セックスワーク

近況:2013年2月

節分の次の日、スーパーで鬼のお面つき煎り大豆が山と積まれて安売りされていました。ただの煎り大豆ならそんな目に遭わなくていいのに、なまじ鬼のイラストなんかがついているせいで「終わったもの」とされる豆たち。
一袋買いました。炊き込みご飯に入れるとおいしいのです。
需要の波がおわったところで、世間のそれとは関係なく自分が欲しいものを安く買えるのは、小さな小さな哀愁感とともに、ほくほく嬉しくなる。不憫なものを助けたささやかな満足感もあるのかもしれません。

先日新しいオーブンレンジを手に入れたせいで数年ぶりの製菓ブームが訪れているわたしはこの冬、クリスマスが終わるとクグロフ型を、バレンタインが終わるとハートの型を物色していました。だいたいそんな人生です。

今回もよい収穫がありました。気に入ったハートの焼き型が少し安く買えたのです。アメリカのウィルトン社のもので、ここのはどれもデコラティブで可愛らしくて大好物です。中でも今回はウーピーパイを焼くための型にひとめぼれをして、ウキウキと持ち帰りました。マドレーヌの型のように一度に何列か焼くことができるものです。ウーピーパイがハートである必要があるかと聞かれると困りますが、そんなことを言ったらウーピーパイなんて食べ物を食べなくたって人間は生きていけます。それでも食べたいと願うのが人間なのですから、ハート型にするためにお金を払うことぐらい大した問題ではありません。
そんなことはどうでもいいんだ。そんなことより問題はその型が自宅のオーブンにギリギリ数センチ入らなかった。ああ入らなかった。入りませんでしたのです。

数センチをギリギリと呼んでいいのか? うるさいわね!

わたしはクグロフ型を抱えて泣きました。失敗をした時にひとつ前の成功例にすがるのはよくないことです。

クグロフのことは涼しい顔してクグロフと呼んでいますが、心の中での呼び名はグーゲルホップフです。最後の「フ」がきいています。めんどうくさくて口にしなくなるより一歩手前にある、そっとひとりで口にしたくなるような名前が好きです。シーガルスクリーミングキスハーキスハー。

最近ではだいぶ増えた感じですが、思春期にわたしが好きでよく聴いていたCDは謎めいたアルファベット名を持つ女性シンガーの作品がとても多かった。Chara、UA、ACO、Samarie。Coccoも入れていいかもしれませんが、YUKIとaikoは断じて入りません(ユキもアイコも安心感のある女性名だから。YUKIのCDはけっこう持っていて、いくつか大好きな曲があります)。NOKKOは、「のっこ」と呼ばれる女の子が幅広い世代で他にもいるであろう点でCharaほど深い謎ではない。カヒミカリィの扱いはわたしにはどうしていいかわからないので保留とさせていただきたいです。
中でも「Chara」という名前はすごいなあと思います。私はチャラです。そんなこと言って許される人は他に居なかった。 でも彼女はどこからどう見てもチャラなのでした。日本人なのに?というような野暮な口出しが引っ込んでしまうほど、それが似合う人。彼女にも名字があるはずなのに、それを忘れてしまうようなあのムード。「ちゃら」という日本語の単語が存在するにも関わらずその意味とは全く関係なく人名の「Chara」を定着させてしまった彼女はただものではありません。

バレンタインの時期にあちらこちらのレシピサイトでこぞって掲載されていた手作りチョコレートの特集を眺めていると、発案者の名前というのがアルファベットだらけで少し戸惑いました。ついに料理研究家界にも、アルファベットガールの波がきたのかと。でも違いました、彼女たちはいわゆるブロガーさんたちで、そのハンドルネームが掲載されていたのです。
いいなあ。わたしもアルファベットの名前にすればよかった。

「はじめから期待してないわ」とiTunesからACOの歌声(※)が流れています。ごもっともだ。おっしゃる通りです。わたしも早くわたしになんの期待もしなくなればいい。そうすればこれくらいなら入るなあ〜なんていかれた目分量で買い物をせず、メジャーを持ち歩くようになるでしょう。なぜ期待という行為を止められないのか。あんな馬鹿げた無意味な行為を。中でもとりわけ、自分自身とそして男性(特にわたしを好きだと言う男)。これらに対する期待は愚の骨頂であると感じた出来事は数知れずあるというのに。笑い話にする以外なんの価値もありません。

ガツッとか音がしてさ、入んなかったの、型持ってポカーンとして、もう本当バカだよね、と話した相手は、しかしわたしを笑ったりはせずにこう言いました。
「それ、こんど持ってくれば」
彼は板金業に勤めており、職場の設備でその鉄製の焼き型を切断してくれると申し出てくれたのです。せっかく気に入って買ったのだから、何とかするよ、と。こういうことがたまにあるから人生への期待がやめられない。

昔たぶんショムニの中で江角マキコが「女の価値は男の人数やその総資産額ではなく、好いてくれる男たちが私のために一肌脱いだ時のヴァリエーション」みたいななんかそんな感じのことを言ってたのをうっすら思い出しました。あのドラマの猫かわいかった。主題歌をIZAMが歌っていたことを突然思い出し、すっかり忘れていたけどもCharaに匹敵する不思議名じゃないか!!と今にわかに熱くなったところです。その雰囲気が今日まで持続し続けているCharaが改めてすごいと思った。IZAM氏が変わってしまったと言いたいわけではありま……す。

たとえば風俗嬢も長年やっているとそれなりに気心の知れたというか、一定の信頼関係をともに築き上げた相手というのがちらほら出てきたりもして、互いのプライベートでのうっかりや理不尽や困ったことなどをカバーしあえることなどもあります。今回みたいなちょっとしたこととか。

現金によって取り持たれた縁であっても、そうして助け合うのは難しくなくできることなんですが(双方がこころがけてさえいれば)、外側からみるとあんまりイメージしづらいかもしれないね、とも思います。非SWの女の子に「お客さんと一体どういう話をするんですか?」と聞かれたことがあり、その子は「『どういう人がタイプなんですか?』とか話してると思った」と言っていて、そんな合コンみたいな話は振られない限りしない、めったにしないけど、えっとえっと、なんだろう、普通の世間話? だよ? としどろもどろで答えたことがありました。わたしたちは意外にふつうのはなしをしていますよ。(我慢に我慢を重ね押し殺した上にふつうのはなしをしてる場合も超よくあるけれども)
で、そんな中(働いていると女性どうしでの助け合いが主だけれど)、たまーに、たまーに、お客さんとのあいだに近所付き合いのようなものがひょっこり生まれる瞬間もある。おもしろいです。

その人は大の甘党なので、型が手元に戻ったらウーピーパイ作ってくるわねと言うと「ハリウッドの教会の人……」とつぶやいていたのでその女優さんにちなんだ食べ物ではありませんよと言っておきました。

 

働く人どうしの支え合いについて先月書いた文章
ガールズヘルスラボ:今度また話そうね

 

※この曲が入ってるアルバムが好きで、装丁(って言わないだろうけど)も含めて好きなのでとっくにiTunes派のくせに手放せないでいる。そういうことの積もり積もった積み重ねでわたしの部屋は片付かない

2013-02-23 | カテゴリ: weblog, たわいないはなし | タグ:  

 

尊敬のプラカードを掲げて他人を踏む

twitterで書いたことをまとめて残しておきます。すべてそのままコピーしたものです。
言及しているリンク先のアドレスはここに出しません。お手数ですが元ツイートtwilogなど見てください。
またこの文章中で「SW」とはSex worker=性労働者(性別に関わらず、仕事として性行動をする人)を指します。

 

しんどい文章を読んでしまったとチラッと書いた。これのことでした。http://〜〜 (SWにはあまり勧められない)終わりのところね。なぜしんどいのか説明することがさらに苦痛になりそうな見通しがあったので、おとといは言えず。でも誰かと話したい気持ちもある。

この文はもともとセックスワーカーとは関係のない議題のために書かれたもので、それはSさんという女性にまつわる騒動で、わたしはその騒動が話題になっていることだけは知っていたけど自分の中になんのまとまった考えも持っていない。だからどこまで話していいのかよく分からなくて自信がないな。

筆者の方が”paradox”として示しているところにはすごく大事な視点が含まれていると思った。セックスワーカーはそれの欠如ゆえに辛い思いをさせられる機会もまたある。だけど「僕の主張は〜考えている」の文全体を読むと、決定的に抜け落ちているものがあると感じたんだ。

もしSさんに「風俗で働け」と言う他人がいたとしたら、現在風俗でそこそこ楽しく働いているわたしもやっぱり「ひどい」と思う。その理由は、SWが差別されるべき存在だからじゃなくて、SWがいま実際にそこかしこで差別されている存在だからだ。それを完全に跳ねのける術はわたしの見る限り、ない。

もちろん、その差別にめった打ちされながら飛び交う弾丸の中を這ってゆくのがSWの生活じゃないよ!でも、けっこうな豪雨は降ってる。わたしは傘を持ってはいるけれど、すてきなお天気の場所で手ぶらで買い物に行く人と「同じ」とはやはりみなせないと思う(そして傘があるのは幸運だからだ!)。

「プライドを持って働けば周りの好奇の視線など取るに足らないものは気にならないはず、無理解な人の心無い発言など相手にしなければよい」なんて言い方はよく耳にするけれど、当事者がひとりで跳ねのけられるものだと思っているなら「そんなことないよ」と言う。

ものすごく大きくて360度にわたって鉄壁の守りを誇る傘があったって、どんなに濡れても風邪をひかない強靭な身体を持っていたって、雨は止まないんだもの。

それを知っていながら「風俗で働けば?人を喜ばせる素晴らしい仕事だ、そう、料理人と同じじゃないか。同じだと思えないのは君の中に差別心があるからにほかならない!」と、今お金に困っている人に向かって他人が言い切るとしたら、わたしは「ひどい」って思う。

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2012-06-29 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ:  

 

あられもないわたし

ひとつ前の投稿は書いていてとてもつらくて、つらすぎて上手く書けず10日くらいかかりました。途中でうんざりしました。盗撮やらについて考えるのがほとほといやになりました。.jpgだか.TIFFだか知りませんが、今ごろどうしているでしょう。わたしを写したデータたち。

どうにも、なにひとつすっきりしなくて、わたしは疲れました。そして、ああ、もうせめて、これを書いて終わろう、と思いました。

同意の上でもなく無理やりでもなく、暴力を怖れて拒否を断念することとも、どれとも違うどうにもならないなんともいえない話を書きたかった。

書いたら少し落ち着きました。散らかした憎しみとモヤモヤを、とりあえず袋に入れることができました。いつでもまた破れる袋だとは思うけど。

やれやれ、です。

サプリメント

以前にわりと気に入っていた話も再録しました

チューリップ

2012-05-03 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ:  

 

あくまでもひとつの面としての、絶望のおはなし

(あまりいい話ではないので、読んでいて嫌な感じがしたり思い出したりしたら無理せずすぐに閉じてください)

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2012-05-03 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ:  

 

バスルーム

クリスマスにお客さんから、バスオイルのギフトをもらった。
特別なイベントごとでなくても、プレゼントに入浴剤をもらうことが多い。

女の子への贈り物、という感じがするし、使ってなくなるものをと思ってくれるのだろう。でも普段あまりお風呂まわりにこだわりのなさそうな(タワーマンションに最新の家電と住んでいて、お風呂ものはコンビニで買える商品ばかり)人が、どこでもは売っていないとても凝ったセレクトのものをくれて、不思議に思ってそっときいてみたことがある。

そうしたら「シーナちゃんお風呂が好きそうだから、デパートで店員さんに入浴剤の高くていいやつくださいってきいたらこれが出てきたー」という返事がかえってきた。 風呂場で長いこと遊ぶから、お風呂好きのイメージなんだよね、と。
実際にはお風呂でプレイするのはその人自身の趣味で、最初の時に頼まれて以来わたしは続けているだけなのだけど、そのときはとてもうれしかった。

彼らはお風呂場にいると、素直なように思う。ベッドの上よりも。
泡だらけになって洗い合ったり水鉄砲を飛ばしたり、という時間だけでなく、お湯の中で絡まり合って身体を触ったり舐めたりしている時でも、ベッドでのそれに比べると獰猛さや図々しさが弱まっているように感じるのだ。単純な楽しさ、うれしさ、男の人が持つどこに向けられたものでもない甘い恥じらい。そういうものがシンプルに伝わってくる瞬間に、バスルームで出会うことがけっこうある。それはとても素敵なので、疲れるけれどやめられない。

水に触れたり血行がよくなったりしてリラックスするせいなのかもしれない、となんとなく自分では考えていたのだけど。
「上になっていないから」というのも、あるんじゃないかしら……そんなことに、最近ふと思いあたった。

ベッドの上では、どうしても上と下ができてしまう。寄り添って愛撫することもできるけれど、それはあまりポピュラーではない。たいていの場合彼らは(無意識なのかそうでないのかはあるだろうけど)、上から覆いかぶさる形をとろうとする。
どちらがリードするわけでもなく上になったり下になったりするセックスがわたしは好きだけれど、仕事だとなかなかそうはいかない日もある。仕事であるうえ相手はよく知らない人なのだ、上下を交代することさえも上になっている人が主導権を握ることになる。それが男性で、まして「お客様の人」なんだもの。どうしても、あちらがこちらをひたすら「攻略」するようなプレイになる場合も多い(その時々での接客上のキャラクターなども少し関係しているだろうか)。そういうときの彼らは年代や性格が違ってもなぜか似通っていて平凡で、あとから思い出せない。

本番強要をはじめとする様々な「困った要求」は、たいてい上から降ってくる。 そしてこちらが受諾せずにいると彼らは迫ってくる、言葉や腕力や体重や、それをいつでももっと行使できるぞという揺るぎない威圧感をもって。それはあからさまに「気が大きくなっている」姿だ。

お風呂に入っていると、上下の体勢をとることはない。わたしが客の脚の間に入って向かい合っているか、同じ方向を見て重なるようになり後ろから抱えてもらう形になるか(これのせいでペディキュアをさぼれない)、もしくは向き合った彼の伸ばした脚の上にのっかってキスしたり、少し浮いてもらってフェラしたり。相手には基本的に安定した姿勢でいてもらって、その上でわたしがくるくると動く。身体の小さい方がささやかな主導権を持つ。 めったにないことだ。
それはなにげなく見えるけれど、彼らを「セックスにおける男らしさ」から、なにかひとつ解放する手助けとなることがあるのかもしれない。

自分のアシストがあったかどうかなんかに関わらず、とらわれていない人と過ごすことがわたしは好きだ。男らしさとか女らしさとか、公序良俗だとか金で買った関係だとか、とらえようとするさまざまな動きにさらされたこの場所で、それらに取り合わずただわたしの手を取って飛んでくれる人が好きだ。いつでもそうしようと誘っているわたしに気づいてくれる人がとても好き。

「高くていい入浴剤」は、もったいないというその人を説得して彼の家で使った。指の皮がふやけるまで遊んだ。

2011-12-30 | カテゴリ: たわいないはなし | タグ:  

 

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