SWの無許可撮影と展示問題

小さな暖炉の前の椅子

ここを読んでくださっている方にはそろそろおなじみ、2014年末のできごと について、当時から尽力してくださっていた方々とお話する嬉しい機会が最近ありました。
いろいろと心の中のものを書き出したのでよい整理になり、ログが流れていくのがもったいないのでここにまとめておきます。

今になってはたと思い至ったのですが、あのとき誰が何をしてくれていたのか、というのが、当時のわたしにはほとんど見えていなかったんです。何らかのかたちで動いていると把握していたのは自分以外にもセックスワーカー(引退後の方を含む)が多く、そのため当事者だけで矢面に立っているかのような心許なさは大きかった。じきに精神的負担の大きさに、もう無理!となり、もっと知りたいことはあるけれど、もう無理だな、という状態でわたし自身はいったん区切りをつけました。それでよいのだと言い聞かせる他なくなった、というか。

アクションを起こしてくださった方がいたことは、知っています。ただ、その後どうなったのかを知る機会がなくて。「知りたいし、言ってくれて大丈夫なので教えてください」とどこへ申し出ていいのかも分からないまま時間が経ってしまったので、それはちょっと気になってはいます。

いま初めて言うことだと思うけど、当時大きなメディアの取材も受けたんですよ。ただ、質問の問いの立て方がもう完全にズレていて(同じ女性としてどう思いますか?とか……)、つくづく悔しくて、一度は断って、でもどうしてもって真剣にお願いされて、そうかここからひとつずつ説明していくしか道はないのか、と思ってできるだけ答えた。絞り出して答えました。これでもけっこうがんばってたんだよー!
……あれは、どうなったのかなあ。実はわかりません。それきり連絡をいただいていないので。

そんなこんなで、あのときのいろいろは確かにわたしからいろいろなものを奪ったのだけど、せめて学んだことというのもいくつもありました。

 

【セックスワーカーへの中傷にもいろんな背景がある】
【それぞれに真意があり、その裏には苦悩がある(こともある)】

性的なアイコンだから、スキャンダラスな存在だから、指をさして蔑んでも世間から非難されにくいのでストレス解消にうってつけ。そういう理由で指をさしてくる人はいて、比較的見えやすい遭いやすい脅威です。だけどそれだけじゃない。
確信を持って「あなたがやっていることは犯罪(※)だ、犯罪者としての自覚を持て」「あなたのような邪な人は社会にとって害悪なので発言するな」と言われることもありました。わたしがひとりの人としてなにかを主張している、まわりがある程度それに耳を傾けている、それは異常事態であり、世の中の秩序を乱していると。彼らの心を乱しているのは「世の中が風俗嬢をひとりの人間として扱うこと」や「性風俗業があること」そのもののようでした。わたしの発した言葉の内容については、あまり関心がないように思えたのです。

性産業に直接関わっていなくとも、それに対する気持ちによって苦しんでいる人がいる。知ってはいたけれどはっきり目で見た、自分に向けられる形で。その経験は重かったです。

(※……この指摘は正しくありません。わたしの仕事は派遣型性風俗店のコンパニオンですが、これは犯罪にあたらないものです。様々な業種の中には現実には違法行為(≠犯罪)とされる可能性を含むものも一部あり、しかしわたし自身は業務の内容によって働く人の権利の部分に差がつけられるべきではない、たとえば所属する店が適法だと証明できた人だけ職業差別から守ってあげましょう、とかそういうのは変だよと思っています。ただここでは「風俗店に勤務すること=犯罪」という認識は誤りである、ということだけしっかり記させてください)

(付け加えるとしたら、あまりに捉え方が雑すぎて「ああ、買売春やセックスワークにまつわる問題についてまじめに議論する気はないのですね」とすぐにわかるような『誤り』ですよね)

この社会にセックスワーカーがいるということ自体に居心地の悪さを感じたり、「私もあなたたちと同じ人間ですけど」と主張する姿や、それが一定の理解をもって取り合われているさまを見て耐え難いにくしみを抱かされる人、ばかやろう調子に乗るな死ね売女(一句詠めました)、と思わずにいられない、言わずにはいられない人というのが確かにいて、一緒に生きている。同じスーパーのレタスの山に手を伸ばしているし、同じ自動改札にピッてしてる。
それはわたしとしてはひたすら怖いことですが、納得もしました。
むき出しの悪意を侮辱的な言葉にのせてぶつける行為自体は嫌悪しつつも、その苦しさ(わたし自身は未体験のものなのに)自体はまるっきり分からないわけではない、そんなふしぎな感覚がしました。
たぶんそれは、そういう憎しみを形成したもの、個人にもたらしたもの、植えつけたものの正体をわたしもなんとなく認識したことがあるから……ではないかと思います。
それらはムクムクと伸び縮みしながら常にわたしたちをまとめて包もうとしますね。

救ってあげたいだとかそんな図々しいことは決して思えないけど、ただその苦痛がせめて無関心になれば楽になれる人がきっとたくさんいるのかもしれない、とは思ってた。
かといって、わたしにできることは何もないのです。悪意から適切な距離を取るための努力だけでいっぱいで、向き合うことはできない。いちいち紐解こうとすると、目の前にある日々の仕事に「やりづらいなー」って気分になってしまって支障が出ちゃいそうで、それがとてもいやでした。

わたしにとって大切なことは、自分の前に来た人になにか少しいいものを持って帰ってもらうこと(ほわっとした言い方ですが決して優しさいっぱい夢いっぱい♡なイメージではなく、まあ一旦そういうことにしておくと個人的に業務がやりやすいのです)。だけどお客さんにも色々な人がいます。有料で性的なケアサービスを受けるということと精神的な折り合いがつかず、性風俗を憎悪しながら性風俗を利用する人も中にはいますし、そこで出会ったコンパニオンの身体はすべて自分の自由にしてよいものと勘違いしている人、わたしのことをなぜか生きている人間ではなくオブジェクトだと思っているかのような危険な人も、稀にはいます。
最大限に身の安全を考え、警戒をしながら、それらをきれいな仕草で完全に包み隠すこともしなくてはならない。その作業に、「これは悪意を向けられて当然の仕事」という意識はものすごく、じゃまです。忘れたふりをしなくてはなりません、けっこう大変です。でも客となった人に精いっぱいのことをする、その人の心身をできる限りかけがえのないものとして優しく扱う時間をつくる、それでしかまた自分の自尊心みたいなものも守られないのです、わたしは。そのためにはやはり、まず自分の心を守らなくてはいけない。

だから、これ以上はやめようと思ってやめました。矢面に立たされたことは仕方ないとして、いつまでもそこにいることないですし、いられないと思いました。もっとできることがあったのでは?と漠然と悔やむ部分もありながら、しかし間違っていたとは思っていません。

……でもね。
でも、問題からうまく距離を取って、矢面からせめてもの安全地帯に退避して心身を守るというその大切なこと不可欠なこと、それって、加害する側のものにとって、とてもとても都合がよいんですよね。静かであるということが、許されているということになる。問題ないものになる。だって誰も文句つけてこないけど?世の中うまく回ってますけど?と言わせてしまうことになる。「そういうもの」であり、正しいということになる。
もともとの関係が対等じゃないから。

 

【では侵害に疲れて抗議をしないでいると、なにが待っているか】
【そこにもまた侵害があるだけ】

それを心底思い知らされるような出来事が、昨年(2016年1月)ありました。たくさんの方が指摘していた通り、これらの件は地続きの問題を含んでいると思います。もうね〜悲しいとか悔しいとか腹が立つとか、そういうののもっと上の言葉はないのかよ!いくつかいい感じのやつ作っておいてよ昔の人!!ってくらい悲しくて悔しくて腹立たしかったです。
今もです。
(この事件のことです – Don’t exploit my anger! わたしの怒りを盗むな

矢面地点からそっと逃げて茂みの陰ですり傷をなめてたら空から巨大な爆弾が落ちてきたぞドーン!ボカーン!!みたいな衝撃でした。おっとわたしがメソメソと傷ついていたあれはいま思えば竹でできたほっそ〜い矢みたいなものだったな!ってなりました。
なんにしてもライフがひとつ減ることに変わりはないんですけど。矢でも死ぬもんね、人は。

 

【専門家への期待は、かなわなかった】

美術館に問い合わせをしたとき、そしてその内容を公開したとき、わたしの心の中には「無知な自分が問題提起をしていいのだろうか」という不安とともに、それを振り払うだけの期待がありました。
こんなことが起こった、困ったことになった、どうしたら……という声をあげれば、んーなんて書くのが正しいのかな、その道に詳しい人たち、専門家の人たち——つまり、普段のお仕事で人権問題や性差別や写真芸術や諸々を取り扱っている方が、その知識でもってなにかヒントを示してくれるんじゃないかって。
わたしはなにも判断ができない、主観による主張しかできない。だけど、セックスワーク当事者にとって切実なこの恐怖や不安を、そうでない人にも想像しやすいように具体的に表現することなら少しできる。「取っ掛かり」になら、なれる。そうすればきっとそれぞれの専門知識がある人が具体的な説明をしてくれて、そしてわたしを含めた大勢の人が新しいことを知り、考えることにつながる。だったら最初の取っ掛かりとなる価値がきっとあるはず。そう思ってた。

でも、そうでも、なかったんですよ。何ひとつ全くなかったとは決して思わないです!でも、思ったよりずっと少なかった。
特に芸術に関わる立場の人(仕事にしている人とか、愛好している人も)が、アートの名誉と言えばいいかな、そういうものを守るために何か話してくれるかもしれないって思っていたんです。人が嫌がることでも何でも芸術と言いふらせばオッケーさ、という考え方ですべてができている業界だと思わないでくれ、という話になるのでは、って思った。
でも、思ったほど、そうでもなかった。
これはわたしが勝手に期待していただけのことで、そうならなかったからといって仕方のないことです。しかしそれだけで済ませてよいものかどうか疑問が残っています。

《わたしの予想に反して彼らのところまで届かず、リアクションを得られなかった》では、ないからです。リアクションはあったのです。

まず聞こえたのは「あの人(ことの発端となったアーティストたち)はそういう人だから仕方がないだろう」というたくさんの声。中には「仕方がないだろ(笑)」というニュアンスのものも見られました。

それって、本当にあの写真を撮った人やワークショップを企画した人が「あの人はああいう人だから、いくら我々が議論をしても無駄骨になるだけだ」と思われていたんじゃなくて……外野から波紋を起こされようとその内容が「セックスワーカー?とやらの、なんか知んないけど人権とか?について、なんやかんや言われてるらしいわ」なら、放っておいても大丈夫、というのに近かったんじゃないかなと思ってます。
脅かされていない名誉は、そりゃあ守る必要ないですよね。だから起こったことを見るよりも先に「ほほう、セックスワーカー自身がみずからの人権を主張する世の中になったとは時代も変わったものですな、興味深い現象ですな」みたいなことを言う人すらいたんだと思う。アートの名誉を守るために自分で動き話すより、その方がかっこ悪くないということなのかな。

そして「いちいち被写体の許可をとっていたら写真表現自体がダメになる」「『倫理的なことを言っても通じない』ことを芸術と呼ぶのだ、認識を改めろ」という意見もありました。後者は美術家の方から直接わたしに向けて届けられた言葉のひとつです。
さびしかったです。それで、ああ、わたしは何か期待をしていたんだな、と思って、もうやめよう、二度と自分以外に期待なんかしない、するもんかい、ってちょっと思った。
(すぐやめたけど。それは自分だけでもそこそこのことができる見込みのある人が言うことだもんね。わたしは誰かと協力しないとなんにもできないので、やっぱりこれからも相手を選びながらちょびっとこっそり期待はしそうです。だめなら落ち込み、かなえば喜び、で生きていきそうです)

 

【終わった話、にならない理由】

わたしはメールフォームをオープンにしているので時々おたよりをいただくんですけど、あの件に関して何かを書いてくれる人が、まだ、いらっしゃるんですよ。2016年でもまだいくつかいただきました。そしてそういうときって必ず「終わった話を蒸し返して申し訳ないんですが」って書いてくれてるんですよね。ふふ。
やだー終わってないよ!!あなたがあなたの中に生まれたことをそうやって書いて、わたしに送ってくれたって以上、それが続いてるってことそのものだよ。っていつも思ってます。蒸し返してわるいかな、なんて思わないでください、大丈夫です。ずっととろ火がついてるのでいつでも蒸したてふかふかだよ。

わたしのツイッターをずっと読んでくださってる人はぴんと来ると思うのだけど、昨年の春には、社会学におけるフィールドワーク、の名でひどいことをしたり書いたりされたこともありましたね。あのときメールくれた人もいた。わたしがリプライを送って、お返事してもらえなくて、それを見ていてくれた人。何も出来ないけど確かに見ました、と言ってくれた。
ありがとう。あれうれしかったです。
それから、わたしの文章を読んでいるうちに「突破口が見えた」って書いてくれたひともいた、これはもう、うんとうれしかった、セックスワークを考えるにあたっての誠実な姿勢が文面から伝わってきて、本当にうれしかったです。自分を疑ってくれているあなたをわたしは信じます。思いがけずこんなところでお返事してごめんなさい。

そりゃあ……「終わった話」にできたら、すごくいいですよ。そういう時代がかつてあった、まともに話も聞いてもらえなくて当然なころもあったのよ、って昔話にできる日がくればいい。でも今は、そんな景色はとても見えない。

つい最近になって、東京都立写真美術館の方とお話する機会を持ってくれた方がいらっしゃいました。
お話してくれた学芸員さんによると、写真家本人から美術館に対し、謝罪の言葉があったそうです。そしてそれは美術館に対する謝罪ではなく、この件で不快に思った方全体に対する謝罪であった、と。
ならばなぜその「全体に対する謝罪」を美術館に向かって行うのか、わかりません。今日までわたしが知らずにいたのかと思っていちおう探してみたのですが、ご自身のブログで一度釈明(わたしはあれを謝罪ではなく釈明、もっといえば弁解だと受け取っています)された文章以外には見つかりませんでした。
たぶん、なにがまずかったのか、どういった点が批判されてしまったのか、今でもはっきりとは認識されていないんじゃないかな、でも形式的にでも謝らないとまずい状況に追い込まれてしまったのかも、と個人的には思っています。
わたし自身は彼から謝ってもらうべき者ではないので、「あいつがあやまるまでおこるぞプン!」みたいな気持ちではない(そう思ってる人もいそうですが、ちがいますよ)ですし、仮に彼が認識を改めたとすればすべてが解決するかというとそれも違います。そういうことでも全然ないです。
(まるっきりどうでもいい、ということではなくて、一部のエリアで失われたかもしれない彼の名誉や信用がこの先挽回される機会が全くなくてかまわない、というふうには思っていません)

ただ、このままだと別の人たちによって同じようなことが何度でも起きることは十分考えられるし、それを避けようとして短絡的な方向に向かう(たとえば性的なニュアンスの濃い作品がとりあえずやたら疎まれるとか)(セックスワーカーの存在を単なるめんどくさいタブーとして隔離するとか)(権威のないアーティストたちが理不尽な制約を課されるとか、いろいろ)のはいやだな、とかは思っています。

わたしにできることがまだあるのかどうか分かりません。
でも、ちょっとあるかもしれない、と思いながらずっと考え続けます。こうしてブログに書くことも「これにて終わりです」とはずっと言わないだろうと思っています。セックスワーク自体をいつか引退するとして、それで終わりにもならない。
そう、本当は終わりにできたらいい、だけど、いまは終わらせるわけにいかない。終わらせてなんかやるもんですか。
いつかのいつかには本当に終わらせなくちゃならない、そのために、わたしたち(って言ってもいいよね?)は続けます。
探し続けます。
細々と、しつこく、できるだけ明るく、できるだけしぶとく。あなたにもいつでもきてほしいです。胸から抜いた矢を暖炉にくべてお待ちしております。とても小さな部屋ですがなぜか無限に椅子が置けます。おやつにお芋も焼いてます。

2017-02-23 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

ひとつくさってふたつ芽吹いて

東京都写真美術館の一件から、半年以上が過ぎました。

担当者の方から複数回お返事をいただけましたが、当時わたしは疲れ果てており、改めて報告のような形をとりませんでした。本当はそうするべきでしたが、お返事を受け取ったということ以上にはもう何も言えませんでした。
それよりも少し前に、今までは批判する人さえほとんどいなかったことを問題視する契機を作り出したことであなたはもう十分役割を果たしています、と松沢呉一さんに声をかけていただいたのをきっかけに、ああもう何もできないけどそれでいい、今やるべきことは自分の心身を守ることだ、と思うに至っていたのです。
(松沢さんからは個人的なねぎらいの言葉としても、また連載されているウェブマガジンで当時の記事内容からもたくさんの得がたい視点や導き、また励ましをいただき感謝しています)

時間が経ってしまいましたが、いただいたお返事は主にこのようなものでした。

  • 本来は撮影OKの店ではないことは、作家本人から企画者に語られていた
  • しかし、そこで撮影されたのが作家が無断で強行に及んだゆえであったことを把握していなかった
    そのため当時倫理的な懸念を持つに至らなかった
  • 展示当時、お客様から疑問視するご意見もなかった
  • しかし事実があのようなものであるなら主催者として大変に遺憾である
    椎名さんに不安な気持ちを味わわせた事実とお伝えいただいたご意見を重く受け止める
  • 作家に対しては撮影手法について慎重に対応すべきであったと申し入れた
  • 展示の可能性がある作品に倫理・人道上の問題や、特定の個人を傷つける恐れのある場合は、当事者の立場に立った最善の対応に努めたい

結果的に皆様に不快をもたらしたなら遺憾です、というよく見るあれではなくて、椎名さんを不安にさせました、とはっきり言ってくれたことがわたしを安堵させました。送ったものの内容は読まれた、と思えましたし、身も蓋もないような表現をすると、少なくとも言葉の上で、性風俗業に従事していない人と同等の扱いを受けた、と思えたのです。その気持ちがどんなものかは、伝わりにくいかもしれません。そうですね、たとえば「被害者がホステスや風俗嬢であったことが加害者の罪の重さに影響した判例がある」とか、そういう事実(そう、事実です)(影響、の方向はご想像の通りです)(歴史上の話、ではありません)に思いを馳せていただくとちょっとは想像しやすくなる……かもしれないです。

それからもしばらくは、写美の学芸員の方がお書きになった本を読んだりしながら緩やかに長いこと考えていました。そしてやがて「これからも行きたい展示があれば美術館に足を運ぼう」「わたしを傷つける存在としてそれを避けたり諦めるのは早い」「こういった問題はこの先も考え続けられるべきだが、そのために本件にこれ以上に追及するべきものがあるのだとしても、それはわたしが背負うものではない、これ以上は背負えない」という気持ちにたどり着きました。
それから、もしまたどこかで同じように特定の職業の人を不安に陥れるような脅威があったなら、その相手が公共の施設であっても「自分は世間から後ろ指をさされかねない人間だから」と顔を覆って閉じこもらず、勇気を出して声をかけられるといいな、と。それが今のところのわたしの気持ちです。解決しましたとは言うつもりもなければわたしがそんなことを言える筋合いも全くありませんので、その点は誤解なさいませんよう念のためお願いいたします。

 

さて、ゲストブックをどうしたものかしら、としばらく考えていました。

いつの間にか偏見発表会(無自覚部門も開催だよ!)みたいになっちゃってるところがあり、わたし以外の方の目に触れさせても不毛かな、と思って。
いつまでこんなこと続くのかしら。きっと、いつまでもでしょうね。

今もなお「感情的でない」という理由で誉められたりすることがちらほらあり、わたしはその表現に接するたびに嫌悪感を抱きます。
わたしの書いたものたちは感情のかたまりであったはずです。必死で自分の感情についてお話しさせてもらったんですのに? と。

「感情的」という言葉は「激しくヒステリック」「取り乱していて見るに堪えない」みたいな意味で使われているのでしょう。つまり「あなたは興奮した様子じゃありませんね。だから支持します」「あなたの喋りはみっともなくないので、聞くに値すると思います」そういうことなのでしょうか。彼らはこの思いの何を受け取ってくれたのでしょう、わたしは安心することができません。

その一方で「感情論に終始しており冷静な意見とは言えない」「重大な犯罪でもない話に感情を持ち込んでぎゃあぎゃあと」「これだから女はみっともない」とも同時に言われるわけです。彼らが話を聞いてくれるように思いを伝えることはとても難しく(なんせ「思い」ですから)、わたしの能力ではできません。

感情というものがなぜ、このように嫌われ、避けられるのでしょう。誰も逃れられないはずのものなのに。
感情を存在させた瞬間に論理が、その正当性が即座に失われるかのように言われることさえもありますが、本当にそうなんでしょうか。同時には存在できないものなのかしら。

感情を抑えた話し合いが必要な場面はいっぱいありますね。個人の感情を持ち出すとにっちもさっちもいかなくなったりして。
でも、あの時のわたしの行為は「写真をはじめとした芸術表現にまつわる有意義な議論を交わす任務を自ら買って出た」ようなものではなかったです。「この展示がわたし(を含む性労働者)の人権を損なう可能性、それを見てください、それがそこにあると言ってくれますか、と訴えかけた」つもりのものです(マッドマックスみたいになっちゃった)。
それが結果的に知識ある方によって有意義な議論となり、その種のひとつぶとなれるなら幸いではあるけれど……と思いながら、わたしはわたし自身の持つ権利に限って主張するよう心がけました。芸術を知らない、法律を知らない、タイという国のことも知らないわたしがせめてどなたにも失礼にならない誠実な態度で公共の場に意見を述べるには、そうあるべきだと考えたからです。
わたしがわたしの話をするのです、わたしの話せるように話す以外ありません。

その内容を「この女は感情的か否か」という基準で査定しようとやって来る人々が望んでいるものは果たしてなんなのだろう、どんな理想のもとに行われる裁きなのだろうと考えますが、やはり難しいです。途方に暮れるばかりで答えは見つかりません。

 

一切の感情表現をせずに事実だけを並べたものと比べて気持ちの話に触れたものは劣っているのだ、冷静に俯瞰で中立から物事を論じるのが知的な態度であり感情を口にする者は幼稚で愚かだ、という雰囲気、なんとなく感じたことがありませんか。それこそが何らかの感情に振り回された結果のようにわたしには思えてならないのです。「中立」や「冷静」「論理的」に憧れて、ははんそれじゃダメだねと丘の上から品評する態度のほうがよほど幼稚で臆病なものではないだろうか、と。
そのような振る舞いは、いずれどんなところへ行き着くのでしょう。少なくとも実りある対話を目指す意思は伝わってきません。

他人の目に触れるSNS上で行われるものに限って言えば、自分とはあまりに関係ない世界の人間の話だという認識のもと、安全な場所からあれこれ論じる賢さのパフォーマンス、知性のアピールの題材とするに適したテーマだぞ、と見い出されたのかもしれない、と思います。
また、「おおなんと現役の風俗嬢が!差別されながら頑張る珍しくて健気なこの子の声を聞きやがれインテリ野郎ども!」みたいなおめでたい引っかき回し(最低ですね、でも見ました)と一緒にされたくない気持ちからのことかもしれません。「こんなきっかけで自らについてマジメに振り返るなんて、日頃物事を考えてもおらずセンセーショナルなものにすぐほだされる感傷的な甘ちゃん」「憤ってみせるなんて、私は女性に優しいのですアピールかよ」というレッテルを貼って回る人(これらも最低ですね、でも見ました)から逃れたい気持ちのあまり、わたし個人の存在を軽く見積もり切って捨て、あらかじめ周囲にアピールしておくに至った、そんなような心の動きもあるかもしれません。

もしかしてそんな感じなのかな、と思わされたケース、ちょっとありました。
そうして自分を守ろうとするのも、また感情のひとつです。でも彼らが怖いのなら(それは実際確かにとても怖いものです、わたしも心から怖れます)、せめて黙っていることができるのに。
自分自身の持つ知性を粗末に扱うかのような行いだと思いますし、いつでもそうしていると自尊心というか、なにか元気の素みたいなものがこわれてしまいそうです。

 

美術館に対する恐れがいくぶん解消されたのと同時に発信し続ける気力がすっかり尽きたために、わたしは以後この件をテーマとして何か書いたりはしていません。ある著名な方に、彼の登壇したトークイベントで「タイの売春婦と自分は同じ、と言い代弁するのは良くない」とご批判を受けた際には匿名の攻撃的なメールが増えて辟易しましたが、そのままにしてしまいました。
(今なら少しは言葉が出ます。「わたしもタイのセックスワーカーと同じです」と言うことと「あなたはわたしをかつてのタイのセックスワーカーにしたのと同じように扱うつもりがありますか?」と問いかけることはわたしにとって全く違うつもりでいましたが、伝え方が間違っていたでしょうか、と。しかし彼がわたしを「最強の弱者」「厄介」と表現なさった文を読むと、教えを請うたとしてただのご迷惑にしかならなかったでしょうから、黙っていてよかったと今は思っています。)
また先ほども書きましたが、美術館に対するわだかまりも現在特に大きなものを抱えているわけではありません。ゲストブック上やメールで時々ご意見が送られてくること以外は、わたしはあの頃の騒がしさから、おおむね離れることができています。

でも、最初のメールを書いたあのときの気持ち——写真家でも美術館でもないもっと大勢の他人に対して感じた抗えない巨大な恐怖(当時は「4への気持ち」と名前をつけていましたね)——が消えてなくなったわけではありません。そこから離れることはできません。だから、完全に口を閉ざすこともできないのですが、恐怖について語る限りこれからも時には小石が飛んでくるんだなあと思うと、そりゃあ、少しは憂鬱です。

こころよくない感情は、それが自分に向けられたものではなくても気持ちのいいものではないでしょう。わたしもそうです。
ですがそれを持ち表明する権利は誰にでもあって、それはとても大切なものです(それで他人の権利をおかすならもちろん制限されるべきだと思いますが、今回わたしはそのような間違いを犯してはいないはずですので、失敗だのと言われる筋合いはないでしょう)。

そういった類の感情はどうしてか、持たないことや隠すことが美徳のように扱われることがありますね。でも決して無かったことにして良いものではないはずです。見物客の他人がそう促しねじ曲げるなんてもってのほかです。それはその人の尊厳とぴったりくっついていますもの。
表し方をああだこうだと取り上げて当然のように査定し、やれ感情的だの冷静だの、ほめてみたりけなしてみたり、どちらからの言葉もわたしにとっては同じです。それなのに心の表面をジャリジャリと傷つけてゆくので困ったものです。

 

「冷静でイイね」「感情的でダメだね」「優しすぎ」「生意気」「チェンジw」「こういう女の鼻をへし折ると興奮する」「風俗嬢は天使」「売春婦が人権を主張するなんて嫌な世の中」「早く結婚すればいい」「早く死ねばいい」「あなたなら差別しませんので頑張れ」「で、美人なの?」
励ましでも寄り添いでも叱咤でもない、ご指導でもご鞭撻でもない、敬意も礼儀も省かれた品評、採点、嘲笑。それを広く発信する、あまつさえわたし本人の元へと届ける行為はなんのためなのでしょう。あなたがわたしをどう思うかなんて、わたしばかりかこの世の誰の役にも立たない。なぜそのとき話し合われている問題ではなくわたしばかりを見るのでしょう、論じるのでしょう。……まさか不器用な愛の表現? なわけないよね。万が一愛ゆえの行いだとしても破壊を伴うと効率が悪い、ということは既に先人が指摘している(*) 通りです。
問題に関するあなたの思いを、心に生まれたものを、あなたはどう考えたのかを語ってくだされば、少なくとも「椎名こゆりクロスレビュー大会」よりはよほど道が開けるはずなのに。あなたの好むであろう「冷静で論理的な態度」にだってよほど近いのに。
それは、おいやですか。わたしと話したくなんかなくていいんです、あなたの心に、好きな人に、もしくはまだ出会っていない人に向けて語りかけることは、世界とあなたの役に少しも立ちませんか。

 

あ、そうだった。ゲストブックをどうしよう、と思っていたんです。
「はあ、こういった属性の人がこのような思いをこんな感じに発信するとこういう風に言われたりするんだなあ」という資料的な価値(というと何でもちょっとよいもののように思えるので好きな言葉です)というか、なにかを考える際の材料となりそうな気もしますしので、今はそのままにしようかな、と思います。今回はたまたま「風俗嬢」という属性のお話ですが、こういうのって一事が万事で、どなたにも同じようなことは起こります。起こらないよ、と思ってもすこし辺りを見渡せば、無視できない距離の場所で起こっているものでしょうから。

どうぞこれからもお気軽に書いてください。

 

そして何度も言いますけれど(何度でも言わなくてはなりません)、
わたし以外の性労働者に対するご自身の見方を省みたと言ってくれた方、売春によって糧を得た過去をご自身の中でどう扱うかという問題に勇気を持つことにしたと語ってくれた方、暴力に対する恐怖と、自分もまた無自覚に暴力の側に立ってしまう可能性への恐怖について考えたと言ってくれた方、そのように感情にあふれた理性的なお話を伝えてきてくださった方々もたくさんいらっしゃいました。すべてにお返事をすることができませんでしたが、わたしの心の奥深いところをそっと撫でてもらったと感じています。心の奥にある掲示板はそれらの力強い言葉で埋め尽くされ、今もなお支えられていますし、感謝しています。

 

あのときわたしが書いたものはすべて、長たらしく言葉を重ねた悲鳴でした。冗長で言葉の多い、嗚咽でした。

空の下にきょうも、大きな小さなさまざまな声があります。明日もあさっても。
声をあげたことでわたしは消費され、確かに何かを失いました。でも、植わった種もあったのではないかと自分に言い聞かせています。水のある場所に落ちた種もあったと。
わたしの声を聞きつけてとにかく手を差し出してくださった他人がそこに何人もいた。語ってくださった感情がわたしを支えた。この先も自分の感情を語り表す勇気を持ち続けていられるよう、このことを思い出しながら心を守り保っていられればと強く思います。それはきっとわたしが誰かに手を差し出す側となったときの力ともなるものでしょうね。
そうしてあなたとわたしの感情はいつかさらに強い形で支え合えるかもしれません。その芽吹きが、嘲笑の小石飛び交う中のことでなければ、ずっと素敵なのだけど。

 

長いエントリをお読みくださりありがとうございました。

 

えっこんなにいっぱいあるの……(これで全部じゃないんだよぜんぜん)(あともう4倍くらいあった)。
めちゃめちゃ愛されてるねこの曲!!

 

 


このエントリを読んで当時のことに興味を持ち知りたいと思ってくださる方もいらっしゃるかもしれませんので、どのようなことがあったのかだいたいわかるように簡単にリンクをまとめました
本文中に書きましたことをご理解くださいますようお願いいたします
東京都写真美術館にて過去に展示された作品の撮影手法に関する問題が取りざたされた際、ネット上で起こったことの簡単な記録(2014年12月〜)

2015-08-12 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

東京都写真美術館にて過去に展示された作品の撮影手法に関する問題が取りざたされた際、ネット上で起こったことの簡単な記録(2014年12月〜)

後からこの件についてお知りになりたい方のためのとても簡単なリンク集です
とてもすべてを網羅していませんが、お探しになるとさらに情報が得られることでしょう


2014年末、Twitterでこの記事が話題になった
男女300人の絡みを撮影…知性と理性を吹っ飛ばせて見えた境地とは【大橋仁 INTERVIEW】

話題になった、の具体的な様子はtogetterなどにも残っていると思うので興味のある方は検索すると見ることができます
またこの件はタイのセックスワーカーNGOであるEmpowerに報告されました

問題視されたのは2007年に催された写真展、そのプレスリリース
東京都写真美術館プレスリリース 日本の新進作家 VOL.6:スティル/アライヴ

撮影者の大橋仁氏がブログ上で弁明と謝罪、また当該作品について新たな展示や掲載を差し控える意向を表明
メッセージ(2015.01.08)

美術館に対応を求める署名運動も起こった
大橋仁氏のセックスワーカー無許可撮影展示について正規の対応を求めます。(2015.01.12)


このサイト上で起こったこと

冒頭にあげたインタビュー記事を読んで美術館にメールを送った
東京都写真美術館に送付したメールの内容(2014.12.25)

上記記事がニュースサイトに取り上げられたりしてたくさんのアクセスがあり(バズるって言うんですか)寄せられたご意見、ご感想、何らかの叫びなど
ご報告とわたしの気持ち 〔1〕 〔2〕(2014.12.30)
ヨンへの気持ち 〔1〕 〔2〕(2015.01.16)

すこし時が過ぎて
ひとつくさってふたつ芽吹いて
(2015.08.12)


当時励まされたブログ記事(ありがとうございました)
人権侵害に言い訳はない(2015.01.08)- c71の一日

この問題を長く取り上げたウェブマガジン – 松沢呉一のビバノン・ライフ
たとえばこの件に関心を持ったり恐怖を感じた方、とくに同業種の方たちには、自分を強くするために役立つ世界が開けるのではと思うのでおすすめします(一部は有料です)
娼婦の無許可撮影をするゲス写真家は今に始まったことではない-『危険な毒花』と『月蝕』 [娼婦の無許可撮影を考える 1 ]

カフェー女給と娼妓の写真に見るモラル・・・ 昭和の肖像権を検証する [娼婦の無許可撮影を考える 2 

娼婦の無許可撮影を許したのは、この社会の「良識」だった [娼婦の無許可撮影を考える 3 ]

大橋仁の釈明と「モラル」について [娼婦の無許可撮影を考える 4 ]

大橋仁問題に見られる手続論と作品論の混同 [娼婦の無許可撮影を考える 5 ]

セックスワーカーの人権侵害をする女たち [娼婦の無許可撮影を考える 8 ]

女王様インタビューの捏造疑惑 [娼婦の無許可撮影を考える 9 ]

セックスワークという言葉を使う事情 [娼婦の無許可撮影を考える 10 ]

「廃墟写真事件」に見る法とモラルの境界線- 風景写真の著作権 2

日テレの内定取消の背景にある語られない差別意識 ・・・そして売春差別と従軍慰安婦問題

桑田佳祐の謝罪に思うこと-勝手に期待して勝手に失望するな

2015-02-21 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

ヨンへの気持ち〔2〕

〔1〕のつづき。
東京都写真美術館は、わたしが送ったのと同じ通数のメールを返してくださっています。
お返事をくださる、ということだけで少なくとも「無視するつもりはありません」というメッセージだけは、しっかりと受け取っています。公共機関がわたしを無視しないってことが、たったそれだけの普通のことがなんでこんなに泣けるくらい身にしみるのか。さあー、どうしてでしょうねえ(相棒の右京さんみたいに読んでほしい)。


東京都写真美術館の責任範囲- [娼婦の無許可撮影を考える 7 ] 松沢呉一のビバノン・ライフ

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今のわたしは、この記事に書かれていることについてああ、そうだ、そうだなあ!と思って考えているところです。特に2についてはまったく考えが及んでいませんでした、思いつけなかった。わたしにとって美術館というのはとても大きな存在で、そこへ働きかければわたしの見ている4について何か変わるんじゃないかみたいなイメージを持ってしまってたんですけど、そうとは言えないと学びました。3については、なんていうか、4への気持ちそのものですよね……(これまでを読んでいる方にしか分からない書き方ですみません)こうして自分以外のひとの言葉で目の前に出てくると、本当に弱い。苦しくなります。4はわたしにすごく強くて、ちょっと睨まれただけでもう竦んでしまう。

「芸術だからといってこれは行き過ぎですよ!これだから芸術なんかやってる男はダメなんですよ云々」とわたしに言ってきてくれた方は何人かいらっしゃいました。でも、その「これは行き過ぎ」って誰がどうやって判定しているものなのか。
例の写真が展示された当時、美術館には意見が寄せられなかったそうですね。「行きすぎた行為」だとは誰も言わなかったわけです。「これだから芸術家は」の問題だとはわたしは思わないです。
(ただ、観賞しに来たお客さんが美術館に対して何か意見することは困難だろうとも思います。それから、これは友人と話していて気づかされたことなんだけど、関係者だからこそ指摘できない、っていうこともきっとありますね)
展示に際してはおそらく大橋氏の手によってアンケートボックスが設置されていてそこには否定的な意見もあったようですが、これが何に対するものであるかは今のところわかりません。「ものすごく怒ってるのもあった」という言葉に、誰かが指摘してくれていたかもしれない……と思うとささやかな希望が胸に灯ります。しかし直後の「面白かったよ」が同時に目に入ってあっという間に消えちゃいそうになるので、風よけの囲いが必要です。

——そうそう、あれが2007年! たしか、展示スペースにアンケートボックスが置いてあって。自分も感想、書きましたよ。

ホント? 嬉しい嬉しい。最終的に、2、300枚かな。けっこうな数が集まって。写美がアンケートボックスの設置を認めてくれたのも大きかったね。老若男女が書いてくれたよ。ものすごく怒ってるのもあったし、ただ『ウンコ!』とだけ書いてあるヤツとか。オレの意図を理解してくれた人もいたし、色んな意見をもらえたね。面白かったよ。

——大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。 | TOMO KOSUGA – Part 2

松沢呉一さんの「セックスワークを考える – 娼婦の無許可撮影を考える」シリーズは、この問題を考えたい人すべてに読まれるべきことがたくさん書いてあって、特にわたしとしては「これだから芸術なんかやってる男はダメなんですよ」とか思っている人の目に入るといいなあと思っています。あと「芸術は全て犯罪だからあきらめろ」とか「勝手にタイ人のセクシャルワーカーを代弁するな」とか「あなたのように自分の意見を持っている風俗嬢なら尊敬しますよ」とか。そうやってわたし(たち)の4への気持ちを見ない振りする人、見ない振りでこれからもやっていくべき、それが結局は全員にとって幸せだ、と思っている人に。

一部は有料ですが、分厚くない文庫本一冊ぶんくらいの値段です。10冊買ってもなかなか得られない気持ちを得ることができたのでわたしはとても買ってよかった。

 

もう何年も前だけど、源氏名が「ナナ」だったことがあります。
そのお店はわりとあっという間に潰れてしまいました。お給料は安いし駅から歩くしホテルも遠いし女の子は数える程しかおらずそれなのにタオルは常に足りないし(つまり隅から隅まで資金力がなかったのですね)という店でしたが、待機室(兼事務所、兼撮影スタジオの狭い部屋)になんとこたつがあった。いかにも旧式の、あちこち塗装が剥げている大きめのこたつ。仕事を終えて疲れ果て、ここで一休みしているうちに眠り込んでしまう、という形の「店泊」をしょっちゅうしている女の子がいました。
わたしがコートを着て帰ろうとしていると「奈々ちゃん、帰るの、お疲れ、またね、気をつけてね、またねえ」と、3割は夢の中みたいな声で言って。玄関でブーツをはいてもう一度振り返ると、こたつ布団に埋もれたまま1円にもならないはずの笑顔をちゃんと作って手を振ってくれていた。

一度くらい一緒にお泊まりしたらよかったよ。一緒にこたつで寝て、遠慮してちょっと浅く体勢をとったりして、次の日には若干頭が痛くなったりすればよかったよ。

 

ナナへの気持ちナナへの気持ち

収録アルバム:インディゴ地平線
2012/7/11 | フォーマット: MP3

 

2015-01-16 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

ヨンへの気持ち〔1〕

去年最後にした買い物は、中村珍さんの漫画でした。
今年最初にした買い物は、久保みねヒャダこじらせナイトのスタンプでした。
充実の自宅バカンスが伺えますね。すばらしいです。kindle本もいっぱい買った。
抹茶ババロアをまた作ろうと思ったら抹茶が全然足りなくてしかたなく黒ごまババロアにしてみたり、
「さらば恋人」の2番の歌い出しをど忘れして気持ちが悪いので大至急検索してくれというマミさんの要求に応じたり、その流れでYouTubeに半日を捧げたり、
おそらく泥酔したお客さんからのまったく意味がわからないが全編赤ちゃん言葉なメールをシカトしたり、翌朝に「すまん!一生の不覚!忘れてくれ!」と来たので「なんのことでちゅか♡」と返信してあげたり、そんなふうにして過ごしたお正月でした。

前回書いたこれこれその前ほどじゃないけれど反響が大きくて、いろいろなご感想を読みました。

その中には、読んで気分が悪くなった、というものもあって、それはわたしへ向けられた言葉たちがあまりに暴力的なために見ていて辛くなったり、途中で読めなくなったり、過去に同じような目に遭った記憶が甦ってしまったり、というものでした。

胸が痛くなりました。
ごめんなさい。

そのまま載せることはわたしも憚られて、それであんなふうに口調だけでもととのえてお見せしたのだけど、それでもやっぱり重いものに変わりはないし、ショックを与えてしまったことがとても苦しいです。

ああいうの、わたしが慣れているとは言わないけれど(慣れられるものとは思わないし)、セックスワーカーがなんか言った時あるある、なんです。わたしとしては「このアプローチは初めて見たなあ」というものはなかった。

セックスワーカーとして発言した人間がそのあと目にする風景を少しだけ公開したい、そんな気持ちがありました。嫌悪する人がいる、発言の内容ではないところに罵詈雑言をぶつけたり、自分の無知をはばかることなく掲げながら何もかも説明しろと甘えてくる人にしばしば遭遇する、という現実を示したかった。それはなぜなのか?ってことを考えてもらえたらいいなと思うから。それはセックスワーカーではない人を助けることにもつながるのではないかしらと思っているから。よく書いてるけど。
だから、罵詈雑言に分類されるようなものも、わたしのメールボックスに人知れず埋もれたのち消去される運命をたどる前に一度くらいは白日の下に晒されてみていいと思ったの。
でもそれだけでは「わたしたちはみんなをムカつかせる日陰者、自分の意見を持つべきでない」という結論になりかねないから、返事もした。拳の代わりにわたしを殴るためだけのツールだったかもしれない言葉を、でもどこまでもあくまでも言葉として受取り言葉を返信することで、わたしたちは罵られてしかるべき存在ではないよ、と言いたかった。

そうしたら、見ず知らずの優しい方はもちろん、わたしをよく知っているひと、会ってお茶を飲んだり日頃仲良くしてくれているお友達には特に大きなショックを与えることになってしまい、本当に申し訳なかったと思っています。ごめんね。超ごめん。

 

それから、「丁寧に答えないでちゃんと怒ればいいのに」っていうのも、ありました。

もっと感情をあらわにぶちキレてくれればいいのにそうでないから読んでいて辛い、とか(気持ちはわかる)丁寧に答えると相手は調子に乗るぞ、とか、こういう姿勢をよしとすると暴言を受けている側にどこまでも毅然とした態度を求める風潮を後押ししてよくない、筋の通っていない悪口を取り合ってはいけない、とか。

耳が痛いです。でもね。

なんでもいいからストレスを解消したいだけで、でも目の前に殴ってもよいものが見当たらないのでさし当たり目に付いたこの女をバカにしよう、って感じのもの、あまりにも意味を持っていなさすぎて返事ができないようなものはね、あれでも一応省いたんです。
「ご臨終になられてはいかがでしょう」これもけっこう迷いました、原文はご想像の通りで、ほんとにただ手軽な暴言をぶつけてきただけなんだろうなと思う。でもそんな言葉にもお返事する形をとったのは、それを通して何かを表せそうな気がしたからです。おい「られそうな」とか「気がした」じゃ意味ねえんだよ寝ぼけてないではっきり言えよ。といま非常に思いましたのでこれから書きます。

どんなに汚い言葉を投げつけられても、わたしたちは対等な存在同士です。
言った人がいて、言われた人がいて、ふたりは同じ人間です。対等なままであり続けます。
激しい言葉で罵れば、一時的に気力を失わせ黙らせることはできるかもしれない。でも、口を塞げたからといってその言葉が正しいことになるわけではありません。ある言葉でもって相手の心を完璧に踏みにじることに成功したとしても、それを投げつけた人が格上だということではありません。

そういうようなことを言いたかった。投げつけられてしまう側の人に言いたかった。
誰のどれほどの悪意を持ってしても決して覆せないはずのものを、わたしたちの誰しもがあらかじめ持っている。

「差別発言を放つ者たちを広い心で受け容れ、赦している」という主旨でわたしを、おそらくはほめようとした方がいらっしゃいました。しかしこれはいけません。
とんでもないことです。穿った見方で恐縮ですが、わたしを美化し天使的ポジションにおくことで発言者を迷える子羊にして責任をうやむやにして話をまとめようったってそうはいかないぞ。
売春婦に人権なんかねーよ死ね。そんな言葉を広い心で受け容れることなどできやしません。わたしにそんな慈悲の力などありはしません。「殴られている」と「拳を受け容れている」は全然ちがいます。わたしたちは同じ人間で対等だと言いましたが、同じ重さの人権を持っていても行いの貴賎には差が出ます。この発言をわたしにぶつける行いは愚劣です。ただ、わたしに死ねと言った人は別の場所では死ねと言われる人であるかもしれないな、とぼんやり思う、思うだけです。

もちろんはげましのおたよりもあり、全部読ませていただいています。ありがとうございました。

今回のいろいろにおいて、最もわたしを動かしているのはここで挙げた 「4)」なんです。自分でも思い知りました。いちばん深くて、いちばん口にしにくい4への気持ち。
4について何かを表明している人は少ない。たとえば今度のことで「負けないでがんばってください!」と言ってくださる方はいても、4にまつわることにふれた言葉は極端に少なかったです。それが不満だ見て見ぬふりだ、というのもちょっとちがいます。だって4に対してかける言葉、あまりなさそうだから。わたしも大した言葉を持っていません。

長すぎるので分けます。〔2〕につづきます。

2015-01-16 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

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