SWの無許可撮影と展示問題

ひとつくさってふたつ芽吹いて

東京都写真美術館の一件から、半年以上が過ぎました。

担当者の方から複数回お返事をいただけましたが、当時わたしは疲れ果てており、改めて報告のような形をとりませんでした。本当はそうするべきでしたが、お返事を受け取ったということ以上にはもう何も言えませんでした。
それよりも少し前に、今までは批判する人さえほとんどいなかったことを問題視する契機を作り出したことであなたはもう十分役割を果たしています、と松沢呉一さんに声をかけていただいたのをきっかけに、ああもう何もできないけどそれでいい、今やるべきことは自分の心身を守ることだ、と思うに至っていたのです。
(松沢さんからは個人的なねぎらいの言葉としても、また連載されているウェブマガジンで当時の記事内容からもたくさんの得がたい視点や導き、また励ましをいただき感謝しています)

時間が経ってしまいましたが、いただいたお返事は主にこのようなものでした。

  • 本来は撮影OKの店ではないことは、作家本人から企画者に語られていた
  • しかし、そこで撮影されたのが作家が無断で強行に及んだゆえであったことを把握していなかった
    そのため当時倫理的な懸念を持つに至らなかった
  • 展示当時、お客様から疑問視するご意見もなかった
  • しかし事実があのようなものであるなら主催者として大変に遺憾である
    椎名さんに不安な気持ちを味わわせた事実とお伝えいただいたご意見を重く受け止める
  • 作家に対しては撮影手法について慎重に対応すべきであったと申し入れた
  • 展示の可能性がある作品に倫理・人道上の問題や、特定の個人を傷つける恐れのある場合は、当事者の立場に立った最善の対応に努めたい

結果的に皆様に不快をもたらしたなら遺憾です、というよく見るあれではなくて、椎名さんを不安にさせました、とはっきり言ってくれたことがわたしを安堵させました。送ったものの内容は読まれた、と思えましたし、身も蓋もないような表現をすると、少なくとも言葉の上で、性風俗業に従事していない人と同等の扱いを受けた、と思えたのです。その気持ちがどんなものかは、伝わりにくいかもしれません。そうですね、たとえば「被害者がホステスや風俗嬢であったことが加害者の罪の重さに影響した判例がある」とか、そういう事実(そう、事実です)(影響、の方向はご想像の通りです)(歴史上の話、ではありません)に思いを馳せていただくとちょっとは想像しやすくなる……かもしれないです。

それからもしばらくは、写美の学芸員の方がお書きになった本を読んだりしながら緩やかに長いこと考えていました。そしてやがて「これからも行きたい展示があれば美術館に足を運ぼう」「わたしを傷つける存在としてそれを避けたり諦めるのは早い」「こういった問題はこの先も考え続けられるべきだが、そのために本件にこれ以上に追及するべきものがあるのだとしても、それはわたしが背負うものではない、これ以上は背負えない」という気持ちにたどり着きました。
それから、もしまたどこかで同じように特定の職業の人を不安に陥れるような脅威があったなら、その相手が公共の施設であっても「自分は世間から後ろ指をさされかねない人間だから」と顔を覆って閉じこもらず、勇気を出して声をかけられるといいな、と。それが今のところのわたしの気持ちです。解決しましたとは言うつもりもなければわたしがそんなことを言える筋合いも全くありませんので、その点は誤解なさいませんよう念のためお願いいたします。

 

さて、ゲストブックをどうしたものかしら、としばらく考えていました。

いつの間にか偏見発表会(無自覚部門も開催だよ!)みたいになっちゃってるところがあり、わたし以外の方の目に触れさせても不毛かな、と思って。
いつまでこんなこと続くのかしら。きっと、いつまでもでしょうね。

今もなお「感情的でない」という理由で誉められたりすることがちらほらあり、わたしはその表現に接するたびに嫌悪感を抱きます。
わたしの書いたものたちは感情のかたまりであったはずです。必死で自分の感情についてお話しさせてもらったんですのに? と。

「感情的」という言葉は「激しくヒステリック」「取り乱していて見るに堪えない」みたいな意味で使われているのでしょう。つまり「あなたは興奮した様子じゃありませんね。だから支持します」「あなたの喋りはみっともなくないので、聞くに値すると思います」そういうことなのでしょうか。彼らはこの思いの何を受け取ってくれたのでしょう、わたしは安心することができません。

その一方で「感情論に終始しており冷静な意見とは言えない」「重大な犯罪でもない話に感情を持ち込んでぎゃあぎゃあと」「これだから女はみっともない」とも同時に言われるわけです。彼らが話を聞いてくれるように思いを伝えることはとても難しく(なんせ「思い」ですから)、わたしの能力ではできません。

感情というものがなぜ、このように嫌われ、避けられるのでしょう。誰も逃れられないはずのものなのに。
感情を存在させた瞬間に論理が、その正当性が即座に失われるかのように言われることさえもありますが、本当にそうなんでしょうか。同時には存在できないものなのかしら。

感情を抑えた話し合いが必要な場面はいっぱいありますね。個人の感情を持ち出すとにっちもさっちもいかなくなったりして。
でも、あの時のわたしの行為は「写真をはじめとした芸術表現にまつわる有意義な議論を交わす任務を自ら買って出た」ようなものではなかったです。「この展示がわたし(を含む性労働者)の人権を損なう可能性、それを見てください、それがそこにあると言ってくれますか、と訴えかけた」つもりのものです(マッドマックスみたいになっちゃった)。
それが結果的に知識ある方によって有意義な議論となり、その種のひとつぶとなれるなら幸いではあるけれど……と思いながら、わたしはわたし自身の持つ権利に限って主張するよう心がけました。芸術を知らない、法律を知らない、タイという国のことも知らないわたしがせめてどなたにも失礼にならない誠実な態度で公共の場に意見を述べるには、そうあるべきだと考えたからです。
わたしがわたしの話をするのです、わたしの話せるように話す以外ありません。

その内容を「この女は感情的か否か」という基準で査定しようとやって来る人々が望んでいるものは果たしてなんなのだろう、どんな理想のもとに行われる裁きなのだろうと考えますが、やはり難しいです。途方に暮れるばかりで答えは見つかりません。

 

一切の感情表現をせずに事実だけを並べたものと比べて気持ちの話に触れたものは劣っているのだ、冷静に俯瞰で中立から物事を論じるのが知的な態度であり感情を口にする者は幼稚で愚かだ、という雰囲気、なんとなく感じたことがありませんか。それこそが何らかの感情に振り回された結果のようにわたしには思えてならないのです。「中立」や「冷静」「論理的」に憧れて、ははんそれじゃダメだねと丘の上から品評する態度のほうがよほど幼稚で臆病なものではないだろうか、と。
そのような振る舞いは、いずれどんなところへ行き着くのでしょう。少なくとも実りある対話を目指す意思は伝わってきません。

他人の目に触れるSNS上で行われるものに限って言えば、自分とはあまりに関係ない世界の人間の話だという認識のもと、安全な場所からあれこれ論じる賢さのパフォーマンス、知性のアピールの題材とするに適したテーマだぞ、と見い出されたのかもしれない、と思います。
また、「おおなんと現役の風俗嬢が!差別されながら頑張る珍しくて健気なこの子の声を聞きやがれインテリ野郎ども!」みたいなおめでたい引っかき回し(最低ですね、でも見ました)と一緒にされたくない気持ちからのことかもしれません。「こんなきっかけで自らについてマジメに振り返るなんて、日頃物事を考えてもおらずセンセーショナルなものにすぐほだされる感傷的な甘ちゃん」「憤ってみせるなんて、私は女性に優しいのですアピールかよ」というレッテルを貼って回る人(これらも最低ですね、でも見ました)から逃れたい気持ちのあまり、わたし個人の存在を軽く見積もり切って捨て、あらかじめ周囲にアピールしておくに至った、そんなような心の動きもあるかもしれません。

もしかしてそんな感じなのかな、と思わされたケース、ちょっとありました。
そうして自分を守ろうとするのも、また感情のひとつです。でも彼らが怖いのなら(それは実際確かにとても怖いものです、わたしも心から怖れます)、せめて黙っていることができるのに。
自分自身の持つ知性を粗末に扱うかのような行いだと思いますし、いつでもそうしていると自尊心というか、なにか元気の素みたいなものがこわれてしまいそうです。

 

美術館に対する恐れがいくぶん解消されたのと同時に発信し続ける気力がすっかり尽きたために、わたしは以後この件をテーマとして何か書いたりはしていません。ある著名な方に、彼の登壇したトークイベントで「タイの売春婦と自分は同じ、と言い代弁するのは良くない」とご批判を受けた際には匿名の攻撃的なメールが増えて辟易しましたが、そのままにしてしまいました。
(今なら少しは言葉が出ます。「わたしもタイのセックスワーカーと同じです」と言うことと「あなたはわたしをかつてのタイのセックスワーカーにしたのと同じように扱うつもりがありますか?」と問いかけることはわたしにとって全く違うつもりでいましたが、伝え方が間違っていたでしょうか、と。しかし彼がわたしを「最強の弱者」「厄介」と表現なさった文を読むと、教えを請うたとしてただのご迷惑にしかならなかったでしょうから、黙っていてよかったと今は思っています。)
また先ほども書きましたが、美術館に対するわだかまりも現在特に大きなものを抱えているわけではありません。ゲストブック上やメールで時々ご意見が送られてくること以外は、わたしはあの頃の騒がしさから、おおむね離れることができています。

でも、最初のメールを書いたあのときの気持ち——写真家でも美術館でもないもっと大勢の他人に対して感じた抗えない巨大な恐怖(当時は「4への気持ち」と名前をつけていましたね)——が消えてなくなったわけではありません。そこから離れることはできません。だから、完全に口を閉ざすこともできないのですが、恐怖について語る限りこれからも時には小石が飛んでくるんだなあと思うと、そりゃあ、少しは憂鬱です。

こころよくない感情は、それが自分に向けられたものではなくても気持ちのいいものではないでしょう。わたしもそうです。
ですがそれを持ち表明する権利は誰にでもあって、それはとても大切なものです(それで他人の権利をおかすならもちろん制限されるべきだと思いますが、今回わたしはそのような間違いを犯してはいないはずですので、失敗だのと言われる筋合いはないでしょう)。

そういった類の感情はどうしてか、持たないことや隠すことが美徳のように扱われることがありますね。でも決して無かったことにして良いものではないはずです。見物客の他人がそう促しねじ曲げるなんてもってのほかです。それはその人の尊厳とぴったりくっついていますもの。
表し方をああだこうだと取り上げて当然のように査定し、やれ感情的だの冷静だの、ほめてみたりけなしてみたり、どちらからの言葉もわたしにとっては同じです。それなのに心の表面をジャリジャリと傷つけてゆくので困ったものです。

 

「冷静でイイね」「感情的でダメだね」「優しすぎ」「生意気」「チェンジw」「こういう女の鼻をへし折ると興奮する」「風俗嬢は天使」「売春婦が人権を主張するなんて嫌な世の中」「早く結婚すればいい」「早く死ねばいい」「あなたなら差別しませんので頑張れ」「で、美人なの?」
励ましでも寄り添いでも叱咤でもない、ご指導でもご鞭撻でもない、敬意も礼儀も省かれた品評、採点、嘲笑。それを広く発信する、あまつさえわたし本人の元へと届ける行為はなんのためなのでしょう。あなたがわたしをどう思うかなんて、わたしばかりかこの世の誰の役にも立たない。なぜそのとき話し合われている問題ではなくわたしばかりを見るのでしょう、論じるのでしょう。……まさか不器用な愛の表現? なわけないよね。万が一愛ゆえの行いだとしても破壊を伴うと効率が悪い、ということは既に先人が指摘している(*) 通りです。
問題に関するあなたの思いを、心に生まれたものを、あなたはどう考えたのかを語ってくだされば、少なくとも「椎名こゆりクロスレビュー大会」よりはよほど道が開けるはずなのに。あなたの好むであろう「冷静で論理的な態度」にだってよほど近いのに。
それは、おいやですか。わたしと話したくなんかなくていいんです、あなたの心に、好きな人に、もしくはまだ出会っていない人に向けて語りかけることは、世界とあなたの役に少しも立ちませんか。

 

あ、そうだった。ゲストブックをどうしよう、と思っていたんです。
「はあ、こういった属性の人がこのような思いをこんな感じに発信するとこういう風に言われたりするんだなあ」という資料的な価値(というと何でもちょっとよいもののように思えるので好きな言葉です)というか、なにかを考える際の材料となりそうな気もしますしので、今はそのままにしようかな、と思います。今回はたまたま「風俗嬢」という属性のお話ですが、こういうのって一事が万事で、どなたにも同じようなことは起こります。起こらないよ、と思ってもすこし辺りを見渡せば、無視できない距離の場所で起こっているものでしょうから。

どうぞこれからもお気軽に書いてください。

 

そして何度も言いますけれど(何度でも言わなくてはなりません)、
わたし以外の性労働者に対するご自身の見方を省みたと言ってくれた方、売春によって糧を得た過去をご自身の中でどう扱うかという問題に勇気を持つことにしたと語ってくれた方、暴力に対する恐怖と、自分もまた無自覚に暴力の側に立ってしまう可能性への恐怖について考えたと言ってくれた方、そのように感情にあふれた理性的なお話を伝えてきてくださった方々もたくさんいらっしゃいました。すべてにお返事をすることができませんでしたが、わたしの心の奥深いところをそっと撫でてもらったと感じています。心の奥にある掲示板はそれらの力強い言葉で埋め尽くされ、今もなお支えられていますし、感謝しています。

 

あのときわたしが書いたものはすべて、長たらしく言葉を重ねた悲鳴でした。冗長で言葉の多い、嗚咽でした。

空の下にきょうも、大きな小さなさまざまな声があります。明日もあさっても。
声をあげたことでわたしは消費され、確かに何かを失いました。でも、植わった種もあったのではないかと自分に言い聞かせています。水のある場所に落ちた種もあったと。
わたしの声を聞きつけてとにかく手を差し出してくださった他人がそこに何人もいた。語ってくださった感情がわたしを支えた。この先も自分の感情を語り表す勇気を持ち続けていられるよう、このことを思い出しながら心を守り保っていられればと強く思います。それはきっとわたしが誰かに手を差し出す側となったときの力ともなるものでしょうね。
そうしてあなたとわたしの感情はいつかさらに強い形で支え合えるかもしれません。その芽吹きが、嘲笑の小石飛び交う中のことでなければ、ずっと素敵なのだけど。

 

長いエントリをお読みくださりありがとうございました。

 

えっこんなにいっぱいあるの……(これで全部じゃないんだよぜんぜん)(あともう4倍くらいあった)。
めちゃめちゃ愛されてるねこの曲!!

 

 


このエントリを読んで当時のことに興味を持ち知りたいと思ってくださる方もいらっしゃるかもしれませんので、どのようなことがあったのかだいたいわかるように簡単にリンクをまとめました
本文中に書きましたことをご理解くださいますようお願いいたします
東京都写真美術館にて過去に展示された作品の撮影手法に関する問題が取りざたされた際、ネット上で起こったことの簡単な記録(2014年12月〜)

2015-08-12 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ:  

 

東京都写真美術館にて過去に展示された作品の撮影手法に関する問題が取りざたされた際、ネット上で起こったことの簡単な記録(2014年12月〜)

後からこの件についてお知りになりたい方のためのとても簡単なリンク集です
とてもすべてを網羅していませんが、お探しになるとさらに情報が得られることでしょう


2014年末、Twitterでこの記事が話題になった
男女300人の絡みを撮影…知性と理性を吹っ飛ばせて見えた境地とは【大橋仁 INTERVIEW】

話題になった、の具体的な様子はtogetterなどにも残っていると思うので興味のある方は検索すると見ることができます
またこの件はタイのセックスワーカーNGOであるEmpowerに報告されました

問題視されたのは2007年に催された写真展、そのプレスリリース
東京都写真美術館プレスリリース 日本の新進作家 VOL.6:スティル/アライヴ

撮影者の大橋仁氏がブログ上で弁明と謝罪、また当該作品について新たな展示や掲載を差し控える意向を表明
メッセージ(2015.01.08)

美術館に対応を求める署名運動も起こった
大橋仁氏のセックスワーカー無許可撮影展示について正規の対応を求めます。(2015.01.12)


このサイト上で起こったこと

冒頭にあげたインタビュー記事を読んで美術館にメールを送った
東京都写真美術館に送付したメールの内容(2014.12.25)

上記記事がニュースサイトに取り上げられたりしてたくさんのアクセスがあり(バズるって言うんですか)寄せられたご意見、ご感想、何らかの叫びなど
ご報告とわたしの気持ち 〔1〕 〔2〕(2014.12.30)
ヨンへの気持ち 〔1〕 〔2〕(2015.01.16)

すこし時が過ぎて
ひとつくさってふたつ芽吹いて
(2015.08.12)


当時励まされたブログ記事(ありがとうございました)
人権侵害に言い訳はない(2015.01.08)- c71の一日

この問題を長く取り上げたウェブマガジン – 松沢呉一のビバノン・ライフ
たとえばこの件に関心を持ったり恐怖を感じた方、とくに同業種の方たちには、自分を強くするために役立つ世界が開けるのではと思うのでおすすめします(一部は有料です)
娼婦の無許可撮影をするゲス写真家は今に始まったことではない-『危険な毒花』と『月蝕』 [娼婦の無許可撮影を考える 1 ]

カフェー女給と娼妓の写真に見るモラル・・・ 昭和の肖像権を検証する [娼婦の無許可撮影を考える 2 

娼婦の無許可撮影を許したのは、この社会の「良識」だった [娼婦の無許可撮影を考える 3 ]

大橋仁の釈明と「モラル」について [娼婦の無許可撮影を考える 4 ]

大橋仁問題に見られる手続論と作品論の混同 [娼婦の無許可撮影を考える 5 ]

セックスワーカーの人権侵害をする女たち [娼婦の無許可撮影を考える 8 ]

女王様インタビューの捏造疑惑 [娼婦の無許可撮影を考える 9 ]

セックスワークという言葉を使う事情 [娼婦の無許可撮影を考える 10 ]

「廃墟写真事件」に見る法とモラルの境界線- 風景写真の著作権 2

日テレの内定取消の背景にある語られない差別意識 ・・・そして売春差別と従軍慰安婦問題

桑田佳祐の謝罪に思うこと-勝手に期待して勝手に失望するな

2015-02-21 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

ヨンへの気持ち〔2〕

〔1〕のつづき。
東京都写真美術館は、わたしが送ったのと同じ通数のメールを返してくださっています。
お返事をくださる、ということだけで少なくとも「無視するつもりはありません」というメッセージだけは、しっかりと受け取っています。公共機関がわたしを無視しないってことが、たったそれだけの普通のことがなんでこんなに泣けるくらい身にしみるのか。さあー、どうしてでしょうねえ(相棒の右京さんみたいに読んでほしい)。


東京都写真美術館の責任範囲- [娼婦の無許可撮影を考える 7 ] 松沢呉一のビバノン・ライフ

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今のわたしは、この記事に書かれていることについてああ、そうだ、そうだなあ!と思って考えているところです。特に2についてはまったく考えが及んでいませんでした、思いつけなかった。わたしにとって美術館というのはとても大きな存在で、そこへ働きかければわたしの見ている4について何か変わるんじゃないかみたいなイメージを持ってしまってたんですけど、そうとは言えないと学びました。3については、なんていうか、4への気持ちそのものですよね……(これまでを読んでいる方にしか分からない書き方ですみません)こうして自分以外のひとの言葉で目の前に出てくると、本当に弱い。苦しくなります。4はわたしにすごく強くて、ちょっと睨まれただけでもう竦んでしまう。

「芸術だからといってこれは行き過ぎですよ!これだから芸術なんかやってる男はダメなんですよ云々」とわたしに言ってきてくれた方は何人かいらっしゃいました。でも、その「これは行き過ぎ」って誰がどうやって判定しているものなのか。
例の写真が展示された当時、美術館には意見が寄せられなかったそうですね。「行きすぎた行為」だとは誰も言わなかったわけです。「これだから芸術家は」の問題だとはわたしは思わないです。
(ただ、観賞しに来たお客さんが美術館に対して何か意見することは困難だろうとも思います。それから、これは友人と話していて気づかされたことなんだけど、関係者だからこそ指摘できない、っていうこともきっとありますね)
展示に際してはおそらく大橋氏の手によってアンケートボックスが設置されていてそこには否定的な意見もあったようですが、これが何に対するものであるかは今のところわかりません。「ものすごく怒ってるのもあった」という言葉に、誰かが指摘してくれていたかもしれない……と思うとささやかな希望が胸に灯ります。しかし直後の「面白かったよ」が同時に目に入ってあっという間に消えちゃいそうになるので、風よけの囲いが必要です。

——そうそう、あれが2007年! たしか、展示スペースにアンケートボックスが置いてあって。自分も感想、書きましたよ。

ホント? 嬉しい嬉しい。最終的に、2、300枚かな。けっこうな数が集まって。写美がアンケートボックスの設置を認めてくれたのも大きかったね。老若男女が書いてくれたよ。ものすごく怒ってるのもあったし、ただ『ウンコ!』とだけ書いてあるヤツとか。オレの意図を理解してくれた人もいたし、色んな意見をもらえたね。面白かったよ。

——大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。 | TOMO KOSUGA – Part 2

松沢呉一さんの「セックスワークを考える – 娼婦の無許可撮影を考える」シリーズは、この問題を考えたい人すべてに読まれるべきことがたくさん書いてあって、特にわたしとしては「これだから芸術なんかやってる男はダメなんですよ」とか思っている人の目に入るといいなあと思っています。あと「芸術は全て犯罪だからあきらめろ」とか「勝手にタイ人のセクシャルワーカーを代弁するな」とか「あなたのように自分の意見を持っている風俗嬢なら尊敬しますよ」とか。そうやってわたし(たち)の4への気持ちを見ない振りする人、見ない振りでこれからもやっていくべき、それが結局は全員にとって幸せだ、と思っている人に。

一部は有料ですが、分厚くない文庫本一冊ぶんくらいの値段です。10冊買ってもなかなか得られない気持ちを得ることができたのでわたしはとても買ってよかった。

 

もう何年も前だけど、源氏名が「ナナ」だったことがあります。
そのお店はわりとあっという間に潰れてしまいました。お給料は安いし駅から歩くしホテルも遠いし女の子は数える程しかおらずそれなのにタオルは常に足りないし(つまり隅から隅まで資金力がなかったのですね)という店でしたが、待機室(兼事務所、兼撮影スタジオの狭い部屋)になんとこたつがあった。いかにも旧式の、あちこち塗装が剥げている大きめのこたつ。仕事を終えて疲れ果て、ここで一休みしているうちに眠り込んでしまう、という形の「店泊」をしょっちゅうしている女の子がいました。
わたしがコートを着て帰ろうとしていると「奈々ちゃん、帰るの、お疲れ、またね、気をつけてね、またねえ」と、3割は夢の中みたいな声で言って。玄関でブーツをはいてもう一度振り返ると、こたつ布団に埋もれたまま1円にもならないはずの笑顔をちゃんと作って手を振ってくれていた。

一度くらい一緒にお泊まりしたらよかったよ。一緒にこたつで寝て、遠慮してちょっと浅く体勢をとったりして、次の日には若干頭が痛くなったりすればよかったよ。

 

ナナへの気持ちナナへの気持ち

収録アルバム:インディゴ地平線
2012/7/11 | フォーマット: MP3

 

2015-01-16 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ:  

 

ヨンへの気持ち〔1〕

去年最後にした買い物は、中村珍さんの漫画でした。
今年最初にした買い物は、久保みねヒャダこじらせナイトのスタンプでした。
充実の自宅バカンスが伺えますね。すばらしいです。kindle本もいっぱい買った。
抹茶ババロアをまた作ろうと思ったら抹茶が全然足りなくてしかたなく黒ごまババロアにしてみたり、
「さらば恋人」の2番の歌い出しをど忘れして気持ちが悪いので大至急検索してくれというマミさんの要求に応じたり、その流れでYouTubeに半日を捧げたり、
おそらく泥酔したお客さんからのまったく意味がわからないが全編赤ちゃん言葉なメールをシカトしたり、翌朝に「すまん!一生の不覚!忘れてくれ!」と来たので「なんのことでちゅか♡」と返信してあげたり、そんなふうにして過ごしたお正月でした。

前回書いたこれこれその前ほどじゃないけれど反響が大きくて、いろいろなご感想を読みました。

その中には、読んで気分が悪くなった、というものもあって、それはわたしへ向けられた言葉たちがあまりに暴力的なために見ていて辛くなったり、途中で読めなくなったり、過去に同じような目に遭った記憶が甦ってしまったり、というものでした。

胸が痛くなりました。
ごめんなさい。

そのまま載せることはわたしも憚られて、それであんなふうに口調だけでもととのえてお見せしたのだけど、それでもやっぱり重いものに変わりはないし、ショックを与えてしまったことがとても苦しいです。

ああいうの、わたしが慣れているとは言わないけれど(慣れられるものとは思わないし)、セックスワーカーがなんか言った時あるある、なんです。わたしとしては「このアプローチは初めて見たなあ」というものはなかった。

セックスワーカーとして発言した人間がそのあと目にする風景を少しだけ公開したい、そんな気持ちがありました。嫌悪する人がいる、発言の内容ではないところに罵詈雑言をぶつけたり、自分の無知をはばかることなく掲げながら何もかも説明しろと甘えてくる人にしばしば遭遇する、という現実を示したかった。それはなぜなのか?ってことを考えてもらえたらいいなと思うから。それはセックスワーカーではない人を助けることにもつながるのではないかしらと思っているから。よく書いてるけど。
だから、罵詈雑言に分類されるようなものも、わたしのメールボックスに人知れず埋もれたのち消去される運命をたどる前に一度くらいは白日の下に晒されてみていいと思ったの。
でもそれだけでは「わたしたちはみんなをムカつかせる日陰者、自分の意見を持つべきでない」という結論になりかねないから、返事もした。拳の代わりにわたしを殴るためだけのツールだったかもしれない言葉を、でもどこまでもあくまでも言葉として受取り言葉を返信することで、わたしたちは罵られてしかるべき存在ではないよ、と言いたかった。

そうしたら、見ず知らずの優しい方はもちろん、わたしをよく知っているひと、会ってお茶を飲んだり日頃仲良くしてくれているお友達には特に大きなショックを与えることになってしまい、本当に申し訳なかったと思っています。ごめんね。超ごめん。

 

それから、「丁寧に答えないでちゃんと怒ればいいのに」っていうのも、ありました。

もっと感情をあらわにぶちキレてくれればいいのにそうでないから読んでいて辛い、とか(気持ちはわかる)丁寧に答えると相手は調子に乗るぞ、とか、こういう姿勢をよしとすると暴言を受けている側にどこまでも毅然とした態度を求める風潮を後押ししてよくない、筋の通っていない悪口を取り合ってはいけない、とか。

耳が痛いです。でもね。

なんでもいいからストレスを解消したいだけで、でも目の前に殴ってもよいものが見当たらないのでさし当たり目に付いたこの女をバカにしよう、って感じのもの、あまりにも意味を持っていなさすぎて返事ができないようなものはね、あれでも一応省いたんです。
「ご臨終になられてはいかがでしょう」これもけっこう迷いました、原文はご想像の通りで、ほんとにただ手軽な暴言をぶつけてきただけなんだろうなと思う。でもそんな言葉にもお返事する形をとったのは、それを通して何かを表せそうな気がしたからです。おい「られそうな」とか「気がした」じゃ意味ねえんだよ寝ぼけてないではっきり言えよ。といま非常に思いましたのでこれから書きます。

どんなに汚い言葉を投げつけられても、わたしたちは対等な存在同士です。
言った人がいて、言われた人がいて、ふたりは同じ人間です。対等なままであり続けます。
激しい言葉で罵れば、一時的に気力を失わせ黙らせることはできるかもしれない。でも、口を塞げたからといってその言葉が正しいことになるわけではありません。ある言葉でもって相手の心を完璧に踏みにじることに成功したとしても、それを投げつけた人が格上だということではありません。

そういうようなことを言いたかった。投げつけられてしまう側の人に言いたかった。
誰のどれほどの悪意を持ってしても決して覆せないはずのものを、わたしたちの誰しもがあらかじめ持っている。

「差別発言を放つ者たちを広い心で受け容れ、赦している」という主旨でわたしを、おそらくはほめようとした方がいらっしゃいました。しかしこれはいけません。
とんでもないことです。穿った見方で恐縮ですが、わたしを美化し天使的ポジションにおくことで発言者を迷える子羊にして責任をうやむやにして話をまとめようったってそうはいかないぞ。
売春婦に人権なんかねーよ死ね。そんな言葉を広い心で受け容れることなどできやしません。わたしにそんな慈悲の力などありはしません。「殴られている」と「拳を受け容れている」は全然ちがいます。わたしたちは同じ人間で対等だと言いましたが、同じ重さの人権を持っていても行いの貴賎には差が出ます。この発言をわたしにぶつける行いは愚劣です。ただ、わたしに死ねと言った人は別の場所では死ねと言われる人であるかもしれないな、とぼんやり思う、思うだけです。

もちろんはげましのおたよりもあり、全部読ませていただいています。ありがとうございました。

今回のいろいろにおいて、最もわたしを動かしているのはここで挙げた 「4)」なんです。自分でも思い知りました。いちばん深くて、いちばん口にしにくい4への気持ち。
4について何かを表明している人は少ない。たとえば今度のことで「負けないでがんばってください!」と言ってくださる方はいても、4にまつわることにふれた言葉は極端に少なかったです。それが不満だ見て見ぬふりだ、というのもちょっとちがいます。だって4に対してかける言葉、あまりなさそうだから。わたしも大した言葉を持っていません。

長すぎるので分けます。〔2〕につづきます。

2015-01-16 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ:  

 

ご報告とわたしの気持ち〔2〕

〔1〕からのつづきです。

——都写美は休館中でーすwwwざーーーまあみそしーーるーーーーwwwwwww

すみません、これは原文のままです。最初に受信ボックスを開いたときはいらいらっとしたんです。知ってるし!休館中とか知ってるし!!夏ぐらいから知ってるし!!って。
でもこれ、いわゆるエアリプとかではなくて、メールフォームから(つまり、直接わたしだけの目に触れる方法で)送られて来たんです。しかも携帯電話のいわゆる「本アド」で!
もしかしてだけど、わたしが万が一そのことを知らなくていつまでも返事が来ないとくよくよしたら可哀想だと思い、しかし普通に「もしもしご存知ですか」と親切にするのはなんだか恥ずかしく、それでこんな照れ隠しをしてるんじゃないの。
そういうことだろッ?

でも、このぶんだとこの方の優しさ、好きな人にちゃんと伝わっているのかどうか心配になります。身近なお友達はよくわかっているのかな、そうだといいです。
あと「ざまあみそしる」ってすっごくかわいいですよね。ざまあみそしる vs ざまあみそづけ だと、わたしはみそしるのほうが好きです。
よしもとばななの短編集に、「ざまあみそしる〜!」でオチがつくような話があったようななかったような。うろ覚えです。
今後積極的に使っていきたいです。

——あなたは女性でしかもセックスワーカーで、人権が増えていいですね。人間というのは平等だと思っていました。

いいえ、人間というのは平等です、あなたの思い違いではないです。あなたは間違っていない。
人権って、よくわからないんですけど、ひとりにひとつ、誰のも同じ大きさで同じ重さらしいです。ただ手で持ったり秤に乗せたりできないし、目で見ることもできないので、まれに「同じ大きさなんてうそだろう、あの人のはきっと小さいだろう」と思い込んでしまう人がいるみたいなんです。「あなたのは、軽いもんね」とかこともあろうに「え、ないよね」と思われるのって、とても困ります。あるものをないと思い込まれて、でも見せてあげることもできなくて、しょうがないから「あるんですけどー」って言ったりします。それしかないので。
そして女性だったり、セックスワーカーだったりすると、どうもそういう機会が増えるようです。
そのため「あるんですけどー」を言ってるのがよく聞こえるから、あれれあの子はいくつも持ってるのかな?増やしてるのかな?と思われるかもしれないんですが、ひとつしか持っていません。

あなたの持つそれは、いかがですか。元気ですか。わたしがたくさん持っているように見えるのは、いいですね、と思うのは、あなたもまた「ないでしょ」と言われているのではないかという考えが頭をよぎりました。わたしの方が恵まれて見えるだなんて、かなり脅かされている可能性が高いのではと。
でもあります。あなたの人権はあります。今までもずっとあったし、これからもずっとあります。
それをないように扱う人がいたら、その人は間違っていますし、あなたが辛い目に遭わされているなら、助けを求める権利がいつでもあるはずなのです。目の前に誰もいないのなら、わたしに求めてもいいですよって、本当は言えたらいい。でもそこまで言うことができません。ごめんなさい。

——売春婦をセックスワーカーと言い換えるのはなぜですか。きれいな言葉に言い換えて本質を覆い隠すのは、盗撮を芸術と言い換えるのと同じくらい卑怯なことではありませんか。

セックスワーカー、をまるできれいな言葉のように思われるのは、これまで蔑称として長年使用されてきた「売春婦」という言葉に含まれるような蔑みの念をあなたが感じにくいからではないでしょうか(物足りない場合は、肉便器、などというアイディアもあるようですね)。

セックスワーカーという言葉は性別を語りません。売春婦、娼婦、風俗嬢、これらはどれも「女である」という意味を含んでいますよね。でも、セックスワーカーは女性だけじゃありません。女性も男性もいます、どちらにも属さない方もいます。
では、性風俗産業従事者、とかそういう感じじゃだめですかね?と思われるかもしれません。
ただ、そうですね例えば、お店の受付にいるいわゆる黒服さんボーイさんと呼ばれる方、デリバリーヘルスなら運転や電話受付の業務にあたられる方、それから成人向けの映像作品を作っている方、など。わたし個人は、性産業従事者という言葉だとこのようなより広い意味を指したイメージが浮かびますので、英語のsex workerをそのままカタカナ書きにした「セックスワーカー」という言葉を用いることが多いです。利用客と実際に相対して性的サービスを行う人間のみに限定して指したい場合って多いのですが、それにぴったりあてはまる言葉が日本語にはどうも見当たらなくて。

2014年末のいまセックスワーカーという言葉が用いられる場合、そこに蔑みのニュアンスは込められていないことの方が多いです(例外はたくさんあります)。
ただし、この先のことはわかりません。
使われ方次第で、未来にはやはり蔑みのこもった言葉になってしまっている、そんな可能性もなくはないのでは、と心細くも思います。
言葉の運命は人の口にかかっています。
わたしにとってはこれは、本質を覆い隠した言葉ではなく、覆い隠すものを取り除いて本質のみに近づけた言葉です。今これを読んでいるあなたにとっては、いかがですか。
どうぞ、あなたはあなたの信念に沿った言葉でわたしたちを呼ぶことができます。わたしはわたしの信念に沿って、お返事するかどうかを決めます。

——風俗で働いていらっしゃるのなら、写真を撮られるよりも危険な目に遭う可能性がたくさんあるのではありませんか?盗撮くらいのことをなぜ怖がっているのか、知りたいです。

写真を撮られるより危険な目(危険に順位って、あんまりはっきりつけられませんが)にあう可能性はあります。怪我をさせられること、金品を盗られること、薬物を投与されること、身内や別の職場に仕事を明かされること、そして一番てっぺんには「殺されること」。
全部だめです。どれもあってはならないことです。そしていわゆる堅気の仕事なら危険な目から免れられるかというと、そうではないです。
だからどれに対しても「NO」と言います。「やっていいと言っていないことをやらないでください」と言います。

いま挙げた中では、怪我と盗みは軽微(ってなんだろな?と思いますけど)なものならありました。薬物は未遂でした。殺されたことは幸いにしてまだありません。
やった人にはそれぞれ言い分(ストレスのせいだとか、キミを愛してるからとか)がありましたが、わたしが店に訴え出ることができ、男性スタッフが登場したケースに関しては最終的にみなさん謝罪をされました。警察に言わないでくれと懇願までなさった人もいました。
本心はわかりません。ですが口先だけであれ申し訳ありませんでしたという言葉が出てきたのは「風俗の女の子だからってなんでもしていいわけではない。好き勝手に暴力を働いたらそりゃあ警察に言われても当然で、こちらに分はない」という共通認識のおかげでしょう(男性が現れるまでは強気な態度だったというところは置いておいて……悔しいですが)。
わたしはこの認識にがんばってほしいので、すくすくと育って欲しいので、言葉を尽くします。「やっていいと言っていないことをやらないでください」と言います。言い続けます。

——これだけ文章が書けるコが、なぜ風俗で働いているのですか?大学はどちらを出られてます?すみません、とても興味があるもので。なんだかかまいたくなりますね(/ε\*)

わたしにかまう時間で「それなりの学力があったであろうお嬢ちゃんが風俗だなんて、何か面白い理由があるに違いないゾ☆」というご自分の中にある偏見とそれをむき出しでぶつけてしまった失敗によくよくかまってさしあげてください。

——セックスワーカーという仕事は特殊だと思いますが、男の立場からしていえば天使の仕事としかいえません。感謝があるのみです。

どういった意味合いで「天使」という言葉を選ばれたのか、わたしの汲み取れない意図がおありなのかもわかりませんが、わたし個人はその形容をストレートな賛辞としては受け入れられません。わたしたちは人間です。意思があり感情があり突けば痛いですし血が出ます。
わたしたちのキスもハグもオーラルサービスも、服を脱ぎ甘い声を出すことも、すべては労働です。奉仕ではありません。時には心や愛情を込めた、労働です。
ただの労働を美化や神聖視されることに対し、不安を覚えるセックスワーカーは多いと思います。それは蔑視と表裏一体であると、身をもって知っているからです。感謝を表していただきながらこのようなことを告げるのは心苦しいですし、蔑視などしているおつもりもないと思います。が、セックスワーカー本人に面と向かって言うのにふさわしい言葉では、残念ながらない場合があると、感謝してくださる方だからこそ知っていただきたいのです。感謝というお言葉は確かに受け取りました。ありがとうございます。

——セックスワーカーに人権などありはしないと思います。一度、ご臨終になられてはいかがでしょう。

セックスワーカーに人権は、あります。いまSTAP細胞のことを思い出さないでください。
そしてセックスワーカーに人権があることで、セックスワーカーでないあなたの人権に、その価値になにか変化がもたらされるように思えるならばそれは錯覚です。大丈夫です。
臨終の件につきましては、明確な時期を申し上げられませんが、あと70年ほどお待ちいただければ確実かと思います。

——現役で働いているあなたに辛い経験を語らせて、私はただリツイートするだけで、まるで当事者の声を搾取するかのような気持ちになります。申し訳ないです。

な、なにをおっしゃいますやらそんな!お気になさらないで下さい、なんにもなんにも。わたしはそんな風には感じてないですよう。
だってあの記事は3日間で80,000くらいのページビュー数がありましたし、そのう、本当に気にすることではないですよ。ぜんぜん。でもこういうお気持ちを複数の方がくださっていて、じんわりと温まりました。ありがとうございました。
いま改めて確認したら12万に増えていました。もっとかっこいい記事をいっぱい書いておけばよかった。あと本当にわたしはGoogleアドセンスを貼っておけばよかったですね!ざまあみそしるー!!!

ここからは個人的なお喋りです。

iからはじまる3ドット9文字@gmailの方

わたしも美術館とか博物館、好きですよ。ミュージアムショップについつい長居してしまいます。
慌ただしいであろう時間帯にサッとおたよりしてくださってありがとうございます。その瞬発力というか、尊敬します。お気持ち、よく伝わりました。

iからはじまる4文字@gでもyでもない方

お客さんでいちばん多いのはおそらく赤いマルボロだと思います。
わたしの持っているお客さんではJPSなどもよく目にします。
わたしがベッドで最も吸っている副流煙はたぶんパーラメントでしょうか。

jからはじまる8文字@gmailの方

わたしの祖母がボタニカルアートを趣味にしていたことを思い出しました。母も静物画を描いていたような話をちらりと聞いたことがあります。わたしも幼い頃は植物とぬいぐるみしか友達がいませんでしたので、日陰の植物なんかには親しみを持っています。ドクダミとか。

9_14文字@ヤホーの方

あの、呼んでください。名前。うふふ。椎名さんでもこゆりさんでも、お年が近いようなのでこゆりちゃんでもいいですよ。
誰かにいやな思いをさせて、でも自分は忘れ去ってしまっているようなことが、そうと気づけてもいないくせに背後からやってくるとき、ありますね。わっと叫んで机につっぷしたくなるような気持ちになります。うう。
身体を気遣ってくれてありがとう。あなたもお風邪など召されませんように。お仕事が充実すること、陰ながら祈っています。本当にお疲れさまです。

ここまで長いエントリをお読みいただきありがとうございました。
もしもわたしが何かよくない思い違いをしていたり、言葉の使い方を大きく誤っているところがあればいつでも教えていただきたく思っています。ですがいつにも増して黒く重たい言葉も多く受け取り精神面での疲労を感じていますので、今後お返事や交流についてはこれまで以上に慎重になるつもりでいます。わたしのお手紙をきっかけにして多くの方がご自身の考えを見つめてくださったこと、お友達やネット上で行き合ったどなたかと意見を交わしてくださったこと、得難い経験でした。

どうぞよいお年をお迎えください。わたしもいつも通りの年末を、黒豆を煮たり抹茶ババロアを作ったり、店長の「年始はいつお会いできますか?(=いつご出勤してもらえます?)」というメールに「んー、わかんない♡」と返事したりする年末を過ごします。おこられます。

2014-12-30 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ:  

 

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