、術後の湯船に浸かれない期間がわたしの予想よりも少し長く、書いている途中で自分がつくった登場人物の入浴シーンが羨ましすぎて気も狂わんばかりに嫉妬してあばれてころげてワンワンさめざめ泣いてしまいそうでしたので、全部やめました。入浴の離脱症状でしょうか。
かわりに書いたのがこれです。

風俗嬢コラム Worker’s Live!!-Girls Health Lab: 99 /100ghl1603

口コミや店に連れてくるというのではなく、こういう個人的な形でわたしに直接お客さんがお客さんを紹介してくれるということ、ときどき驚かれますが何度かあります。わたしに明かされなかったケースもきっとあると思うので、もっとあるんでしょう。一体どうしてそういう話になるのか、どういう心理でわたしをシェアしているのかは理解していませんが、とくに嫌ではありません。
お友達だったり、会社の同僚だったり、上司から部下も部下から上司も、いろいろあります。複数人で来るお客さん方と同じように「これってあとで全部『男子会』で喋られるのかな……」と思うとやりにくいことこの上ないのですが、どうしたことか、こういう個人的紹介で出会ったお客さんはだいたい安全性が高いというか、乱暴だったり無理難題を押しつけてこない方がほとんどなので、もしかしたらあちらも「悪さをしたらチクられる」と思っているのかもしれませんね。

 

トモヤくんがしていたような根掘り葉掘りの質問攻撃、中高年だけに伝わるウザ芸のようなイメージがありますが、20〜30代の若い方でもやっぱり、あります。
なのに、わたしの答えにはそれほど興味がある様子ではなく、ただひたすらにデータを集めることに必死になっているような……そんなときなぜと問うと、しばしば返ってくる同じ答えがあります。

本当の君を知りたいから。素の君でいてほしいから。

じゃあ聞くけど、あんたにとって本当って何?
——なんてもちろん言い返しはしません。ただ、心の中で「フーン」と思うだけです。古田新太の顔をして。

「素」を求められることの多さは、セックスワークを経験していない方にもなんとなく想像してもらえるのではないでしょうか。
風俗店のレビューサイトでは、その客の期待と比較して声が小さかった場合は「やる気がない」と書かれ、大きかった場合は「演技がハデ」と書かれ、丁度よかった場合は「素で感じていた」と書かれがちです。
会話が盛り上がった場合は「心を開いて話してくれた」、盛り上がらなかった場合は「無駄話をされたので時間稼ぎだろう」、会話自体が上手くいかなかった場合は「なんか暗い」。

「僕の前でだけは仕事を忘れて素になっていいんだよ」という言葉も、たいへんありふれています。ありふれすぎて「伝えたいこの想い〜♪」みたいなひとつの決まり文句になってしまっています……聞かされる方にとっては。
でも、もしも本当に「仕事ではない、素」であるとしたら、なぜ目の前にいるこの他人と親しく話し、それどころか性的な行為をしようとしているのかの説明がつきません。本当はお客さんの側も気がついている事実です(例外もありますね……)。

わたしたちが求められて精一杯差し出す「素」とは、「そのお客さんの求める満足からできるだけギャップがなく、かつ自分の不利益や危険につながらない態度を『素』として演じる」ことです。なので、わたしたちは「よりよい素」を演じるための努力をします。
名前も年齢もその他のプロフィールも、これまでしてきた恋の思い出も、今この瞬間の心模様も。
努力がうまく実れば万々歳ですが、これを「詐欺だ」「騙された」と解釈し、好まない人もいるでしょう。それならそれで、はじめから「素」を求めず、素を暴くための質問もせずに別の会話を楽しむこともできます。「この子は仕事とは関係なく俺に好意や恋愛感情があるから行為を楽しんでいるのだ」と思い込むことだけが、性的サービスの楽しみ方ではないですし、それをよく知って遊んでくださる人もたくさんいます。
ただなんの義理もない他人との濃密な接触を求め(もちろんこれは正当です、対価を払っていればね!)ながら同時に「素」を要求し、さらにそれが本心であるかどうかを疑い証明しろと迫る人も、後をたたないんですよね。それはあまりにもサービス労働のさせすぎじゃないかしら、と思います。

 

わたしが個人的に「素」を求めて楽しもうとするお客さんに気を許さないのは、その流れで恋愛感情を求められるのがとてもやっかいだからです。
性的なコミュニケーションは恋愛感情を持つ相手とのみ行いたい、という希望を個人が持つとき、それは誰にも口出しできないもので、尊重されるべきものです。当然ですよね。
でも、それがいつの間にか「恋愛感情の介在しない性的なコミュニケーションは誰にとっても不当/不自然/不本意」というものに変わってしまっていることがよくあり、これはとても危険です。女性限定で適用されたりもしますね(女には性欲がないから、恋愛感情のみがセックス欲求の根拠であるということでしょうか。よくわかりません)。

なぜこのすり替わりが危険なのかは、あとはもう「好きでもない相手と、金のためにそんなことするなんて」に簡単になっちゃうからです。恋愛感情に基づかないセックスをする人間が、しない人間よりも間違っていて汚れていて劣っていて見下されるべきだ、という規範があっという間に全員をふるいにかけて蔑みや差別心を楽々と作ってしまうからです。見当違いの哀れみや憎しみなども作りますね。そしてわたしのメールボックスに「はじめまして、死ね」というお便りが舞い込むわけです。心配しなくても待ってればいつかちゃんと死ぬのにねえ。

 

わたし個人に限っていえば、業務上のセックスであっても「恋してる相手ではないから」という理由で仕事に苦痛を感じたことは一度もありません(口が臭いからという理由ならば何百回もあります、そりゃあもう!)。もちろん相手に好感を抱ければぐっと負担は減りますが、それは「いい人だな〜」「常識があるな〜」で十分です。それが最高の状態です。

これはただのわたしの話で、わたしのあり方です。
信じられない、と思う人もいるでしょうし、自分は仮にセックスワークに就くとしてもそういう価値観では働かないだろうなあ、と思う人も、実際に違った考え方で長く働いていらっしゃる人もいるでしょうし、口には出さないけど正直ドン引きだわーと思う人も、自分とは違うけどちょっと分かるとこあるわーって人も、もうどんな人だっているでしょう。どんな人がいたって別にどうだっていいでしょう。それぞれの人が別の誰かの価値観に戸惑うかもしれません、理解しがたいかもしれません。しかし蔑む権利などはありません。
大切なのは誰のあり方がより「普通」でより「当たり前」か、そんなランキングじゃない。そんな物差しでなにを測れるというのでしょう。大切にすべきは、誰のあり方も、他の誰かに侵されないということの方です。

初対面の人から対価をもらって行うセックスに試行錯誤している人も、婚姻届を提出するまではセックスをしないことで愛情を示すと心に決めている人も、誰に蔑まれるいわれもありません。「そのようなことをする/しない あなたはおかしい」と言われる筋もなければ言える筋もまたありません。誰だってです。
それでも何か言いたいなら、誰かを「普通じゃない人間」と扱うことで得られる安心や自信がいまどうしてもあなたに必要なのなら、どうぞ胸の中だけで言ってくださいな。

 

トモヤくんは、どんなにクオリティの高い接客を受けたとしても風俗店では満足できない、「お客さん」として楽しめないタイプの人だったかもしれません。自分の欲求や願望の自覚とか、自分以外のセックスの多様性について考えるとか、そういうことに関してまだ子供だったかもしれません。だけど別れ際の彼は「すごいね」という言葉ひとつの中に、自分の戸惑いをすべておさめました。
「当たり前で普通」の物差しを手放すことはできなくても、それをアリサに向かって振り下ろすことをしませんでした。

だから「好き」という言葉こそ絶対に口にすることはできなくても、部屋を去る最後のときまで何が彼にとってプラスになるのかを彼女は考えていた。人間性を見限った客に対しては、なかなかしたくない努力です。
快適とは言えないしすごく難しい仕事だっただろうし必要最低限の仕事をとうにオーバーしていたけど、きっとあとから思い出すのが嫌な記憶にはならないと思います。しっかしよく働いたよね……。

セリザワさんがどういうつもりで「社会勉強」と言ったかはわかりませんが、たぶんこの人は物差しを持たない、信じない人のような気がします。それではないところでアリサちゃんを「好き」なのでしょう。
そういう人と何かを積み重ねていくと、時々は「好き」という言葉を誤解の恐れなく使えたり、保険証に載っているのと同じ年齢を知られても平気だったり、します。それでなにかが測れるなんて思っていない相手だから。「素」を勝ち取ったなどと思っていないから。
そんなふうな、部分的で外には出ない、名前のつかない好きと好きの両想いがふと生まれるときのあやふやな面白さを「ふーん」と味わっているときくらいが、もしかしたらわたしの素の部分かもしれません。唇の端を少し持ち上げて、ふーんハハッ、と。
なんにせよ古田新太っぽさはあるんですけど。

でもでもでもでもよりによってその年齢をうっかりバラした罪は重いよ!!!ダメ!絶対!!
今度お詫びになにか買ってもらいましょう。

2016-03-18 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ: ,  

 

スティグマの腕に抱かれて (2) 偏見と寝て多様性の夢を見る

前記事からのつづきです。

わたしは思いつく限りの選択肢から、候補を2つに絞りました。
「いやだわ、あなたは普通の女性と幸せになるべき方でしょ」と演歌のような態度で固辞するか、もしくは「少し考える時間をください……」と言ってひとまずこの場をしのぎ、店に事情を話してよい対処法の教えを仰ぐか、です。

後者の方がより波風が立たず、自らを「普通ではない女」と名乗る必要もなく、スタッフの知恵も借りられてよいように思いました。しかし、残念ながらその店には頼れるスタッフの心当たりがありませんでした。見た目だけで戦意を奪えるような腕っぷしの強い人も、理詰めや交渉術で戦える頭脳派タイプの人も、業界トラブルに精通した手練手管の黒服タイプの人もいなかった。そしてそのどれでもないけれどキャスト女性の安全だけは何に替えても守るぞ、という人も、いそうになかった。
力になってもらえる見込みがないことは、日頃の勤務を通して悟っていたのです。
せいぜい、以後その客から指名が入っても「すいませんシーナ嬢はご予約様で埋まってま〜す。ガチャン」と留守番電話のように繰り返し、「義務は果たしたのでどうなろうと店の責任ではない」と言われることになるだろう、と予想できました。それでは幸せを前に足が竦んで逃げ出してしまったわたし(と思われることでしょう)を追いかけようと、客の闘争心に火がついてしまうかもしれません。力尽くでまた姿を現したとして、どこにせよそこが店の管轄外であることは確かです。そうなれば何が起ころうと助けを求めることは金輪際できません。

「どこか田舎の小さな町で、この仕事をしていたことを知らない人とささやかな家庭を築くのがわたしの夢なんです。どんなに傲慢なことか分かっています、愛する人を欺くことだとも分かっています。けれども一度このような世界に身を置いた事実は消せない、わたしにできることはこの秘密を墓場まで持って行くことだけです」

なにやらそんな風なことを言ってわたしは穏やかに、しかし揺らぐことのない決心を秘めた気持ちで微笑みました。彼が無様にフラれる筋書きだけはなんとしても避けるべきだと思い、私のことは忘れて下さい、みたいな路線に賭けたのです。どれひとつ取っても本心ではないし、ちゃんちゃらおかしいし、おぞましい嘘ですし、いつの時代だよ最終章劇場版です。でも全力で取り組まなければ通用しないと思った、そういう緊張感に満ちていました。我に返れば本当に不本意なセリフなのですが、必死でした。

その後、多少の紆余曲折のあと、最終的に彼はわたしを諦めました。わたしは職場を失うことにはなったものの、肉体的には無事でしたし、受けた実害は最小限で済んだと思っています。もちろんもっと優れたやり方があったかもしれませんが、今さら何を言っても仕方がありません。

 

こんなふうなこと。
こんなふうに、世の中にある偏見や差別感情を利用して接客を円滑に進めたこと、ステレオタイプでネガティブな風俗嬢像を利用してこの身を守ってもらったこと……きっと何度も、あります。そのような場に立たされたわたしは、嘘をつくことができてしまいます。あのとき「心根はかわらない」という言葉は、偏見と蔑視だらけの彼のセリフの中で仄白く輝きわたしの胸をチクリと刺しました。だけどそれをも否定した。

わたしは自分を含めたセックスワーカーが不当な扱いを受ける社会を望みません。それはそうです。
けれども情けないことに、このような言動を自分に許さずに生きる強さはありません。
お客さんたちに気持ちよくお金を払ってもらい、悪感情を未然に封じこめ、自分に刃が向くことを回避する——なによりも、そちらを優先して日々働いています。
なぜ自分のみならず他のセックスワーカーを貶めるような卑怯な真似を、と思われるかもしれません。しかし、わたしを非難して一件落着と思われるのも不本意です。
密室の中で相手(それもどのような言動をするかの予測に手がかりの少ない他人です)の機嫌を損ねることにはリスクがあり、未知なるリスクのすべてを丸ごと背負うのはわたしです。あなたに替わってはもらえない。

(後者のケースレベルのサバイバル術が必要となるお客さんばかりってことじゃもちろんないですよ!!大部分の人は「苦界の女を銭で買う」ではなく「それを仕事にしている人からサービスを受ける」と捉えていると思うし、もし聞けばこのぶっ飛んだ時代錯誤感に絶句すると思います。差別的な感情を平気で表に出すような人は、個々の危険性は高いものの人数で言えば稀な存在です)

 

マサキさんは「『セックスワークは生き延びるための手段』と思いたかったのは自分ではないのか」とご自身に向かって問うてくださいました。
わたしもまた「『セックスワークは生き延びるための手段』ということにしておいて欲しいのは自分ではないのか」と問わずにはいられません—— が、堂々と答えることができません。
いつかはそうじゃない社会になってほしい、などと心から思ってみたところで、短期的に、その場の感情として、ないことにはできません。

このようなわたしの弱さと過去におかしてきたこと、そして自己弁護を書き綴ること、読めば快くない思いをされる人もいらっしゃると思います。ですが、書いておきたいと思いました。
マイノリティが、マイノリティ自身の言葉として、偏見の強化や差別の再生産を担ってしまう場面がある、そうすることでしか担保されないものが確かにそこにある。

セックスワークならではの問題ではありません。全然ない。セックスワーク以外のカテゴリ(職業のほかにもセクシュアリティ、病気、障害、国籍、年齢、家族構成、生育歴、身体の特徴など、いっぱいいっぱいありますね)で当事者とされる人の中にも、同じような気持ちの味を知っている方はいらっしゃることでしょう(わたしは持病の話をするときにも、屈辱的な哀れみをシャットアウトするため自ら謙りや自虐的な冗談を口にすること、やっぱりありますよ)。
こちらを傷つけてくるもの、壊したいもの、それを鎧や踏み台にすることの矛盾と情けなさ、少しの白々しさを含んだ苦しみ。個人でどうにかできる重さを超えています。
これを見ない振り、知らない振りは、やっぱりできない。かといってもう二度としませんと詫びることもまたできないわたしのみっともない姿を、せめて隠さずに書き表すことくらいしか今はできそうにありません。わたしがひとりでできることは、それくらいしかないのです。

 

マサキさんが“脳内裁判所”に立っていらしたとき、わたしは原告団のひとり、あるいは裁判員のなかのひとりとしてそれを見つめているかのようでありながらも、同時に傍聴席のすみっこでじっと顔を伏せていました。わたしもおなじなんだよ、と思いながら下を向き、隣に行きたいなあ、とぼんやり思っていました。とんだ分身の術です。なんかずっと昔に笑う犬のなんとかで内村さんが全登場人物をひとりで演じて時代劇やるコーナー[1]なかったでしたっけ? あんなふうになってたよね。
2015年のはじまりには勝手な裁判めいたものに片っ端から連れ出されては一方的に品評されていたわたしですが、2016年のはじまりにも裁きの場所にいたこと、だけど今度は自分の足でそこにいて、そしてひとりではなかったはずだということ、憶えておきたいです。

マサキチトセさん(@GimmeAQueerEye)のお書きになったものをネット上、また書籍で読ませていただく機会はこれまで何度もあり、憧れと敬意を抱いている方のひとりです。LGBTやクィア、セックスワークなど多岐にわたる分野において、勉強させていただいたものはとても大きいと感じていますし、それらに関心を持ち始めた方に紹介したいアカウントでもあります(以前から思いを寄せていらっしゃる方は既にご存知のことでしょう)。クィア英会話も楽しいよ!
今回はわたしのつたない文章を読んでいただいた上さらに考えられる機会を得られて、ひときわ嬉しいことでした。
この記事を書く勇気を持てたのは、ひとえにマサキさんのおかげです。ありがとう。どうかこれからも。

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以前の記事ではこの話題のきっかけとなったものについては伏せていましたが、のちにご本人が言及してくださっていたので紹介することにします。

差別しているわたしがそこにいた – c71の一日

「椎名さんの書いていることがあまり理解できなかった」と正直に書いてくれて、それでもなおセックスワーカーとそこにある問題について考えようとしてくれていること、ありがたく思います。
個人的にお話させていただいた際も「もう間違いたくない、傷つけたくない、正解を知りたい」と言ってくれましたが、しかし当事者のわたしもこのようにもがきあがいているわけで……がっかりさせてしまうかもしれませんが、当事者が答えを持っている、『正しい』考え方を教えてあげられる、というものでは決してないんですよね。少なくともわたしはこんなにグダグダですし、正解、という言葉でまとめて解決できるものだとも、思ってはいません。どんなふうに生きていたい? という問いかけに「これが正しい解答です」を作っては決してならないように。

今回マサキさんやわたしやその他多くの人がこの問題について考えることができたのは、c71さんがわたしに対して、せっかく味方になってあげているのに口答えされるなんて心外だわきまえろ、といった態度(残念なことですが、珍しくないですよね)を取らずに耳を傾け続けてくれる、と信じて指摘するに至れたからです。c71さんにもまた、感謝しています。

「私は偏見などないから差別もしないよ」と宣言してくれる人よりも、「私の言動に偏見を感じたらいつでも教えて」と言って実際に教わり、考え、学びつづける意思を表してくれる人にわたしは安心を感じます。すべての偏見を自覚しているわけじゃない人とでも、話を聞く気持ちを持ってもらえるならばなにか語り合えるかもしれません。
個人の持つ偏見の数をかぞえてその重さを糾弾し合うためではなく、ひとつずつ見つけ解体して手がかりを拾い、お互いが、ひいてはみんながもう少し自由に、楽に話せるようになるためそうしたいのです。もうあとちょっと、いろいろ楽になったっていいと思うもん。

それらはマイノリティとされる人だけが背負う役目ではないと思います。何もかもを当事者性の高い人が担わされるのは無理(負担が大きすぎます)というものですから、さまざまな立場の人が輪になって語らうことになるでしょう。断絶せず一緒にいられるために、マジョリティとしているときのわたしもまた、誰かが「それはそうじゃなくてね……」と教えたい気持ちを持ってくれたときに手のひら返しの恐怖で口を噤ませない、そういう存在でいたいなと思います。

あの歌でしかチューリップ[2]を知らない人が「チューリップってぜんぶ赤か白か黄色のどれかなんだな」と思い込んだとして、それを無知だ愚かだと罵りたくはありません。
ただ、わたしのはこんな色です、とピンク色のチューリップを差し出したとき、「そんなの認められない、作り物だ」とか「私は寛容なので認めたいと思う。大切なのは特殊な例であるという自覚と謙虚さだ」「一般的な3色とは分けて考える必要があるだろう」「赤か白のどちらかを目指す努力もせずに権利ばかりを主張するのはいかがなものか」と言われるのではという恐れが、わたしにこのチューリップを人目から隠させます。
あなたはいつか、わたしの庭でいろんなお花を眺めながら並んで歩いてくれるでしょうか。わたしはあなたのお庭に招いてもらえる人になれるでしょうか。水をあげ続けていればいいのでしょうか。しまわれた球根たちもいつか芽を出す場所を得る日があるでしょうか。春への思いだけが遠くへ飛んでゆきます。

 

ところで上のリンク、わたしの記事のサムネイルが完璧だなー♡

 

  1. 検索したら「ひとり忠臣蔵」でした……ってことは討ち入りシーンとかあったの?見たかった!
  2. チューリップって、花の色や形から大きさから咲き方までものすごーくバリエーションがあり、目にする機会がないわけでもないお花なのでその多様性を多くの人が知っているのに、「チューリップ」とだけ言ったときのイメージはわりと統一されていて、すごい存在だな、ってよく思います。バラもそうですね。
2016-01-08 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

スティグマの腕に抱かれて (1)「セックスワークは生き延びるための手段」ということにしておいて欲しいのは自分ではないのか

昨年末にわたしが投稿したこちらの記事を読んで、マサキチトセさんが執筆してくださったものです。

あの文章は言葉を伴った反響をいただくことが少なく、もちろん気軽に感想を述べやすい話題ではないことは百も承知なのですが、わたしの話が「非当事者は黙れ、何も言うな」と受け取られているのだとしたらちょっとこまるな、と思っていたところでした(「知ったような口を利かないでくれ」というのと「黙れ」とは違いますよね)。
べ、別に誰ひとりよゐこの話に乗ってくれなかったから淋しいとかじゃ、ないんだからね!

マサキさんの記事には、椎名さんの文章を読んで自分の中にあった偏見や暴力性に気づいた、というように書かれていました。けれど、わたしはそれを読みながら、ずっと共感していた。そうだよね、わたしもだよ、と思っていました。やっと思い知ったか、ではなくて、です。

 

セックスワークは、辛い境地で苦渋の決断をもって選択される。
セックスワークは、糧を得るためにやむなく、時に開き直って選択され、しかし働いている者は誇りを持ってその苦悩込みで仕事をまっとうしている。
同情に値する壮絶な人生を必死で生きているのだから、嘲笑するのは知的な態度ではない。

——「セックスワークに偏見はない。差別もしない」と言ってくれる人が、実はこのような認識でいることは少なくありません。その人はおそらく積極的にわたしたちを傷つけようだなんて思っていないし、力になれることがあるなら協力したい、と思ってくれていることもある。
次のページを開けば(これらに当てはまらない場合はお金のためにモラルを捨てた頭の悪い人か、よほど性的に逸脱している気の毒な人なので、福祉からこぼれた可哀想なしかし強く健気な弱者、としてのセックスワーカー枠からは、まあひとまず除外って感じかな)と書かれているかもな……!? と心のどこかでは警戒しながら、しかしわたしはわざわざページをめくりはしません。

風俗嬢なんてみな楽して金を儲けたいだけのバカ女だろう。
若さや美貌をチラつかせるだけでちやほやされ、汗水流して働く人々を腹の中で笑っているに違いない。

あっという間に年を取って見向きもされなくなるとも知らずに何も考えず股を開いて、とはいえまともな仕事には適応不可能なのだろうから仕方ないか。社会の底辺ってヤツも必要だ。

—— 一方で、こんな風に思っている人々も、まだ、います。そればかりか堂々と公言して憚らない場合も少なくありません(さらにすごい版の「売春婦は犯罪者、その罪を恥じ今すぐ死んで詫びてみせろ」という主旨のメールをわたしも時々いただきます)。比べると、先に書いたようなタイプの偏見がだいぶ「マシ」に見えますね。
この手の人々がみんな、前者のタイプに変わってくれるなら……ちっとも正しくないしちっともありがたくもないし長い目で見ればおそろしいけれど、でも……いまこの場に限れば、どんなに楽になるか。どんなに直接の罵詈雑言や暴力が減るか。

もう、そんなんだったら言っちゃうしかなくない? と、わたしも思うんです。言っちゃうよね。「不本意ながらそれでも日々の糧を得るため、家族を養うために必死で働いている人だっているのですよ」って。
「生き延びるためだ、とその仕事を選ぶ辛さがわかりますか」って言うのと、黙っておく(余程白い目で見るなどしない限り相手、そして周囲は同意だとして疑わないでしょう)のとどっちがいいかなんて、誰か答えられるんでしょうか。
マサキさんの記事にあった『少しばかりの違和感』は、わたしも確かに知っているものです。心地の悪さを感じながらもわたしたちを守ろうと言葉を尽くしてくださる人に向かって「その守り方では不完全なのです」と指摘するだなんて、できればしたくないことです。つらいことですし、難しいことです(しかし今回わたしは別の方に向かってそれをしたのですが)。

 

それにわたしもまた、ピンポイントで誤解を解きたいような場面でこの方法をとったこと、全くないだなんてとても言えないのです。

たとえばわたしたちの収入に遠慮なく好奇の目を向けてくるお客さんというのは昔からいるものだと思いますが、今やセックスワークが必ずしも高収入とは呼べなくなってしまったことを彼らは知りません。ただ漠然と、正社員として会社勤めをする女性の5倍くらいの額を「風俗嬢」の肩書きと同時に、全員が自動的に手に入れているのだと想像している、そんな浮世離れした人もなぜかまだちらほらとおられます。
そのような人から無邪気な妬みを含んだ視線を浴びせられそうになったとき、反論だとは思われないように切り抜けて場の空気を保つことが、たしかにあります。

 

「ねえねえ、稼いだおカネとか何に使ってんの?」
「えー?(笑)なんだろ、まず生活費かな」
「は?」
「あっ!もしかして、ホストクラブで何十万円も使って遊んでるとか思われちゃってましたー?ぷー(笑)」
「いや、別にそういう訳じゃないけど。ちょっと聞いてみただけだよ、かなりもらってるんでしょ」
「そうだったらいいんだけどね〜。昔はそういう格好いいお姉さんもいたって聞いたりするけど。今はお家の事情とかでこの世界に入って、生活費と少し貯金できるくらいギリギリ稼いで、って子の方が多いんじゃないかなあ。お客さんの数減ってるし、お店の数だけやたら増えてるし」

(「格好いい」という形容詞にちっぽけな抵抗が込められています)
(「店は増えてる」というのは、都内のデリヘルを使う男性だと風俗ポータルサイトなど見つつ「店いっぱいあるなー」と思った経験のある人は多いはずなので、同意できる事柄を最後に持ってくることで少しでもわたしの言うことを否定せずにいてもらえたらな〜というささやかな心理戦です)(効果があるかはさっぱりわかりましぇん)

「ふーん……いや、無駄遣いしてるとは最初から言ってないよ? けどさ、ほら、自分の店を持つための資金とかでもないの? だって、言っちゃ悪いけど長くやるようなコトじゃないでしょ。今はよくてもどーすんの、将来」
「うん。そりゃあね、いつまでもできる仕事とは、あたしも思ってはないんだけど、でも……でもね、今はいいかなって。まあたまには嫌なこともツラいこともありますけどォ?(笑)、とりあえずこの仕事一生懸命やりながら考えたいっていうか。あーそろそろ××さん(客の名前)来てくれるころかなあ、なんてこっそり楽しみにしたりしながらね、ふふっ」
「へーそっか。ま、なんもできないけど応援してるよ。あれだな、金持ってる男つかまえて上手いことやれたらいいな、それが一番いいよ、うん、それまでは俺のこと癒してね」
「ふふ、心配してくれてありがとう。お風呂いこっ!」

……なんてね、まあなんか、こんなふうに。

 

こんなことも、ありました。顧客のひとりから結婚を申し出られたときのことです。それは、ある日突然に記入済みの婚姻届を持参してわたしの前に置き、俺のところに来なさい、幸せにしてやるから、というものでした(突然の婚姻届、業界外の方には奇妙かもしれませんがちらほら聞きますし、わたしも何度か経験があるのでこれ自体は未曾有の珍事件というわけではないようです)(日常茶飯事だとは言わないしもちろん普通にこわいけどね!)。
年齢はわたしより30歳ほど上で、結婚の話が出ても不自然ではないほどお互いになにかの情を感じていたかというと、そうではありません。接客した回数で言えば「常連さん」ではあるものの、ご指名への感謝以上の好意を示した覚えもありませんでした。彼の方も、比較的よくある「僕たちは恋愛感情で結ばれてる!他の客は引っ込め!」といった勘違いをしている様子ではなく「身請け(いつの時代だよ)して不自由ない暮らしをさせてやるので足を洗え」「秘密は守ってやるから安心しろ」といった態度でした。

これはまずい、どうしよう、と思いましたが、しかしどのようなスタンスでこの場を切り抜けるかを今すぐに自分だけで決断しなくてはなりません。親子ほど年の離れた相手にいきなり婚姻届を出してくるだけで証拠は十分かもしれませんが、普段の会話からもこの方は思い込みが激しくてカッとなりやすい性格、ドラマチックなことが好きで、ご自分に絶大な自信を持っているタイプだとなんとなく感じていました。生意気な女は多少頬を打ってでも「教育」すべき、と思っていることも、かつて披露された武勇伝の内容から把握していました。
下手にプライドを傷つけたら惨事が起こるかもしれない……と怯えました。

彼は「君はたしかに訳あって苦界に身を沈めたが(いつの時代だよ第二章)、心根は普通の女と何も変わらない、俺の目は確かだ」と怒鳴るように言い、感情が昂ぶったのかそれとも演出なのか、ガラスのテーブルを拳でドンと叩きました。怖かった。いよいよ何をされるか分からない、と思ったわたしは内心で震え上がり、さらに神経を研ぎ澄ませました。

 

 

長くなったのでページを分けます。→ 次号「どうなる椎名の絶体絶命!『苦界』は『くがい』と読むんだね!」に続きます。

2016-01-08 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

わたしにだって言わせない

最近は別館のきのこなブログにも少しずつアクセスが増えて、うれしい限りです。あれは架空の「同業種経験者で話のわかる人」に向かってはしゃぎながらワーワー喋っているようなものなのでだいたいテンションがおかしいですが、そうではない堅気のお仕事の方もけっこうついてきてくださるので嬉しさにひとりニヤついています。ありがたいことです。ニヤニヤ。

そればかりか最近のこれに関しては「勉強になりました」という感想も多くいただき、みなさん本当によい子ですね。いま「よいこ」で変換したら何よりも真っ先に「よゐこ」と出てきて面食らいました。確かによゐこは好きですが、そんなに頻繁に入力する状況なんてあるだろうか。でも出てくるってことはきっとあったんですよ。あったから出るんですよね。しょうがない。いいですよよゐこ。とか言いながら実は代表作であろうたくあんを乗せるコントくらいしか見たことがないんですが、「シュール」と呼んで片付けようとしても後ろからひたひたと追ってくるノスタルジー(青くささって言うの?)とクレイジーが絡み合う恐怖の魅力があの一場面の古い記憶だけからでもわかります。
大人になった今の気持ちで、当時のよゐこの真剣なコントを見てみたいです。そうしたら無人島生活もゲームセンターCXも、なにかまたいちだんとおもしろみが深まるんじゃないかって気がする。

よゐこへの想いを語るコーナーじゃなかったんだった。えっと、どちらかと言われたら断然有野さん派です。

 

面白かった、という感想とともに、セックスワーカーへの差別に対する抗議の意も併せて書き表してくれた人もいて、つくづく感謝を感じました。

そこには、椎名さんが生きるためにセックスワークを選んだそのおかげで、今こうして文章を読める、というふうに綴られていました。わたしの書く物を楽しんでくれていることが分かって、本当に嬉しかったな。

ただ、セックスワーカーを差別してはならない理由を「生きるために働いているから」という点に求めると、食べてゆくのにかかるお金すべてをセックスワークで賄っていないワーカーは差別してもよい、個々のワーカーの働く理由を審査せねばならない、というような理屈がまかり通ってしまうので、注意が必要な表現だと思う、ということだけはお話しさせていただきました。

彼女は昨年末にわたしが例の件で注目されて多くの好意と悪意とを浴びせられていた最中にもたくさんの意見を届けてくれたひとで、それから後もセックスワークについて考える機会を持ってくれていたこと、わたしの書く物を読み続けてくれていたことにまず信頼を覚えましたので、正直に率直にそういう気持ちを話すことができたのです。ご本人はわたしの言おうとすることをすぐに汲み取り理解してくださって、どんな状況や気持ちで働いていても、差別されてはならないと言い直してくれました。

わかってもらえた安心感の中、もうひとつ、自分の中にだけ残る疑問がありました。
わたしについて書かれた文の中の

「彼女は生きるために、セックスワークを選んだ。」

という言葉が、自分でも意外なほど重苦しいなにかをもって心に入ってきたのです。
どうやらその苦しさは、ああその表現は誤解を生むなあ、という懸念、だけとはいえないようで。
なんだろう……。

「違う、そうじゃない」って気持ちでも、なさそうなんですよ。
だって、そう言われてみればセックスワークで得たお金でお米買ってることには間違いないし、ねえ。

ただ、たぶん、自分でそうは思ってないんですよね。そうだとも、違うとも、思ってないんじゃないかな(曖昧な表現になっちゃうけど)。そして「選んだ」ときのことを話したことはないので、もともとなんのために選んだかは誰も知らないはずです。生きるか死ぬかの苦境でなければ選択肢にのぼらないだろう、と思われていたのかもしれません。

この仕事を始めるときに、生きるため性風俗店で働くか、それとも貞操(?)を守って死ぬか、と天秤にかけた覚えとかね、ないんです。まるでそうだったように誰かから言われることはあるから、あれそうだったっけ? と時々思うんだけど、そうではないです。
だからといって気楽な選択だった、ということでもやっぱりなくって、ただ、それどころではなかった。天秤を持ち出してきて量りよくよく検討する、というような余裕はなかった。いろいろはしょりますが、とりあえず四の五の言わずに一度やってみてそれから考えよう、やれるかどうかもわからないんだし、って感じだったように思います(当時わたしはセックスワークについて、素質と素養と訓練を必要とする高度な専門職、というイメージを強く持っていたので、自分には勤まらないという結果になる可能性も予想しました)。

時間をかけてあらゆる方向に考えを巡らせ、やっぱりこうするしかないのだ、もはやわたしにはセックスワーク(そんな言葉もまだ知りません)しかないのだ、という熟慮の末の選択でもなければ、場当たり的で半ばヤケのような勢い任せの選択でもない。どっちでもない。自分の意思によるものだったことも確かですし、追い込まれていたことも確かです。どちらかに振り分けられるようなものではないんです。

その結果、なんとかやれないこともなく、他に検討した方法よりもその時の自分にとっていくらか総合的なメリットがありそうに見え、他人の足手まといにもなることもおそらくは少ないだろう、と結論付いたので、「もう少し頑張ってみよう」を一日ずつ一晩ずつ重ねるうちに気付けばそれなりの年月が流れた、というのが正直なところです。そして今となっては(この「今となっては」は省略できない)仕事にも馴染み、多少の(多少です。キャリアが長いと「天職と感じて誇らしげに働いている」ようなイメージを持つ人もおられるようですが、必ずしもそのような歌舞伎町の女王状態ではありません)愛着や「慣れ親しみ」のようなものはいくらか生まれており、また日々積み重ねてきたスキルやノウハウを捨てる気持ちにもなれず、他にもここでは説明したくないさまざまな理由によって、続けています。

 

でね、セックスワーカーについて「刹那的で先々のことを考えた行動を取れず、堕落してしまった者」もしくは「まっとうな人の道を外れててでも生きのびることを選ぶ、という決断を下した者」って印象をごく当たり前のものとして持たれていることってあるな、とつねづね思ってて。
どちらもありふれたイメージなんだけど、特に後者のようなことを誰かが口にするとき、必ずしも悪意は伴わないですよね。むしろ称賛さえされる場合もある。
「たとえ世間に顔向けできない仕事でも自分自身の力で働こうとしたのだから立派だ」とか、「それほどの辛い事情があった人なのだから慮ってあげないと」っていう優しい感じだったりも、よく、しますね。

でも、ここから伸びた枝が「その人の事情を聞いてから判断するのがよい」って認識なんじゃないかな。事情の中身をこっちで検討した上で当人を尊重するかしないか決めましょうぞ、っていう。
それでもせめて、そのジャッジを心の中に留めておくことができればよいのだけど、それって難しい。すると自然に、審査に落ちた人はみんなの前で大っぴらに差別されて不利益を受けても仕方ない、本人が悪いんだからしょうがないでしょ、という定番の地獄までもうすぐそばに来てしまいます。

(自己決定と自己責任とは決してイコールではありません。自己決定という言葉がまるで全責任を一カ所へ落とし込める裏ワザのように使われていたり、また、自己責任論から守るための裏ワザとして「あの人たちに自己決定権などない」と言われていたり、しますけど。
わたしたちは、主体性をまるきり無視されることにも自己責任論にも、同時にNOと言わねばならない場面がほとんどで、それって別の職種でもいえるんじゃないのかしら、働いてる人って。)

だから、セックスワーカーを「生きるためにその道を選んだのだから」と他人が定義することは、危ないことだと思うんです。事実まったく生きるために選んでそうなった人もたくさんたくさんいるでしょう、だとしても、他人がわたしたちを引っくるめて「だから彼ら彼女らは○○なんですよ!」という理由付けをするために語ってくれちゃうの、ありがたく受け取れないことが多いです。

ではわたしがわたしの口から「わたしは生きるために性労働を選択したのであります!」と言えるか、言いたいか、というと、これがまたよくわからない。
さっきも書いたけど、わたしの場合は事実に反しているわけではありません、そのお金で食べ物を買って家賃年金保険料などを払ってきたわけだから。ただ、その「選択」のときのことはあまりに複雑だし、整理のつかないものだし、自分の言葉で積極的に語れるものじゃないんですよね。特に語りたくもなく。
(あと単にいっぱいいっぱいすぎてもはやよく覚えてないんだよねー! 忘却のみが我が人生です。)

この「特に語りたくもない」に対して、わたしの中に後ろめたさがあるようだ、といつの頃か気付きました。一体またどうして、なんだって風俗なんかを、という質問に何度も何度も何度もさらされるうちに、まるで説明責任があるかのような気分にいつの間にかなる日もありましたし(このゆるやかな催眠はなかなか力がある)、それを果たさないことが不誠実だと言われたこともあったからです。本当は必要ないし、捨てたいものです。こんな罪悪感に蝕まれたくない。でも、掃除したつもりでも気付くとまたうっすら出現しているんですよね。お風呂場のカビのように。

だから、今回自分について「彼女は生きるために、セックスワークを選んだ。」と書かれたとき、
わたしは(あ、その言葉のセレクトは危ないな、そのことがわたしが尊重されるべき理由であっちゃいけないんですよって言いたいな)という苦い気持ちと別に(誰にも話してないことをそういうふうに「語られ」たくない……でも、じゃあ何のために選んだんだっけ?何のためにって、わたしはっきり言える?)という自分への不安めいたものがじわりと湧きました。そして(いやいやいや何のためとかそういう問題じゃないし、真実を語らないなら想像で語られても文句は言えないって思い込みは間違ってる)と、その不安への反発も湧き、たちまち心が濁ったのだと思います。
本人が真実を語らないなら、他人が憶測や想像で好きに言おうとも文句は言えない。いやなら自分の口からはっきり本当のことを言えばいいのだから—— この考え方(あの言葉を書いた人個人から向けられたものでは決してなく、広く世間一般に存在するものとして解釈してください)が、わたしを脅かしたものの正体でした。これは外部から押しつけられた抑圧です。言えなきゃダメなんてことはない。興味を満たす義務はない。そんなことどうでもいいんですよ。

わたしはわたしの「誰にでもは話したくない」「話す相手とその場所をできるだけわたしが選びたい」って気持ちをもっと尊重したいし、しないといけないよ。おもしろい話が聞けるんでしょ?とか、壮絶な物語があるんでしょ?とか、僕に心を開いているなら話せるよね? とか、そういう視線のすべてをホコリのように払い落とす力が欲しい。今はまだ、3ミリくらい切られますから。
コツコツと強くなれるといいんですけど。

 

過去にわたしの身に起こったこと、セックスワークに行き着くまでの具体的な経緯をもし喋れば、見ず知らずの人々はなんと思うだろうか、とボンヤリ考えること、少しはあります。人の数だけ感想があることでしょうね、と当たり前のことを思います。
それじゃあ風俗を選ぶのも仕方なかったね、と思う人もいれば、いや死ぬ気でやればなんとかなったはずだろう、と思う人も、福祉に頼る選択をしなかったのはバカだ、と思う人も、そしてそれをわたしの耳に入る形で言っちゃう人もいるだろうな、って。
でもね……わたし自身にとっては、すべてが、どうでもいいことです。たとえなにを言われようと、優しかろうと厳しかろうと的を射ていようと見当外れも甚だしかろうと、わたしには全てのご意見がどうでもいいことなのです。だって今ある問題を一緒に考えてくれるのならまだしも、過ぎ去りまくった日の出来事についてなにを言ってもらえたって、わたしにできることなんてもう何もないんですもの。
もちろんこれをひとつの事例としてしかるべき知識のある人が使えば、なにか今後に生かす議論が生まれるかもしれませんしそれは有意義なことだと思います。だけど、わたしが個人として説教されるべき話だとは思わない。

自分の選択が正しかったかどうかになんて、もはや少しも興味がありません。
正しかったとも間違っていたとも思いません。
あの日のわたしのあの日の精いっぱいがそれだったんだもん、今さら誰にも何も言われたくないんです。わたし自身にさえもね。

そんなことよりもずっと近くにあるのは、続けてこられた、っていう事実への本人としての静かな驚きと、これからも無事に安全に続けてゆきたい、続けてゆけるといいけれど、という気持ちのほうです(よくやってこられたわ……まじで……)。そして同じ仕事をしている人たちが、わたしとは気持ちも事情も何もかも違っていても、みんな尊厳を傷つけられることなく踏みにじられることなく安全であってほしい、ということです。
それより先に来るものなんて、なにもありません。この先もずっと。

 

 

2015-12-28 | カテゴリ: まじめなはなし, むかしのはなし | |  

 

読んだ本:中村キヨ(中村珍)『お母さん二人いてもいいかな!?』(2)


↑このリンクはアソシエイトです
この本を読んだ後にわたしが考えていたことを文章としての読みやすさなどは考えずただ考えたままで書いてみます。
本の感想とは違うので購入を迷っている人やなんかの参考になる情報は期待しないでね!!
迷ってる、という時点でその人は読んだ方がいい人、この本と巡り会うべき人だと思う。こんなもの読んでるひまにさっさと買うのがいちばんいいはずです。

 

表紙をめくるとあらわれるのは「愛って、なんですか?」という問いかけ。これがねーすっごくきつかった!とっさに目を背けたくなりました。
それはわたしが個人的に、この質問を嫌いだから。嫌いもきらい、大嫌いだから。
でも、キヨさんがそう問いかけるのならば、と思いページを繰り始めました(うそ、本当はその前に表紙カバー外して本体見ちゃった。これはモンスター?ハンター?ですか?)(他にゲームの名前をよく知らない)。だったら考える、考えなきゃ、と。これはわたしが憎んでいる「愛とは○○である」という話では絶対にないもの、だから大丈夫。そう容易く信じられたから。
それはこれまでの(中村珍名義の)作品を読んだことでわたしの中に育っていた著者への信頼によるものなので、あらかじめ読んでいてよかったな、キヨさんのこともう知っていて、すでに好きになっていてよかったな、と思い、やだぁわたしったらえらいよねー。と自分をほめておきました。

本当はこの質問は、わたしがわたし自身に向かって何度も何度も問いかけていることでもある、んです。もうやめたいのに何度も何度もいつまでも。やめたいのにね。

物心ついてから今日までの人生を振り返ると、「愛」と顔を合わせる場所のムードはだいたい決まっていたように思います。どこかから大きな苦痛を持ち込まれるとき——分かち合うべきようなものじゃなく、理不尽で不当な類いの苦痛——「愛」に、よく会いました。引き合わされた、という感じかな。
ものすごくつらいことと併せて、その理由として、紹介されたような。君を愛しているからだと、あなたが愛されているからだと、何度となく告げられてきました。それはとっても普通で当然で正当なことのように思えたし、もしかしたらそうではないようにも思えて、どちらと断定することははじめ全然できませんでした。どちらにしても「なんだか、思える」という程度で、解明する力などなかったです、子供のうちは。ただ、いやなこと、痛いことをしてくる愛って本当の愛なのかな? と、幼いころから子供なりに考えてはいました。

痛い痛いと言う前に、深呼吸して考えてごらん。暴力の中にも、愛によるものはある。それが真実なんだよ。凝り固まった心で拒絶していては、愛の存在に気づくこともないままに淋しい人生を送ることになってしまう。自己中心的な考え方からいったん離れて、自分がいかに愛されているか振り返ってみようよ。

……なーんつったりして。まあなんかそんなような声、それはいつも心の中にあって、反論する言葉をなんにも持たなかったので、黙っているしかありませんでした。
愛に逆らうことはできない。そんなことは、許されない。
愛は尊くてかけがえのないものだもの、失ってはいけないものだもの。そんなことはみんな知っているでしょう。
たとえそれがわたしの望むものと違った姿であろうとも他人の愛の形に口出しをしてはいけない、ただ黙って受け入れることができないのは傲慢だ。そう自分に教えようともしていました。

だけどじきに成長したわたしは、最終的に、受け入れなかった。愛の名の下にもたらされた自分の苦痛を、運命だといって受け入れることを結局はしなかったです。

暴力を振るう愛は本当の愛か? と考えることを、あるときやめたのだと思います。「本当」という言葉が邪魔なんだ、と気づくに至ったのかな、きっと。
愛はいつでも人を生かすものというわけではなく(世間でそういうことになっていたとしてもね)、殺すのもまた簡単で、愛が本当か本当じゃないかは、「死んだ」という事実の前ではたいした意味を持たない。大事なのは生きるか死ぬかで、愛だったかどうかではない、ましてその愛が本当だったかどうかなんて心の底から全然どうでもいい。つくづくどうでもいいよ。そんなふうに。だいたい「本当」という言葉だって、酷くあやふやで実体のないものでしかないですもん。その前に「わたしにとって」とつけることができるなら、まだ少しはましだけど。

そこからだんだん、自分の中で整理がついていきました。暴力をもたらす愛もあるんだ、と認めるかどうかよりも、その愛とやらを受け入れるかどうかが重要で、それは自由だ、と結論付いた。愛を拒むこともしていいはずだ、誰ひとり許さないとしてもわたし自身が許せばよいということにしたいよ、と。
愛はわたしにとってシステムの名前か、なにか「仕様」のようなものをあきらめるときの言葉に成り下がりました。
だから心の底で愛に反発し、反抗し、見下した。いまだ「すばらしいもの」の顔をして語りかけてくる「愛」が恐ろしいものに思えたし、二度と取り込まれまい、二度と騙されまい、と思えばすごく冷ややかな気持ちになりました。愛という言葉を示してくる人を警戒し、それを「すばらしいもの、すばらしいだけのもの、すばらしいに決まっているもの、このすばらしさを知らない人は可哀想だね」と言う人をこっそりと軽蔑し、愛を信じなかったし、愛を持て囃す人はもっと信じませんでした。大人になったわたしを何らかの形で所有しようと愛をちらつかせてくる男性などはその最たるもので、その漢字の造形すら恐ろしく、また汚らしく見えるときだってありました。今もちょっとあります(そしてほとんど同じ憎しみの感情を「家族」という言葉に対しても持ってしまっています)(でも「鶴瓶の家族に乾杯」は好きだぜ)。

わたしを踏みにじってきたものはみな「愛の仮面をかぶせた何か」「愛と名乗らされた何か」「愛と書かれた箱に入れた何か」であったのだなあ、とやっとしっかり理解してからも、その言葉への憎しみを消すことは難しかった。その憎悪と恐怖の前ではほんとうになすすべがなくて、考えるだけで苦痛でしたから。

 

 

だけど——わたしは愛を知っている、とも、思っていました。不思議なことに、その自覚はあった。確かにわたしは『愛』が大嫌い、でも、愛を知らないわけじゃない、少しも理解できないわけじゃ、ないっぽい……と、自問自答することがありました。「それは愛じゃなくて、愛のラベルを貼った何かだ」と結論付いたのは、わたしの中にはわたしが認める愛の基準があるということではないのか?と。でも、そこから先へはなかなか進めなかった。

すっかり大人になった今でも、たいして変わらない場所にいるなあ、と思います。いまだ確執がすごいんです、愛という言葉とわたし。
たとえば今の職業に就いて、出会う人に対して思う気持ちをできるだけ簡潔に表すとしたら「できれば、愛したい」になるとは思う……できる限りの慈しみと敬意、いたわり、気遣い、おもしろさや楽しさ、肯定、心が躍るようななにか、暖かいなにかをふたりの間につくりたい。
でも、それを当事者どうしでない誰かに「愛ですね!」と呼ばれたら? と思うと(呼ばれたこともある)はらわたが煮えくりかえって吹きこぼれるわけよ。ああめんどくさい。

何回かはね、愛してる、と人から言われたことがありました、面と向かって。淋しくてどうにもならなくなっているお客さんとか、あと通りすがりのお酒に酔った人から言われるそれは、しょうがないっていうか、喜べるものじゃないけど自分の中のあしらい方マニュアルみたいなものに則ってなんとかお片付けするしかない。でも、個人的な恋愛関係にある人だとそうもいかない。受け取らなくてはなりません。
その時わたしがどうしたかというと、半ばパニックのようになり、身を固くし、相手には「あなた愛だなんて口に出して言うような人だったかしら?やだ恥ずかしいクスクス」くらいのニュアンスで伝わるように精いっぱい努めながら、わたしに対してその言葉は使わないでほしい、と遠回しに遠回しに言いました。

同じ相手に、数日後にまた言われた(遠回しすぎたんだよね。笑)ときは、「愛してるなんて言葉は一生に何度かだけ言われたいタイプだから、あまり簡単に口にしないで、わたしそういうの苦手」あたりのニュアンスで伝わるように精いっぱい言った、と思います。実はあんまりはっきり憶えてない、いっぱいいっぱいだったから。

それからはもう、言われることはありませんでした。
言ってくれた人のことは、好きだった、はずだった。カジュアルな言い方だったけど、きっと真剣な気持ちで言ってくれたのだろうとも思う……けど、今までわたしが真剣に苦しんできたその「真剣」と戦わせたら、とうてい釣り合わない、とわたしは思ってしまいました。なんと傲慢なことに、相手の真剣を自分のそれよりもかなり低く見積もってしまった。頭に血が上って、心がガタガタ震えて、一目散に逃げたかったのです。やれやれ。

 

世間がわたしへ説いてくる愛。
わたしが受け取って受け入れる愛。
わたしがどこかへ差し出すことのできる愛。

1番目はもう嫌というほど見聞きしたし傷つけられたし、お付き合いの仕方を考えながら当たり障りなくやりくりしていきたい相手です。2番目は、差し出されたその時には愛なんてリボンはついていなかったけれど、わたしが「そういうことにして」心の奥の方に大切にしまってあるものたち。3番目は、とっても重要だと分かってはいるけれど、その内容をまじまじと見て言葉にしたことはない、その作業からやっぱり逃げたい、という有様です。

 

わたしの受け入れる愛ってどんなものだっけ、と考えたとき、すぐに思い浮かぶシーンが2つあります。

ひとつは、小学校に上がる少し前のことだったかな。
母がわたしの枕元で(当時は暇さえあれば寝込んでいたのでだいたいそういう記憶)、言い聞かせてくれたこと。

ママはね、ユリのママだけど、パパでもあるのよ。それと、ユリにはおにいちゃんもおねえちゃんもいないけど……いなくてごめんね、でもママがおにいちゃんで、おねえちゃんなの。それから、もしユリが望むなら、妹でもあるし、弟でもあるよ。それから、ママはユリのお友だちでもあるのよ。もし思うように学校に行けなかったり、学校でお友だちができなかったとしても、なんにも心配いらないの。
それとね、ユリが大人になるまでは、ママは死なないことになってるからね。神様と約束したから、絶対よ。
だからゆっくりお友だちを見つければいいからね。
これからどんなことがあっても、ママはユリのママで、パパで、おねえちゃんで、お友だちだからね。どんなことがあってもよ。いちばんそばにいなくても、そうなのよ。わかるかな?

……今になってさまざまな事情を知り、当時の彼女が置かれていた状況を思えば、わたしを手放さなくてはならなくなる不安を抱えておりそれを拭い去るため自分に言い聞かせていた、という解釈もできます。その不安を察知して情緒が不安定だった幼いわたしをとにかく安心させたかったんだろうなあ、とも思えます。

ただ、このとき感じた強い安心感は、今でも思い出すことができるし、このとき授けてもらった自己肯定感はとっくに成人したわたしの中にもしっかりと存在しているものです。
これは愛ではなく「親のつとめ、保護責任」や「母性」というものだ、と言う人もいるかもしれないが、わたしにとっては愛と呼んでもかまわないものです。受取人としてそう認識するもん。これに関しては受取人が決めていいと思うんだよね。

もうひとつは、10歳くらいのとき。家族のひとりであった大人から暴力を受けた数日後のこと。

腫れがすっかり引くのを待ってから登校を再開したつもりだったのに、放課後にひとりの女の子が、わたしを見つめて言いました。ユリちゃん、顔、どうしたの。ほんの少し残った傷を、目敏く見つけられてしまったのです。
その女の子、リホちゃんのお父さんは、傷害事件を起こして服役しているという噂がありました。少なくとも暴力が原因でご両親が別居されているというのは確かでした(当時暮らしていたのはこういう話が町中にまわるような田舎だった)。わたしは「当事者の目は鋭い」ではなく「リホちゃんはよく気がつく細やかな子」と受け取って、とくに身構えもせずに答えました。ちょっとぶつけちゃったの、と。

するとリホちゃんは、そっか、ぶつけちゃったのか、痛かったね、と言って、それからわたしのことを両手で抱きしめた。そして「きいてごめんね」と言いました。

リホちゃんは、声を殺して泣いていて、驚いたわたしも泣かないでと言って泣き、しばらくふたりでシクシク言いながら抱き合っていたけど、それ以上何かを話すこともありませんでした。

ただ、リホちゃんが家族だったらどんなだったろう、と思いました。家族を自分で選べたらよかったのに、と。自分で選べない家族に意味なんかない、と激しく思い、でも同時に「かぞくをたいせつに!」と呼びかけてくるものの多さにもすでに触れる機会がたくさんあったので、ただただ困り果てました。

これもまた愛ではなく「女の子の優しさ」や「被害児童どうしの哀しい連帯」と言う人もいるかもしれません。わたしにとっては愛でいい。受取人はそう受け取った。この日のことに近い出来事は多々ありますが、代表してこのときの教室の風景が思い出されることが多いみたいです。

どっちの愛も、無力だな、と思います。母もリホちゃんも当時の状況下では非力な被害者だったし、わたしにしてくれた行いも、それ単体では無力で何もなしえない、その場ではなんの状況を変える力もない、役に立たないなぐさめのようなものでした。
でも、長い間生きている。ずっとずっと生きていて、わたしと一緒にいるものです。確かにわたしのどこかに蒔かれ、発芽し、根付いたなあ、といま思いますし、そうひしと実感する機会が思春期の後に何度も訪れました。

さて、じゃあ、両手いっぱいの苗木を抱えてわたしは、これからどうしたらいいのか。
そう思うと、わりと、途方もない気持ちになります。いい年して考えてこなかった自分へのガッカリ感もあるし、ですが愛や家族といった言葉とわたしとの確執は、決して終わった話ではないのです。定植しないと枯れるのでは、という漠然とした恐怖もあります。つらい。考えるのはつらい、苦しい、考えたくない。そう苦しがること自体が考える、に片足突っ込んでる証拠なんだけど、だったらさっさと両足突っ込みやがれよ、と自分を怒鳴りつけるとやっぱりつらいです。

「私はこの質問に答えたい!」
部外者の分際で図々しく名前をつけてしまうけど、さまざまな関係のさまざまな形の、ただただまぎれもない強い愛がそこかしこに散りばめられたこの本の最後の最後に記された言葉。本編を読んでいる間は横に置いておいた涙が、とっくに読み終わって家事をしながら(エリンギ裂いてた)ふとこの言葉を思い出したときつるりとこぼれました。答えたいと力強く言うキヨさんが眩しくて、大好きで、近づきたくて、でもわたしの胸ではどうしたって「答えたくない!」「誰も私に答えさせないで!」が優勢で……。
和解したいよね。ほんとはね。

箱の表書きに動じない練習をしたいです。
箱に書かれた品名に翻弄されたり心を乱されたりしないよう、その中身を自分で見て、なにをどれだけ受け取るかどうかを決められるようになりたい。

 

余談だよ。ちょっと前、わたしに向かって愛していると言う人物が現れて、その瞬間のわたしといったら、もしキヨさんの漫画の世界に住んでいたならば目玉がポポポポーンと飛び出してラーメンどんぶりの中にバッシャーンザブザブザブッ!!といったであろううろたえっぷりでした(いや、誰もラーメン食べてなかったけど)。あああああどうしよう!えーどうしよう!この人のこと怖くなんのちょちょちょ超ーーいやだなーーーーっていうのを、そうねだいたい愛してるの「し」くらいでもう考えて目玉ザブンザブン泳がせてたよね。こういう瞬発力ならあるんだよ。

でも続きがありました。「愛してる、と言ってもいいですか? 言わない方がいいですか?」だったの。
えっ?選ばせてくれるの!?わたしが選んでいいの?わたしが許可出していいの?権利くれるの?なにこの人!! と思ったらなんと可笑しいことに突然世界が開けて、びっくりしました。そんな簡単なことだったのか……と(その人は別にわたしの過去のなにを具体的に知ってるわけでもない、と思う)。
とはいえ想定外の質問なので、変わらずザブサブしてはいたんですが。権利をもらえるってなんてすごいことなんでしょう。わたしが長年求めてさまよい、自分が自分自身に対し許すことによってどうにか心を立て直してきたものも権利でしたけど、他人から当たり前の顔で与えられると、こんな気持ちなんですね。
今までにも与えてくれた人はいたんだよ、それは当然いっぱいいたんだけど、ここまで明確に言葉を使ってもらえたことってなかった。

「言うのはあなたのほうの権利なので、言ってもいいですよ。でもお返事はできません」

わたしの答えはこうでした。なんだよそれ……と思われるかもしれませんが、目玉ザッバザバのわりにはがんばったと思う。お酒の入った愛の告白は100%取り合わない、というマイルールがあるので仕方ありません。

何年も何年もひとりで背中を丸めて取り組んでいた暗号(100000000ピースのジグソーパズルに書いてある)を一瞬でチャカチャカチャカ〜っとつなげてそっと読んで去って行く他人っているんですね。あーびっくりした。

びっくりするわたしを、少し離れたところから10歳のわたしが見ていたと思います。いつかあの子を手招きして抱っこして、なんにも心配いらないよって言ってあげたいな。

 

 

ごっちん愛してる!!!

2015-11-10 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ: