まじめなはなし

ワーカーズライブ:春一番の姉妹

風俗嬢コラム Worker’s Live!!-Girls Health Lab: 春一番の姉妹

これまでガールズヘルスラボに書いてきた小説の中で、たぶんいちばんほめられました。うれしい。ありがとうございます。
そして『良い百合』という言葉でほめてもらっている場面をたくさん目撃しました。今までもときどきそう言ってもらうことはあったのだけど、わたしは人の関係性に対してかなり大ざっぱ(とてつもなく大きくて仕切りのない「好き」という箱にあれもこれも入れちゃって、中で浮遊してる)なので、あっ百合に入れてもらえるんだ、って実感するとくすぐったかったです。名前がつくと照れちゃう感じして、すぐ「わたし名前がもうユリだからね〜」とか言ってしまうんだ……。

余談だけど、男性の同性愛を薔薇に例えるのに対して女性のそれ(いまは同性愛関係に限らずもっと広範囲に使われてますね)を百合と呼ぶ、と知ったとき、綺麗な名前だな、と同時に「うまいこと言う!!」とひとりひそかに盛り上がったんですよ、だって、それは、そのー、ユリって、おしべの先んとこ(葯っていうんだっけ?花粉の袋)をちょん切ったりひっこ抜いたりしてポイッと捨てちゃうじゃん!?

……でも、どうやらそこは関係ないみたいで、うそでしょー、と思ってます、いま。そう、いま検索してちがうと知った。えーーーまじかよーちがうのかよー。余談おわり。

 

過去を振り返ると、わたしもいろいろありました。
さくらちゃんだったことも、みずほちゃんだったことも、あったと思う。忘れられない女の子が何人もいます。忘れない、というだけではあまりに無意味で頼りなく、どうか幸せに暮らしていますようにといつも祈っています、無意味なことに少しも変わりないのに。

最近はキャストどうしがあまり仲良くならないようにシステム作ってる店も増えた気がするけど、ちょっと前は距離感近いところはもうどっこまでも近かったんですよ。同じ毛布をわけあってうたた寝したりとか普通にしてた。いや、あれはわたしのいた店の待機室の狭さが半端なかったというだけかもしれないな。異様にせまかったので……。
その店はいろいろといいかげんでした。求人には『寮完備』って書いてあるんだけど実体はそのせっっっまい部屋のことだったもん。夜中に店閉めてみんな帰ったらここで寝ろや、を『寮完備』と書く。アクロバティック〜。
いまでは他にもいろいろとんでもない働き方をさせられていたことが分かるけど、当時はそういうものなのだと思って受け入れていました。摘発されていた可能性もあったわけで、その点はこわい。
でも、つらい思い出ではないです。

脱線しちゃった。

はっきりとカップルになっている恋愛関係じゃなくても、女性たちの間の憧れや友情など肯定的な感情、それゆえにときに生まれる相反するかのようなチクチクしたもの、そういうものたちが織りなす物語が幅広くまとめて『百合』と呼ばれるのだとしたら、風俗店ってそういうものいっぱいある(ように外から見える)かもなあ、と思います。女子校みたいに。
仲良くなったり、ならなかったり、意識しながらとうとう直接は言葉を交わせなかったり、憧れながら負けたくなかったり、助け合ったり、突き放したり、やっぱり手をつないだり。だけど、プライベートではつながらなかったり。あとたま〜につまらない(と本人たちも思ってる)ことで熱いバトルが起こったり!

勤務時間内だけ極端に距離感が近くなる場合がある、っていうのがけっこう大きいかもしれません。
私物のヘアアイロンを仲良い子に貸してあげたら「なにこれめっちゃいい!サラサラ!」と喜ばれたのであたしがいない時も勝手に使ってね、と言ってアイロンの持ち手にその子の名前をマッキーで書き足した(とったとられたにならないよう置きっぱにする私物には名前を書く)ら、次に出勤したとき彼女の手によって名前の間にハートのマークが足され「シーナ♡リサ」みたいになっててコンビ名かよってめっちゃうけたんだけど当のリサちゃんがたまたまいない日だったものだからひとりで肩を震わせた話とか、なんていうか、わたしにはちょっとしたかわいい思い出のひとつみたいなもの、
この世界独特の、なんだろ、閉鎖性とか秘密っぽさみたいなものも手伝って、ドラマチックに捉える人もいるかもしれない。そういうのを、「百合だ!」って呼ばれて消費されるとしたら、どうなんだろ。

……ってことを、ちょっと考えました。
どうだろ。でも、あんまり嫌な感じはしない。

たとえば刑事もののテレビドラマやなんかで、風俗業やホステス業がそれこそその閉鎖性や神秘性や、さらに不誠実だったりお金にだらしがない人間であろうというマイナスイメージを利用したうえで、物語を進ませるためのパーツとして雑に利用されているケースは溢れています。ふーん、と思っています。さぞかし使いやすくて便利でしょうなあ、って。

でも、じゃあ、同じことなんじゃないのって言われるかもしれないけど、そんなに嫌じゃなかった。関係性だけを面白がられたり、閉鎖性や被差別性をスパイスにされることを想像すると、たしかにとても嫌なんですよ、だけど、今回言われた限りではわたしはそういう感じをぜんぜん受けなかったです。

「女の友情は(男のそれに比べて)もろい」とか、「女の絆は男が現れれば簡単に壊れる」とか、「女ばかりの場所は陰湿で残酷」「女から女への恋心は単なる通過儀礼」「または男の(セックスの)良さを知らないから」といった一面的で有害な思い込みにNOを突きつけるものとして『女たちの物語』は力強く、また不可欠な存在だと思っているから、百合という言葉を褒め言葉だと受け取れるのかもしれません。
わたし自身は物語を読んだり見たりする時、ガールズラブでもボーイズラブでもどっちでもないズラブでも伝統的な異性愛でも「ズ」がふたりじゃなくても性愛的なラブストーリーじゃなくても、似たようなテンションで読んで同じ棚に入れてしまうタイプですが、それでも女の物語が生まれにくかったり、作り手の意に反する形の評価や消費をされやすかったりする感じはなんとなくわかる。なので、女どうしの関係性を描いた作品がもっと力を得て自由になれたらいいな、という気持ちもあります。
今回わたしが書いたものを読んで、すてきな百合だね、と言ってくれた人(女性がほとんどでした)が、ああ何らかの肯定的な力(良さ、とか、わかりみ、というやつかな)を感じてくれたのかなあ、と思うと、正直にうれしいです。

女が女の愛情を信じられる世界であってほしい。それを取るに足りないもの、弱くもろいものだということにして力を奪い、別の力に従属させようとする存在から自由になりたいと、これまで仲間であった女性たちとの思い出を通じて、そう思います。

 

余談その2。その待機室が異様にせまかった店では辛い経験もして(店長に性的な関係を要求されるなど)、結局さいごは無欠から飛んだのですが、しばらく経ってからふと思い出して検索してみたらホームページがなくなっていて、すぐさま匿名掲示板を訪ねてみたらかつて働いた女の子らしき書き込みで「祝!○○(店長の名字)落ちぶれ〜!(IKKOさんかよ)」とあり潰れたばかりだということがわかったので、他にもたくさん悪事を働いていたのかと腹が立ちながらもほっとしました。
あのときへこんでたわたしに「アイス食べたくない?」と言って外に連れ出して話をしてくれた女の子のことも、ずっと忘れてないです(3月か4月で、まだちょっとアイスには寒くて、やっぱさみーよ、って言いながらその子はパナップ食べてた。わたしはなに買ったか忘れた)。

2017-03-14 | カテゴリ: weblog, きらくなはなし, まじめなはなし | |  

 

小さな暖炉の前の椅子

ここを読んでくださっている方にはそろそろおなじみ、2014年末のできごと について、当時から尽力してくださっていた方々とお話する嬉しい機会が最近ありました。
いろいろと心の中のものを書き出したのでよい整理になり、ログが流れていくのがもったいないのでここにまとめておきます。

今になってはたと思い至ったのですが、あのとき誰が何をしてくれていたのか、というのが、当時のわたしにはほとんど見えていなかったんです。何らかのかたちで動いていると把握していたのは自分以外にもセックスワーカー(引退後の方を含む)が多く、そのため当事者だけで矢面に立っているかのような心許なさは大きかった。じきに精神的負担の大きさに、もう無理!となり、もっと知りたいことはあるけれど、もう無理だな、という状態でわたし自身はいったん区切りをつけました。それでよいのだと言い聞かせる他なくなった、というか。

アクションを起こしてくださった方がいたことは、知っています。ただ、その後どうなったのかを知る機会がなくて。「知りたいし、言ってくれて大丈夫なので教えてください」とどこへ申し出ていいのかも分からないまま時間が経ってしまったので、それはちょっと気になってはいます。

いま初めて言うことだと思うけど、当時大きなメディアの取材も受けたんですよ。ただ、質問の問いの立て方がもう完全にズレていて(同じ女性としてどう思いますか?とか……)、つくづく悔しくて、一度は断って、でもどうしてもって真剣にお願いされて、そうかここからひとつずつ説明していくしか道はないのか、と思ってできるだけ答えた。絞り出して答えました。これでもけっこうがんばってたんだよー!
……あれは、どうなったのかなあ。実はわかりません。それきり連絡をいただいていないので。

そんなこんなで、あのときのいろいろは確かにわたしからいろいろなものを奪ったのだけど、せめて学んだことというのもいくつもありました。

 

【セックスワーカーへの中傷にもいろんな背景がある】
【それぞれに真意があり、その裏には苦悩がある(こともある)】

性的なアイコンだから、スキャンダラスな存在だから、指をさして蔑んでも世間から非難されにくいのでストレス解消にうってつけ。そういう理由で指をさしてくる人はいて、比較的見えやすい遭いやすい脅威です。だけどそれだけじゃない。
確信を持って「あなたがやっていることは犯罪(※)だ、犯罪者としての自覚を持て」「あなたのような邪な人は社会にとって害悪なので発言するな」と言われることもありました。わたしがひとりの人としてなにかを主張している、まわりがある程度それに耳を傾けている、それは異常事態であり、世の中の秩序を乱していると。彼らの心を乱しているのは「世の中が風俗嬢をひとりの人間として扱うこと」や「性風俗業があること」そのもののようでした。わたしの発した言葉の内容については、あまり関心がないように思えたのです。

性産業に直接関わっていなくとも、それに対する気持ちによって苦しんでいる人がいる。知ってはいたけれどはっきり目で見た、自分に向けられる形で。その経験は重かったです。

(※……この指摘は正しくありません。わたしの仕事は派遣型性風俗店のコンパニオンですが、これは犯罪にあたらないものです。様々な業種の中には現実には違法行為(≠犯罪)とされる可能性を含むものも一部あり、しかしわたし自身は業務の内容によって働く人の権利の部分に差がつけられるべきではない、たとえば所属する店が適法だと証明できた人だけ職業差別から守ってあげましょう、とかそういうのは変だよと思っています。ただここでは「風俗店に勤務すること=犯罪」という認識は誤りである、ということだけしっかり記させてください)

(付け加えるとしたら、あまりに捉え方が雑すぎて「ああ、買売春やセックスワークにまつわる問題についてまじめに議論する気はないのですね」とすぐにわかるような『誤り』ですよね)

この社会にセックスワーカーがいるということ自体に居心地の悪さを感じたり、「私もあなたたちと同じ人間ですけど」と主張する姿や、それが一定の理解をもって取り合われているさまを見て耐え難いにくしみを抱かされる人、ばかやろう調子に乗るな死ね売女(一句詠めました)、と思わずにいられない、言わずにはいられない人というのが確かにいて、一緒に生きている。同じスーパーのレタスの山に手を伸ばしているし、同じ自動改札にピッてしてる。
それはわたしとしてはひたすら怖いことですが、納得もしました。
むき出しの悪意を侮辱的な言葉にのせてぶつける行為自体は嫌悪しつつも、その苦しさ(わたし自身は未体験のものなのに)自体はまるっきり分からないわけではない、そんなふしぎな感覚がしました。
たぶんそれは、そういう憎しみを形成したもの、個人にもたらしたもの、植えつけたものの正体をわたしもなんとなく認識したことがあるから……ではないかと思います。
それらはムクムクと伸び縮みしながら常にわたしたちをまとめて包もうとしますね。

救ってあげたいだとかそんな図々しいことは決して思えないけど、ただその苦痛がせめて無関心になれば楽になれる人がきっとたくさんいるのかもしれない、とは思ってた。
かといって、わたしにできることは何もないのです。悪意から適切な距離を取るための努力だけでいっぱいで、向き合うことはできない。いちいち紐解こうとすると、目の前にある日々の仕事に「やりづらいなー」って気分になってしまって支障が出ちゃいそうで、それがとてもいやでした。

わたしにとって大切なことは、自分の前に来た人になにか少しいいものを持って帰ってもらうこと(ほわっとした言い方ですが決して優しさいっぱい夢いっぱい♡なイメージではなく、まあ一旦そういうことにしておくと個人的に業務がやりやすいのです)。だけどお客さんにも色々な人がいます。有料で性的なケアサービスを受けるということと精神的な折り合いがつかず、性風俗を憎悪しながら性風俗を利用する人も中にはいますし、そこで出会ったコンパニオンの身体はすべて自分の自由にしてよいものと勘違いしている人、わたしのことをなぜか生きている人間ではなくオブジェクトだと思っているかのような危険な人も、稀にはいます。
最大限に身の安全を考え、警戒をしながら、それらをきれいな仕草で完全に包み隠すこともしなくてはならない。その作業に、「これは悪意を向けられて当然の仕事」という意識はものすごく、じゃまです。忘れたふりをしなくてはなりません、けっこう大変です。でも客となった人に精いっぱいのことをする、その人の心身をできる限りかけがえのないものとして優しく扱う時間をつくる、それでしかまた自分の自尊心みたいなものも守られないのです、わたしは。そのためにはやはり、まず自分の心を守らなくてはいけない。

だから、これ以上はやめようと思ってやめました。矢面に立たされたことは仕方ないとして、いつまでもそこにいることないですし、いられないと思いました。もっとできることがあったのでは?と漠然と悔やむ部分もありながら、しかし間違っていたとは思っていません。

……でもね。
でも、問題からうまく距離を取って、矢面からせめてもの安全地帯に退避して心身を守るというその大切なこと不可欠なこと、それって、加害する側のものにとって、とてもとても都合がよいんですよね。静かであるということが、許されているということになる。問題ないものになる。だって誰も文句つけてこないけど?世の中うまく回ってますけど?と言わせてしまうことになる。「そういうもの」であり、正しいということになる。
もともとの関係が対等じゃないから。

 

【では侵害に疲れて抗議をしないでいると、なにが待っているか】
【そこにもまた侵害があるだけ】

それを心底思い知らされるような出来事が、昨年(2016年1月)ありました。たくさんの方が指摘していた通り、これらの件は地続きの問題を含んでいると思います。もうね〜悲しいとか悔しいとか腹が立つとか、そういうののもっと上の言葉はないのかよ!いくつかいい感じのやつ作っておいてよ昔の人!!ってくらい悲しくて悔しくて腹立たしかったです。
今もです。
(この事件のことです – Don’t exploit my anger! わたしの怒りを盗むな

矢面地点からそっと逃げて茂みの陰ですり傷をなめてたら空から巨大な爆弾が落ちてきたぞドーン!ボカーン!!みたいな衝撃でした。おっとわたしがメソメソと傷ついていたあれはいま思えば竹でできたほっそ〜い矢みたいなものだったな!ってなりました。
なんにしてもライフがひとつ減ることに変わりはないんですけど。矢でも死ぬもんね、人は。

 

【専門家への期待は、かなわなかった】

美術館に問い合わせをしたとき、そしてその内容を公開したとき、わたしの心の中には「無知な自分が問題提起をしていいのだろうか」という不安とともに、それを振り払うだけの期待がありました。
こんなことが起こった、困ったことになった、どうしたら……という声をあげれば、んーなんて書くのが正しいのかな、その道に詳しい人たち、専門家の人たち——つまり、普段のお仕事で人権問題や性差別や写真芸術や諸々を取り扱っている方が、その知識でもってなにかヒントを示してくれるんじゃないかって。
わたしはなにも判断ができない、主観による主張しかできない。だけど、セックスワーク当事者にとって切実なこの恐怖や不安を、そうでない人にも想像しやすいように具体的に表現することなら少しできる。「取っ掛かり」になら、なれる。そうすればきっとそれぞれの専門知識がある人が具体的な説明をしてくれて、そしてわたしを含めた大勢の人が新しいことを知り、考えることにつながる。だったら最初の取っ掛かりとなる価値がきっとあるはず。そう思ってた。

でも、そうでも、なかったんですよ。何ひとつ全くなかったとは決して思わないです!でも、思ったよりずっと少なかった。
特に芸術に関わる立場の人(仕事にしている人とか、愛好している人も)が、アートの名誉と言えばいいかな、そういうものを守るために何か話してくれるかもしれないって思っていたんです。人が嫌がることでも何でも芸術と言いふらせばオッケーさ、という考え方ですべてができている業界だと思わないでくれ、という話になるのでは、って思った。
でも、思ったほど、そうでもなかった。
これはわたしが勝手に期待していただけのことで、そうならなかったからといって仕方のないことです。しかしそれだけで済ませてよいものかどうか疑問が残っています。

《わたしの予想に反して彼らのところまで届かず、リアクションを得られなかった》では、ないからです。リアクションはあったのです。

まず聞こえたのは「あの人(ことの発端となったアーティストたち)はそういう人だから仕方がないだろう」というたくさんの声。中には「仕方がないだろ(笑)」というニュアンスのものも見られました。

それって、本当にあの写真を撮った人やワークショップを企画した人が「あの人はああいう人だから、いくら我々が議論をしても無駄骨になるだけだ」と思われていたんじゃなくて……外野から波紋を起こされようとその内容が「セックスワーカー?とやらの、なんか知んないけど人権とか?について、なんやかんや言われてるらしいわ」なら、放っておいても大丈夫、というのに近かったんじゃないかなと思ってます。
脅かされていない名誉は、そりゃあ守る必要ないですよね。だから起こったことを見るよりも先に「ほほう、セックスワーカー自身がみずからの人権を主張する世の中になったとは時代も変わったものですな、興味深い現象ですな」みたいなことを言う人すらいたんだと思う。アートの名誉を守るために自分で動き話すより、その方がかっこ悪くないということなのかな。

そして「いちいち被写体の許可をとっていたら写真表現自体がダメになる」「『倫理的なことを言っても通じない』ことを芸術と呼ぶのだ、認識を改めろ」という意見もありました。後者は美術家の方から直接わたしに向けて届けられた言葉のひとつです。
さびしかったです。それで、ああ、わたしは何か期待をしていたんだな、と思って、もうやめよう、二度と自分以外に期待なんかしない、するもんかい、ってちょっと思った。
(すぐやめたけど。それは自分だけでもそこそこのことができる見込みのある人が言うことだもんね。わたしは誰かと協力しないとなんにもできないので、やっぱりこれからも相手を選びながらちょびっとこっそり期待はしそうです。だめなら落ち込み、かなえば喜び、で生きていきそうです)

 

【終わった話、にならない理由】

わたしはメールフォームをオープンにしているので時々おたよりをいただくんですけど、あの件に関して何かを書いてくれる人が、まだ、いらっしゃるんですよ。2016年でもまだいくつかいただきました。そしてそういうときって必ず「終わった話を蒸し返して申し訳ないんですが」って書いてくれてるんですよね。ふふ。
やだー終わってないよ!!あなたがあなたの中に生まれたことをそうやって書いて、わたしに送ってくれたって以上、それが続いてるってことそのものだよ。っていつも思ってます。蒸し返してわるいかな、なんて思わないでください、大丈夫です。ずっととろ火がついてるのでいつでも蒸したてふかふかだよ。

わたしのツイッターをずっと読んでくださってる人はぴんと来ると思うのだけど、昨年の春には、社会学におけるフィールドワーク、の名でひどいことをしたり書いたりされたこともありましたね。あのときメールくれた人もいた。わたしがリプライを送って、お返事してもらえなくて、それを見ていてくれた人。何も出来ないけど確かに見ました、と言ってくれた。
ありがとう。あれうれしかったです。
それから、わたしの文章を読んでいるうちに「突破口が見えた」って書いてくれたひともいた、これはもう、うんとうれしかった、セックスワークを考えるにあたっての誠実な姿勢が文面から伝わってきて、本当にうれしかったです。自分を疑ってくれているあなたをわたしは信じます。思いがけずこんなところでお返事してごめんなさい。

そりゃあ……「終わった話」にできたら、すごくいいですよ。そういう時代がかつてあった、まともに話も聞いてもらえなくて当然なころもあったのよ、って昔話にできる日がくればいい。でも今は、そんな景色はとても見えない。

つい最近になって、東京都立写真美術館の方とお話する機会を持ってくれた方がいらっしゃいました。
お話してくれた学芸員さんによると、写真家本人から美術館に対し、謝罪の言葉があったそうです。そしてそれは美術館に対する謝罪ではなく、この件で不快に思った方全体に対する謝罪であった、と。
ならばなぜその「全体に対する謝罪」を美術館に向かって行うのか、わかりません。今日までわたしが知らずにいたのかと思っていちおう探してみたのですが、ご自身のブログで一度釈明(わたしはあれを謝罪ではなく釈明、もっといえば弁解だと受け取っています)された文章以外には見つかりませんでした。
たぶん、なにがまずかったのか、どういった点が批判されてしまったのか、今でもはっきりとは認識されていないんじゃないかな、でも形式的にでも謝らないとまずい状況に追い込まれてしまったのかも、と個人的には思っています。
わたし自身は彼から謝ってもらうべき者ではないので、「あいつがあやまるまでおこるぞプン!」みたいな気持ちではない(そう思ってる人もいそうですが、ちがいますよ)ですし、仮に彼が認識を改めたとすればすべてが解決するかというとそれも違います。そういうことでも全然ないです。
(まるっきりどうでもいい、ということではなくて、一部のエリアで失われたかもしれない彼の名誉や信用がこの先挽回される機会が全くなくてかまわない、というふうには思っていません)

ただ、このままだと別の人たちによって同じようなことが何度でも起きることは十分考えられるし、それを避けようとして短絡的な方向に向かう(たとえば性的なニュアンスの濃い作品がとりあえずやたら疎まれるとか)(セックスワーカーの存在を単なるめんどくさいタブーとして隔離するとか)(権威のないアーティストたちが理不尽な制約を課されるとか、いろいろ)のはいやだな、とかは思っています。

わたしにできることがまだあるのかどうか分かりません。
でも、ちょっとあるかもしれない、と思いながらずっと考え続けます。こうしてブログに書くことも「これにて終わりです」とはずっと言わないだろうと思っています。セックスワーク自体をいつか引退するとして、それで終わりにもならない。
そう、本当は終わりにできたらいい、だけど、いまは終わらせるわけにいかない。終わらせてなんかやるもんですか。
いつかのいつかには本当に終わらせなくちゃならない、そのために、わたしたち(って言ってもいいよね?)は続けます。
探し続けます。
細々と、しつこく、できるだけ明るく、できるだけしぶとく。あなたにもいつでもきてほしいです。胸から抜いた矢を暖炉にくべてお待ちしております。とても小さな部屋ですがなぜか無限に椅子が置けます。おやつにお芋も焼いてます。

2017-02-23 | カテゴリ: おはなしノート, まじめなはなし | |  

 

ワーカーズライブ:寒くなくなんて、ない

風俗嬢コラム Worker’s Live!!-Girls Health Lab: 寒くなくなんて、ない

ガールズヘルスラボの連載です。

このサイトの作品についてはすべて「経験を元にしたフィクション」と明記してありますが、今回について補足すると

外国人を接待する目的での利用だと言って仲介人を名乗る日本人から依頼を受け、その人物に対してのみ店の者が「当店は風営法に則っており本番行為は云々」という話をした状態で現場に行かされ、しかし蓋を開けてみたらサービスを受ける外国人は全くそれを理解しておらず日本語も通じず絶体絶命となったピョン♡

……という部分に関しては、わたしの身にかつて実際に起こったことです。
もうどれくらいかなあ、何年も経っていますけど。

 

イレギュラーな仕事ではありますが、全くないということもなく、しかし遭遇してしまったら最後というわけでもなく、たとえば現在わたしが働いている店では、まず確実にお断りする案件です。
ただ、それはある程度の期間勤めてきているからわかることであって、その店がどういった方針で仕事を受けあるいは断るのか、その基準を隅々まで働く前に確かめる術はありません。方針そのものがしっかりと存在しない(店長の気分次第とか)、みたいな店もありますし。

個人的な経験からの印象では、面接時に「外国の方も接客する機会がありますか」と訊ねたときのお店側の答えとして一般的なのは
「いや〜ウチは断ってる。まあやっぱりノーセックスって文化じたい馴染みがないだろうし、通じないと厄介なことになるしねえ、だから安心してください」
です。
ええ、先述の経験をした店でも、入店するときはそう言っていましたとも……。

 

わたし自身は英検2級を持っていて(とはいえその大半は既に忘れてしまっている自覚がありますが、それでも)ちふゆちゃんよりはまだほんの少しだけ、英語ができるはずなのです。

しかし「わたしのようなコールガールであっても、日本では合法のサービスとして本番行為を提供することはできない。オーラルセックスと素股、また店の基準で定めたその他の行為なら問題ないのでその範囲内で楽しんでくれ。あなたの世話係がなんと言ったか知らないが、なんでもできる、好きにできると言ったのであれば残念ながらそれは嘘である、虚偽の申告である、こちらの本来のルールに従っていただかないと困る」という主旨のことを説明することは困難でした。それはもう非常に、困難でした。

やっとのことでなんとか言えたとしたって、「キミの発音なんだかよくわからないよ」とでも言われて無視されたらもうおしまいですしね。

(ただ、この「しらばっくれられたらお手上げ問題」はべつに外国の方ゆえでは一切ありません。
だって日本人のお客様が日々「え〜そんなキレイゴト言ったってさ〜」とか「え〜この値段ならできると思うのが当然でしょ?」とか「カタいこと言うなよ〜」とか言いながらごりごりルールを無視しようとしていることなんて周知の事実にもほどがあるからね☆ 問題は、「言葉が通じず、禁止されていることだと分かりませんでした」という言い訳があとから成立しちゃうな、という危惧が現場でたたかう人間の心を重くさせるという点です。)

 

誤解してほしくないのは、決して

外国人のお客さまからの仕事を受ける店 → 杜撰でいいかげん
断る店 → 安全でしっかりしている

という単純な基準でははかれない、ということです(単純な基準、て書いた瞬間にまたコレのことを思い出した)。
わたしとしてはただ、受けるのならそれ相応のサポートとバックアップをキャストに対してしてほしいなあ、と思っているだけなのですが、うーん……今はまだ、夢物語に近いことかもしれません。
ただでさえ普段から、運命を利用者の良心ひとつに委ねられている部分が大きいですもの。ハァン(ため息)。

店(もちろん先ほどの話の店とは別です)のスタッフが面談した上で引き合わせてくれた外国人のお客さまで、長い間に渡ってよい関係を作ってくださった方もいました。「赴任期間が終わって母国に帰ることになりました」と言われたときは淋しかったけれど、かけがえのない思い出がたくさんできましたし、お別れの時にかけてもらった言葉といただいたプレゼントは今も大切にしています。縁あってめぐり会えてよかった、とおそらくはお互いに思うことができて、たいへん幸せな経験でした。

そう、いろんなケースがあるということです。
この「いろんな」の振り幅がすべてにおいてすごすぎるので、下方を底上げしてほしいというか、危険が取り除かれてほしいところなんですけど、ね。

 

ちなみにちふゆちゃんと仲のいいまりあちゃんは前回のストーリーに出てきたまりあちゃんなんですが、どうして友情出演しているかというとわたしの
『こんなテキトーなノリのスタッフばっかりなのあんまりだからせめて同一人物でありますように!』というわけわからん願望のあらわれです♡でもめっちゃいるよねこーゆー人!(笑)


ほんとそうですね。最高です。まりあちゃんも「ちふゆは最高だから!」っていつも言ってると思う。

 

【追記】
ちふゆちゃんが歌ったLet it go に、最後の決めぜりふ(わたしもここが好きです)を言ってあげたのに全然わかってもらえなかったお気の毒な李さんですが、もしもあのあと、ちふゆちゃんが本当に『英語を入れると日本語が出てくるLINEのアカウント』であのメモの訳にトライしたらどうなるのか、実際にやってみました。

img_6055

な、なるほど……。
Take care. については「おっ」と思ったんですが、
You’re awesome. はもうちょっとなにかおしゃれにやってほしかったというか、「ものすごい」を「物凄い」としただけでもものすごい感が倍増ですね。うふっ。

そして肝心の一文はこのありさま。しかし致し方ありません。

 

Google翻訳でもやってみましょう。

img_6056

1行目については言うことないんですが、そのう、その後が、なんということでしょう。

これさあ、たぶんやっぱり結局まりあちゃんに訊くんじゃないかな……(笑)。
そしてまりあちゃんはすぐにピンとくるか、それか直接Google検索にかけると思うので、正解にたどりつけると思います。よかったね李さん。

2016-11-06 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ: ,  

 

ワーカーズライブ:99 / 100

ガールズヘルスラボにて、3月のワーカーズライブを担当しました。
毎月1日更新のワーカーズライブですが、うっかり入院&プチ手術するという失態をおかしてしまったため今回に限り一週間延期をさせていただきました。すみません。
外見に傷が残る類のものではありませんでしたので失職や移籍の心配(審美的な面での問題で、セックスワーカーの病気やケガにはこの問題がついて回ります)もありませんでした。お知らせした方々にはご心配をおかけしました。もうすっかり元気です、口座の残高以外は。

入院前にだいたい頭の中で考えていたものは全然違うストーリーだったのですが、術後の湯船に浸かれない期間がわたしの予想よりも少し長く、書いている途中で自分がつくった登場人物の入浴シーンが羨ましすぎて気も狂わんばかりに嫉妬してあばれてころげてワンワンさめざめ泣いてしまいそうでしたので、全部やめました。入浴の離脱症状でしょうか。
かわりに書いたのがこれです。

風俗嬢コラム Worker’s Live!!-Girls Health Lab: 99 /100ghl1603

口コミや店に連れてくるというのではなく、こういう個人的な形でわたしに直接お客さんがお客さんを紹介してくれるということ、ときどき驚かれますが何度かあります。わたしに明かされなかったケースもきっとあると思うので、もっとあるんでしょう。一体どうしてそういう話になるのか、どういう心理でわたしをシェアしているのかは理解していませんが、とくに嫌ではありません。
お友達だったり、会社の同僚だったり、上司から部下も部下から上司も、いろいろあります。複数人で来るお客さん方と同じように「これってあとで全部『男子会』で喋られるのかな……」と思うとやりにくいことこの上ないのですが、どうしたことか、こういう個人的紹介で出会ったお客さんはだいたい安全性が高いというか、乱暴だったり無理難題を押しつけてこない方がほとんどなので、もしかしたらあちらも「悪さをしたらチクられる」と思っているのかもしれませんね。

 

トモヤくんがしていたような根掘り葉掘りの質問攻撃、中高年だけに伝わるウザ芸のようなイメージがありますが、20〜30代の若い方でもやっぱり、あります。
なのに、わたしの答えにはそれほど興味がある様子ではなく、ただひたすらにデータを集めることに必死になっているような……そんなときなぜと問うと、しばしば返ってくる同じ答えがあります。

本当の君を知りたいから。素の君でいてほしいから。

じゃあ聞くけど、あんたにとって本当って何?
——なんてもちろん言い返しはしません。ただ、心の中で「フーン」と思うだけです。古田新太の顔をして。

「素」を求められることの多さは、セックスワークを経験していない方にもなんとなく想像してもらえるのではないでしょうか。
風俗店のレビューサイトでは、その客の期待と比較して声が小さかった場合は「やる気がない」と書かれ、大きかった場合は「演技がハデ」と書かれ、丁度よかった場合は「素で感じていた」と書かれがちです。
会話が盛り上がった場合は「心を開いて話してくれた」、盛り上がらなかった場合は「無駄話をされたので時間稼ぎだろう」、会話自体が上手くいかなかった場合は「なんか暗い」。

「僕の前でだけは仕事を忘れて素になっていいんだよ」という言葉も、たいへんありふれています。ありふれすぎて「伝えたいこの想い〜♪」みたいなひとつの決まり文句になってしまっています……聞かされる方にとっては。
でも、もしも本当に「仕事ではない、素」であるとしたら、なぜ目の前にいるこの他人と親しく話し、それどころか性的な行為をしようとしているのかの説明がつきません。本当はお客さんの側も気がついている事実です(例外もありますね……)。

わたしたちが求められて精一杯差し出す「素」とは、「そのお客さんの求める満足からできるだけギャップがなく、かつ自分の不利益や危険につながらない態度を『素』として演じる」ことです。なので、わたしたちは「よりよい素」を演じるための努力をします。
名前も年齢もその他のプロフィールも、これまでしてきた恋の思い出も、今この瞬間の心模様も。
努力がうまく実れば万々歳ですが、これを「詐欺だ」「騙された」と解釈し、好まない人もいるでしょう。それならそれで、はじめから「素」を求めず、素を暴くための質問もせずに別の会話を楽しむこともできます。「この子は仕事とは関係なく俺に好意や恋愛感情があるから行為を楽しんでいるのだ」と思い込むことだけが、性的サービスの楽しみ方ではないですし、それをよく知って遊んでくださる人もたくさんいます。
ただなんの義理もない他人との濃密な接触を求め(もちろんこれは正当です、対価を払っていればね!)ながら同時に「素」を要求し、さらにそれが本心であるかどうかを疑い証明しろと迫る人も、後をたたないんですよね。それはあまりにもサービス労働のさせすぎじゃないかしら、と思います。

 

わたしが個人的に「素」を求めて楽しもうとするお客さんに気を許さないのは、その流れで恋愛感情を求められるのがとてもやっかいだからです。
性的なコミュニケーションは恋愛感情を持つ相手とのみ行いたい、という希望を個人が持つとき、それは誰にも口出しできないもので、尊重されるべきものです。当然ですよね。
でも、それがいつの間にか「恋愛感情の介在しない性的なコミュニケーションは誰にとっても不当/不自然/不本意」というものに変わってしまっていることがよくあり、これはとても危険です。女性限定で適用されたりもしますね(女には性欲がないから、恋愛感情のみがセックス欲求の根拠であるということでしょうか。よくわかりません)。

なぜこのすり替わりが危険なのかは、あとはもう「好きでもない相手と、金のためにそんなことするなんて」に簡単になっちゃうからです。恋愛感情に基づかないセックスをする人間が、しない人間よりも間違っていて汚れていて劣っていて見下されるべきだ、という規範があっという間に全員をふるいにかけて蔑みや差別心を楽々と作ってしまうからです。見当違いの哀れみや憎しみなども作りますね。そしてわたしのメールボックスに「はじめまして、死ね」というお便りが舞い込むわけです。心配しなくても待ってればいつかちゃんと死ぬのにねえ。

 

わたし個人に限っていえば、業務上のセックスであっても「恋してる相手ではないから」という理由で仕事に苦痛を感じたことは一度もありません(口が臭いからという理由ならば何百回もあります、そりゃあもう!)。もちろん相手に好感を抱ければぐっと負担は減りますが、それは「いい人だな〜」「常識があるな〜」で十分です。それが最高の状態です。

これはただのわたしの話で、わたしのあり方です。
信じられない、と思う人もいるでしょうし、自分は仮にセックスワークに就くとしてもそういう価値観では働かないだろうなあ、と思う人も、実際に違った考え方で長く働いていらっしゃる人もいるでしょうし、口には出さないけど正直ドン引きだわーと思う人も、自分とは違うけどちょっと分かるとこあるわーって人も、もうどんな人だっているでしょう。どんな人がいたって別にどうだっていいでしょう。それぞれの人が別の誰かの価値観に戸惑うかもしれません、理解しがたいかもしれません。しかし蔑む権利などはありません。
大切なのは誰のあり方がより「普通」でより「当たり前」か、そんなランキングじゃない。そんな物差しでなにを測れるというのでしょう。大切にすべきは、誰のあり方も、他の誰かに侵されないということの方です。

初対面の人から対価をもらって行うセックスに試行錯誤している人も、婚姻届を提出するまではセックスをしないことで愛情を示すと心に決めている人も、誰に蔑まれるいわれもありません。「そのようなことをする/しない あなたはおかしい」と言われる筋もなければ言える筋もまたありません。誰だってです。
それでも何か言いたいなら、誰かを「普通じゃない人間」と扱うことで得られる安心や自信がいまどうしてもあなたに必要なのなら、どうぞ胸の中だけで言ってくださいな。

 

トモヤくんは、どんなにクオリティの高い接客を受けたとしても風俗店では満足できない、「お客さん」として楽しめないタイプの人だったかもしれません。自分の欲求や願望の自覚とか、自分以外のセックスの多様性について考えるとか、そういうことに関してまだ子供だったかもしれません。だけど別れ際の彼は「すごいね」という言葉ひとつの中に、自分の戸惑いをすべておさめました。
「当たり前で普通」の物差しを手放すことはできなくても、それをアリサに向かって振り下ろすことをしませんでした。

だから「好き」という言葉こそ絶対に口にすることはできなくても、部屋を去る最後のときまで何が彼にとってプラスになるのかを彼女は考えていた。人間性を見限った客に対しては、なかなかしたくない努力です。
快適とは言えないしすごく難しい仕事だっただろうし必要最低限の仕事をとうにオーバーしていたけど、きっとあとから思い出すのが嫌な記憶にはならないと思います。しっかしよく働いたよね……。

セリザワさんがどういうつもりで「社会勉強」と言ったかはわかりませんが、たぶんこの人は物差しを持たない、信じない人のような気がします。それではないところでアリサちゃんを「好き」なのでしょう。
そういう人と何かを積み重ねていくと、時々は「好き」という言葉を誤解の恐れなく使えたり、保険証に載っているのと同じ年齢を知られても平気だったり、します。それでなにかが測れるなんて思っていない相手だから。「素」を勝ち取ったなどと思っていないから。
そんなふうな、部分的で外には出ない、名前のつかない好きと好きの両想いがふと生まれるときのあやふやな面白さを「ふーん」と味わっているときくらいが、もしかしたらわたしの素の部分かもしれません。唇の端を少し持ち上げて、ふーんハハッ、と。
なんにせよ古田新太っぽさはあるんですけど。

でもでもでもでもよりによってその年齢をうっかりバラした罪は重いよ!!!ダメ!絶対!!
今度お詫びになにか買ってもらいましょう。

2016-03-18 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ: ,  

 

スティグマの腕に抱かれて (2) 偏見と寝て多様性の夢を見る

前記事からのつづきです。

わたしは思いつく限りの選択肢から、候補を2つに絞りました。
「いやだわ、あなたは普通の女性と幸せになるべき方でしょ」と演歌のような態度で固辞するか、もしくは「少し考える時間をください……」と言ってひとまずこの場をしのぎ、店に事情を話してよい対処法の教えを仰ぐか、です。

後者の方がより波風が立たず、自らを「普通ではない女」と名乗る必要もなく、スタッフの知恵も借りられてよいように思いました。しかし、残念ながらその店には頼れるスタッフの心当たりがありませんでした。見た目だけで戦意を奪えるような腕っぷしの強い人も、理詰めや交渉術で戦える頭脳派タイプの人も、業界トラブルに精通した手練手管の黒服タイプの人もいなかった。そしてそのどれでもないけれどキャスト女性の安全だけは何に替えても守るぞ、という人も、いそうになかった。
力になってもらえる見込みがないことは、日頃の勤務を通して悟っていたのです。
せいぜい、以後その客から指名が入っても「すいませんシーナ嬢はご予約様で埋まってま〜す。ガチャン」と留守番電話のように繰り返し、「義務は果たしたのでどうなろうと店の責任ではない」と言われることになるだろう、と予想できました。それでは幸せを前に足が竦んで逃げ出してしまったわたし(と思われることでしょう)を追いかけようと、客の闘争心に火がついてしまうかもしれません。力尽くでまた姿を現したとして、どこにせよそこが店の管轄外であることは確かです。そうなれば何が起ころうと助けを求めることは金輪際できません。

「どこか田舎の小さな町で、この仕事をしていたことを知らない人とささやかな家庭を築くのがわたしの夢なんです。どんなに傲慢なことか分かっています、愛する人を欺くことだとも分かっています。けれども一度このような世界に身を置いた事実は消せない、わたしにできることはこの秘密を墓場まで持って行くことだけです」

なにやらそんな風なことを言ってわたしは穏やかに、しかし揺らぐことのない決心を秘めた気持ちで微笑みました。彼が無様にフラれる筋書きだけはなんとしても避けるべきだと思い、私のことは忘れて下さい、みたいな路線に賭けたのです。どれひとつ取っても本心ではないし、ちゃんちゃらおかしいし、おぞましい嘘ですし、いつの時代だよ最終章劇場版です。でも全力で取り組まなければ通用しないと思った、そういう緊張感に満ちていました。我に返れば本当に不本意なセリフなのですが、必死でした。

その後、多少の紆余曲折のあと、最終的に彼はわたしを諦めました。わたしは職場を失うことにはなったものの、肉体的には無事でしたし、受けた実害は最小限で済んだと思っています。もちろんもっと優れたやり方があったかもしれませんが、今さら何を言っても仕方がありません。

 

こんなふうなこと。
こんなふうに、世の中にある偏見や差別感情を利用して接客を円滑に進めたこと、ステレオタイプでネガティブな風俗嬢像を利用してこの身を守ってもらったこと……きっと何度も、あります。そのような場に立たされたわたしは、嘘をつくことができてしまいます。あのとき「心根はかわらない」という言葉は、偏見と蔑視だらけの彼のセリフの中で仄白く輝きわたしの胸をチクリと刺しました。だけどそれをも否定した。

わたしは自分を含めたセックスワーカーが不当な扱いを受ける社会を望みません。それはそうです。
けれども情けないことに、このような言動を自分に許さずに生きる強さはありません。
お客さんたちに気持ちよくお金を払ってもらい、悪感情を未然に封じこめ、自分に刃が向くことを回避する——なによりも、そちらを優先して日々働いています。
なぜ自分のみならず他のセックスワーカーを貶めるような卑怯な真似を、と思われるかもしれません。しかし、わたしを非難して一件落着と思われるのも不本意です。
密室の中で相手(それもどのような言動をするかの予測に手がかりの少ない他人です)の機嫌を損ねることにはリスクがあり、未知なるリスクのすべてを丸ごと背負うのはわたしです。あなたに替わってはもらえない。

(後者のケースレベルのサバイバル術が必要となるお客さんばかりってことじゃもちろんないですよ!!大部分の人は「苦界の女を銭で買う」ではなく「それを仕事にしている人からサービスを受ける」と捉えていると思うし、もし聞けばこのぶっ飛んだ時代錯誤感に絶句すると思います。差別的な感情を平気で表に出すような人は、個々の危険性は高いものの人数で言えば稀な存在です)

 

マサキさんは「『セックスワークは生き延びるための手段』と思いたかったのは自分ではないのか」とご自身に向かって問うてくださいました。
わたしもまた「『セックスワークは生き延びるための手段』ということにしておいて欲しいのは自分ではないのか」と問わずにはいられません—— が、堂々と答えることができません。
いつかはそうじゃない社会になってほしい、などと心から思ってみたところで、短期的に、その場の感情として、ないことにはできません。

このようなわたしの弱さと過去におかしてきたこと、そして自己弁護を書き綴ること、読めば快くない思いをされる人もいらっしゃると思います。ですが、書いておきたいと思いました。
マイノリティが、マイノリティ自身の言葉として、偏見の強化や差別の再生産を担ってしまう場面がある、そうすることでしか担保されないものが確かにそこにある。

セックスワークならではの問題ではありません。全然ない。セックスワーク以外のカテゴリ(職業のほかにもセクシュアリティ、病気、障害、国籍、年齢、家族構成、生育歴、身体の特徴など、いっぱいいっぱいありますね)で当事者とされる人の中にも、同じような気持ちの味を知っている方はいらっしゃることでしょう(わたしは持病の話をするときにも、屈辱的な哀れみをシャットアウトするため自ら謙りや自虐的な冗談を口にすること、やっぱりありますよ)。
こちらを傷つけてくるもの、壊したいもの、それを鎧や踏み台にすることの矛盾と情けなさ、少しの白々しさを含んだ苦しみ。個人でどうにかできる重さを超えています。
これを見ない振り、知らない振りは、やっぱりできない。かといってもう二度としませんと詫びることもまたできないわたしのみっともない姿を、せめて隠さずに書き表すことくらいしか今はできそうにありません。わたしがひとりでできることは、それくらいしかないのです。

 

マサキさんが“脳内裁判所”に立っていらしたとき、わたしは原告団のひとり、あるいは裁判員のなかのひとりとしてそれを見つめているかのようでありながらも、同時に傍聴席のすみっこでじっと顔を伏せていました。わたしもおなじなんだよ、と思いながら下を向き、隣に行きたいなあ、とぼんやり思っていました。とんだ分身の術です。なんかずっと昔に笑う犬のなんとかで内村さんが全登場人物をひとりで演じて時代劇やるコーナー[1]なかったでしたっけ? あんなふうになってたよね。
2015年のはじまりには勝手な裁判めいたものに片っ端から連れ出されては一方的に品評されていたわたしですが、2016年のはじまりにも裁きの場所にいたこと、だけど今度は自分の足でそこにいて、そしてひとりではなかったはずだということ、憶えておきたいです。

マサキチトセさん(@GimmeAQueerEye)のお書きになったものをネット上、また書籍で読ませていただく機会はこれまで何度もあり、憧れと敬意を抱いている方のひとりです。LGBTやクィア、セックスワークなど多岐にわたる分野において、勉強させていただいたものはとても大きいと感じていますし、それらに関心を持ち始めた方に紹介したいアカウントでもあります(以前から思いを寄せていらっしゃる方は既にご存知のことでしょう)。クィア英会話も楽しいよ!
今回はわたしのつたない文章を読んでいただいた上さらに考えられる機会を得られて、ひときわ嬉しいことでした。
この記事を書く勇気を持てたのは、ひとえにマサキさんのおかげです。ありがとう。どうかこれからも。

——————–
以前の記事ではこの話題のきっかけとなったものについては伏せていましたが、のちにご本人が言及してくださっていたので紹介することにします。

差別しているわたしがそこにいた – c71の一日

「椎名さんの書いていることがあまり理解できなかった」と正直に書いてくれて、それでもなおセックスワーカーとそこにある問題について考えようとしてくれていること、ありがたく思います。
個人的にお話させていただいた際も「もう間違いたくない、傷つけたくない、正解を知りたい」と言ってくれましたが、しかし当事者のわたしもこのようにもがきあがいているわけで……がっかりさせてしまうかもしれませんが、当事者が答えを持っている、『正しい』考え方を教えてあげられる、というものでは決してないんですよね。少なくともわたしはこんなにグダグダですし、正解、という言葉でまとめて解決できるものだとも、思ってはいません。どんなふうに生きていたい? という問いかけに「これが正しい解答です」を作っては決してならないように。

今回マサキさんやわたしやその他多くの人がこの問題について考えることができたのは、c71さんがわたしに対して、せっかく味方になってあげているのに口答えされるなんて心外だわきまえろ、といった態度(残念なことですが、珍しくないですよね)を取らずに耳を傾け続けてくれる、と信じて指摘するに至れたからです。c71さんにもまた、感謝しています。

「私は偏見などないから差別もしないよ」と宣言してくれる人よりも、「私の言動に偏見を感じたらいつでも教えて」と言って実際に教わり、考え、学びつづける意思を表してくれる人にわたしは安心を感じます。すべての偏見を自覚しているわけじゃない人とでも、話を聞く気持ちを持ってもらえるならばなにか語り合えるかもしれません。
個人の持つ偏見の数をかぞえてその重さを糾弾し合うためではなく、ひとつずつ見つけ解体して手がかりを拾い、お互いが、ひいてはみんながもう少し自由に、楽に話せるようになるためそうしたいのです。もうあとちょっと、いろいろ楽になったっていいと思うもん。

それらはマイノリティとされる人だけが背負う役目ではないと思います。何もかもを当事者性の高い人が担わされるのは無理(負担が大きすぎます)というものですから、さまざまな立場の人が輪になって語らうことになるでしょう。断絶せず一緒にいられるために、マジョリティとしているときのわたしもまた、誰かが「それはそうじゃなくてね……」と教えたい気持ちを持ってくれたときに手のひら返しの恐怖で口を噤ませない、そういう存在でいたいなと思います。

あの歌でしかチューリップ[2]を知らない人が「チューリップってぜんぶ赤か白か黄色のどれかなんだな」と思い込んだとして、それを無知だ愚かだと罵りたくはありません。
ただ、わたしのはこんな色です、とピンク色のチューリップを差し出したとき、「そんなの認められない、作り物だ」とか「私は寛容なので認めたいと思う。大切なのは特殊な例であるという自覚と謙虚さだ」「一般的な3色とは分けて考える必要があるだろう」「赤か白のどちらかを目指す努力もせずに権利ばかりを主張するのはいかがなものか」と言われるのではという恐れが、わたしにこのチューリップを人目から隠させます。
あなたはいつか、わたしの庭でいろんなお花を眺めながら並んで歩いてくれるでしょうか。わたしはあなたのお庭に招いてもらえる人になれるでしょうか。水をあげ続けていればいいのでしょうか。しまわれた球根たちもいつか芽を出す場所を得る日があるでしょうか。春への思いだけが遠くへ飛んでゆきます。

 

ところで上のリンク、わたしの記事のサムネイルが完璧だなー♡

 

  1. 検索したら「ひとり忠臣蔵」でした……ってことは討ち入りシーンとかあったの?見たかった!
  2. チューリップって、花の色や形から大きさから咲き方までものすごーくバリエーションがあり、目にする機会がないわけでもないお花なのでその多様性を多くの人が知っているのに、「チューリップ」とだけ言ったときのイメージはわりと統一されていて、すごい存在だな、ってよく思います。バラもそうですね。
2016-01-08 | カテゴリ: まじめなはなし | |  

 

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