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読んだ本:すべての女性にはレズ風俗が必要なのかもしれない。/御坊

永田カビさんの『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』というコミックエッセイをきっかけに、「キャストも利用者も女性の風俗店」がインターネットで話題にのぼり始めたように思います。わたしは書籍化される元となった作品(Pixivで発表されたもの)を読んでおり、時にハラハラしたり重い気持ちになったり、自分の仕事のこといっぱい考えさせられたり、また時に共感したりクスッと笑えたりもしました。ただ内容とは別に、プレイ後に料金を支払っている描写にたいへんびっくりして、せこいお客さんが少ないってことかな、でもちょっと心配だな、と思ったことを覚えています。
実際には料金は先払いとのことなのでこのことは取り越し苦労だったのですが、それ以来なんとなく気にはしていたのです。

つい最近になって『さびしすぎて〜』で永田さんが利用されたお店の方が書かれた『すべての女性にはレズ風俗が必要なのかもしれない。』を読みました。

ぱっとしない風俗業界で新しい可能性を切り拓こうとする人のユニークな一代奮闘記、として読む人も、女性が利用する風俗店という舞台に秘密めいたロマンティックなものを感じて本を開く人も多いだろうと思うし、女性の性的な欲求やファンタジーについて考えるきっかけになったり、いろいろな読み方がある本だと思います。

わたしは同じ風俗業界の違う業種である男性向けデリヘルで働いている人、として読み、同意できるところ、ひっかかるところ、驚かされたところも納得いかないところもありました。
ページをめくりながら考えたことや気持ちなど、主なところだけバーッと書き出します。この立場の人の感想はネットのレビューとかにも上がりにくいかなあと思うので、せめてわたしひとり分でもという気持ちです。

引用文中で「男性向け風俗店」と書かれているのは、女性のキャストが男性の利用者にサービスする性風俗店、という意味で使われており、わたしの文もそれに倣っています。

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p035 性風俗店のルールというよりも、ベッドを共にする者同士の、最低限の約束事
本当にそれ/いいこと言う/風俗店を利用する人全員刮目せよ/でもあまり認識されてないことが多くて日々疲弊するよね

p039 男性向けの風俗店では1時間3900円
少数で極端な例をあげるときりがなく、60分3,900円(だいぶ特殊なはず)でも60分39,000円以上(前者よりはある)でも存在するっちゃするのが男性向け風俗である/しかし本文中に明記されていないがホームページを見るとレズっ娘クラブの料金は男性向け待ち合わせ型デリヘルのボリュームゾーン内に入っていると思う[*1]/にも関わらず「びっくりの値段」「あちらは供給過多で低価格競争がとどまることを知らなくなっているそうで」と書かれることに違和感/極端に安い店に問題があることは事実だが/これでは男性向け=買い叩きとやっつけ仕事だらけ、といったイメージで読まれないか

p065 でもこれって、おかしいですよね
ここでおかしいと言われているのは男性向け風俗にも存在するシステム/危険な客をあらかじめ遠ざけられる非常に少ない比較的有効な方法のひとつ(個人的体験による)/男性向け業界においても客から支持が得られているとはいえないことは確かだが、おかしい、というフンワリした理由でつぶさないでほしい/利用者が女性でご自身が男性のため必要以上の威圧感を与えてしまう、そこに思い至らなかった、という反省なら超わかる

p076〜077 気づいてあげられなかったのは痛恨の極み
気づいてあげられなかったせいというより、そもそものやり方の不備では/まず男性向けではこの出張コース自体やる店は多くないと思うが、もしやるなら店の携帯くらいは持たされるだろう/せめて「連絡してくれればよかった」ではなく事前にそう明文化して伝えておくべきこと/トラブルが起こるべくして起こったこんなゆるゆるの体制で「ボロボロに」なってしまったキャストさんを思うと胸が痛む/これは男性向けにあるノウハウというか意識をもってすれば未然に防げた、十分想定可能なケースなのに認識が共有されていなかったことが悔やまれる

p087 性風俗店勤務が知られると決まってトラブルになるので、バレないよう自分でしっかり管理
無理やり辞めさせられたり、怒ったパートナーが営業妨害を働くなどすると店は大損失なのは事実/しかしプライベートのパートナーに仕事を明かすなと要求するのはプライベートへの立ち入りそのものなので前段と矛盾している/ちなみに男性向けでそのような指示をされたことは一度もない/ただしパートナーや家族に明かしているか否か、明かさない場合なんという建前にしているかを店が把握しておくケースはよくある

p092〜093 個人で性サービスを〜常に危険と隣り合わせだと断言できます
いわゆる直引きに関しては、店側が集客にかけたコストを無駄にされる行いであるというのは分かる/が、この文脈で店舗に属さないセックスワーカーたちを危険だからという理由で否定するのは筋違いであり、単なるワーカー間の分断になってしまっている/しかも無所属のセックスワーカーへの風当たりはひときわ強いという現状がある/後ろ盾のない無所属の女性が心配だと言いたいのでもそれは別の話、言いっ放しの切り捨てにならぬよう配慮が必要では/店舗に属すにも属さないにも理由があり、その選択(もしくは選択の余地のなさ)は極めて個人的な事情である、直引きが迷惑だという話のついでに持ち出すべきではない

p113 もし搾取していたなら〜マシな暮らしができていたでしょう
理不尽な言いがかりに悩まされたのだろうと思うが、搾取にあたるかどうかは使役する側の生活水準の程度とは関係がないので反証として不十分では/風俗業界の使う側と使われる側(おのずと男性→女性となる)に存在してきた搾取を考えると経営者が男性というだけで警戒する気持ちも理解できる/明確な反証もできたはずだと思うが本書のカラーと合わず省かれたのかも/性労働=すべて強制労働であり搾取と捉えた結果の働く人(経営者・スタッフ・キャストすべて含めて)への偏見は多いので、ある程度シビアに書いてもよかったのではと個人的には思った

p118 双方が検査結果をオープンにすれば〜不安に駆られることもありません
p118 「病気をうつされたらどうしよう」という不安をなくす手立ては用意できました
男性向けでここまでやれている店はまずないと思う(やろうとして失敗したところはあったか)ので、とてもうらやましいしこの文化がどうにか男性向けにも流れてこないかな〜などと思う(無理だろうな)/その上で、さらに一歩先のことになるが/検査結果が証明するのは検査日時点での状態であり利用日ではない/(HIVに関してはさらにタイムラグあり)/陰性の検査結果があるからといってSTIの心配が100%ないかのように言うのは正確でない/よってその「手立て」は手立てとして十分ではないしそもそも完全に可能性をなくすこと自体が不可能、そういうサービス内容で運営しているのだから/ならばうつしあわないように個人で出来る工夫にどういったものがあるか、それでもかかったときにはどう治療すればよいかを語ることはできないだろうか/それこそがSTI問題の本質、本来向き合うべきところではないか/陽性だった場合どうフォローアップしているかを書いてもらえたらとてもよかったと思う/でなければ単にSTI=悪 という短絡的な認識を助長するだけ/と思ったら7年間1件も陽性が出ていないとのこと(すごい)/参考URL:[衛生対策について レズ風俗大阪レズ鑑賞クラブティアラ]/この先最初にSTIに感染するキャスト(続けていれば必ずいつかそれは出る)が罪悪感を持たずにすむように対応してほしいというお節介を強く感じる

p129 外でもホテルでもスマホをバッグに入れておいてさえいただければ、キャストはもう何も心配することもなく
「え!?」と声が出そうになった/というのは、わたしの日頃の業務はこんなありさまだからです/(このブログ過去記事)[ざまあよりも楽しいこと(仕事中の盗撮被害について)]/女性向けのお店はおそらく加害行為の率が低いのだろうな、だからわたしたちほど警戒もしていないのかも、とは感じていたが、この一文で思い知らされた感がある/スマホにさえ気をつけていればよかった時代に戻りたくてたまらないというのに/いや、そんな時代はなかったか/この先男性向けで蔓延っているような行為が持ち込まれなければいいがと切に思う/しかしもしかしてこれが良からぬ人に手口のヒントを与えないための書き方であったなら…とすら思う、だとしたら申し訳ない[*2]

p131 キャストも目の前で金額をあらためるようなことはしないそうです。それをやってしまうと現金の生々しさに、やはり雰囲気が損なわれます
「え!?」と今度は声が出た/同様のことは男性向けでも日常的にあるが絶対にいただいた時&帰る時の2度数えるよう言われるしわたしもそうしたい/わざとだろうとうっかりだろうと人間は数え間違いをする/そして雰囲気云々というのは故意に数え間違えた上で封筒の中をあらためさせない人物の常套句でもある/万が一現金に過不足があった場合すべて店が背負ってくれるのだろうか、そうでなければこんなこと言っていいものではない/「キャストのあいだに信頼関係ができて(原文ママ)」いるとあるが、そこへ店から乗っかってこられると困るのでは[*3]/雰囲気を壊してはならない、客の機嫌を損ねてはならないというプレッシャーはキャストに必ずあるので、せめて店だけは取引の公平性の方を優先する立場でいてほしいが

p132 一般的な男性風俗で「現金で支払うと、雰囲気が悪くなる」という話は聞いたことがない
前述の通り普通にあるよ/現金の手渡しがどうしても嫌でクレジットカードしか使わない人や/クローゼットに封筒を忍ばせる人などもいる(目の前で金額を確認するのがルールのため困る)/店と電話連絡する姿を見たくない、現金のやり取りをしたくないから銀行の個人口座に振り込ませてほしいという理由で直引きや月極の愛人契約を要求されることもよくある

p133 これは男性向け風俗ではまったく見ない現象でしょう
決してよくあることではないが「まったく見ない」ともいえない/手作りのお菓子やお弁当を持ってこられて困ったことは何度もある

p134 キッチンがついたホテルを予約してキャストに手料理をふるまった
これがOKということはやはりすべてにおいて基本的にお客さんを相当信用するんだとわかった/かなりのギャップがあるのだ/男性向け(「ペットボトル以外の飲み物、濃い色の飲み物に要警戒」といった話をごく普通のテンションで話す)で働いている自分の視点ではどうしても不安に感じてしまうので、なにごとも起こらなければいいがと思う

p145〜146 ウチには“講習”がありません〜一般の男性向け風俗でも、新人への講習がないお店は多いそうです〜スタッフがキャストに行為を強いるケースもあるのだとか
p175 “講習”と称して男性スタッフの相手をさせられるというお店もあるといいます
男性向けの店で不必要な実技講習を強いられるという問題は存在し、「趣味講習」と呼ばれる(本番行為までも強いるケースは本番講習と言ったりもする)/わたしも何度か被害にあったしぜったいゆるさん/が、男性スタッフが相手役を務めるものすべてが悪ではない/個人的にシャワー時に性器周りの特徴(病気や病気でないものの見た目)を観察しやすい体勢の取り方、男性器の洗い方、部位ごとにに具体的にどの程度の力加減に抑えるべきか、どさくさに紛れて挿入を目論まれたときに効果的な体勢などを習ったことは長年にわたり役に立っている[*4]/「お客様ひとりひとりによって違うため、絶対の正解がない」これは本当のことだとわたしも強く思う、しかし性的コミュニケーションに<絶対の正解>はなくとも<超高確率で間違い>はあるのだ/とくに性経験のまったくない女性などは自分に備わっていない身体の器官の扱い方が分からないのは当然なので講習があること自体が問題ではないはず/講習はキャストと客双方の安全に関わる/(タマを揉んで責めろと言った客が力強く握られて大クレームとか聞いたことあるよ)/講習代わりの観賞コースがなかった時代に「性経験がない新人」を「事細かに書かない」マニュアルを読ませただけで客の前に出したエピソードを、2時間後顔がシュッとしてたから大人になったようだ、と成長物語として読まされるのはきつかった

p148 キャストはただの従業員でなく、お店を一緒に作っている同志
ここはちょっと驚いた/想う気持ちの話ではなく、「従業員」という言葉が出てきたことに/従業員であるなら、雇用保険・労災保険があるということで、もしそうならすごい/通常わたしたちは店と雇用契約を結んでいないので従業員ではない/たとえ従業員のような働き方をしている場合でも、労基法における労働者としての権利を持たされない/ケガでもすればそれまで、自己責任(治療費を経費計上することもできない)/が、仮に労基法を適用されるとそれはそれで非常に困る部分も出るため難しい/等の仕組みを店から明確に説明すらされていないことがほとんど/このあたりは既存の風俗業界の長年の大きくて複雑な課題であり、非常にデリケートな部分/法律関連は難しくわたしも正確な知識を持てていないが、「従業員」がセンシティブな言葉なのは確かなのでもし単なる働いている人という意味で使ったのなら温度差を感じる/だって著者がそのことを知らないはずはないから

p162 「いつまでもあると思うなキャストと割引」
ほんっとーーーーーーーにそれ!!本当にいいこと言う!!全員刮目せよ!!!辞めた子を追っかける人まじでこわいものね!

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全体を読んで、このお店が性風俗業界の中のひとつというより、あくまで別物、男性向けのそれとはまったく違う文化として線を引いたところで運営されているのかなと感じました。
本文中に「一般的な男性向け風俗」が登場することは何度かあるものの、私達はそれと違って、といった意味合いで使われるばかりなので。

レズっ娘倶楽部の成功を受けて、おっビジネスチャンスかも、男性向けと違ってまだ市場があるぞ! と思われ、ちょっとしたブームみたいなものが起こってもおかしくありません。新しいお店が出てくるとして、おそらくその時も女性が女性を接客するメリットとして「安全」をあげて、いかがわしいものとは違うので大丈夫ですよ、という言い方をすると思います(p013のように)。明るくやさしく朗らかに。

男性向け風俗業界には問題がたくさんある。ほとほといやになるほどです。上でわたしはこの本の感想を書いているつもりなのに、いつの間にか業界にある問題をたくさん紹介してしまっていますよね。とくに働く側にとって解決される見込みの薄い問題が山積みで、景気も良くなくて、未来に希望のある業界じゃない。そんなところに属したって大損こそすれどなんの得もない、と判断されても仕方ないし、著者のお店に、それどころかレズビアン風俗業界全体に多大な迷惑をかけている男性向け風俗店もすでに実際にあるわけです(p174〜175)。

連帯してくれ、というのともちょっと違うし、いえる立場でもないし、既存の風俗の経営者がどんなふうに思っているかも分からないし、だいたいわたしも彼ら(既存の経営者たち)を信用しているかといわれると素直にうんと言えないし、あと売防法や風営法にしばられないという大きなアドバンテージもせっかくあるし、あちらとは違いますから路線のほうによほど利があるようにも思います。

でも——「あちらさんと違ってウチは清潔かつ安全ですから」と言われておくしか、引き合いに出されるしかないの?

女性向け風俗は確かに少し特殊な立ち位置にあると思いますが、働く人たちがセックスワーカーであることには変わりない。わたしがよーく見たことのあるような、理不尽な誹りを受けたり苦境に立たされることもあるでしょう。
既存の風俗に向けられる社会からの視線が厳しくそこで働く者たちがスティグマを負わされているままで、労働者としての権利が不十分なままで、女性向けの業種だけが免れて明るく堂々と発展していけるなんてこと、あり得るんでしょうか。
安全で清潔でキモくないから、いわば「準風俗」なんなら「名誉堅気」にしてあげましょう、という流れが起こらないとも言い切れないけど(この本を読んでそういう気持ちを持つ人もいるかもしれない)……万が一そうなったなら、レズビアン風俗はその扱いを受け入れるのでしょうか。受け入れざるを得ないかもしれない。それを責めることもできません、突っぱねろとは言えないです。

さて男性向け風俗には厳しすぎる現状もあれば、長い年月のあいだに積み重ねられたものもあります。夥しい数の実例から導き出された実用的なFAQがあります[*5]。まったく同じやり方でうまくいくわけではなくても、共通する部分はたくさんあるはずです。働いているキャストが脅かされ困ることも、仕事が充実しておもしろいなと感じることも、必ず似ている部分があるはず。
とくにキャストの安全を確保するための方法、そして及ばずトラブルになった時の方法はさらに共有されてほしい。ここはおそらく男性向けが格段にいろいろなHowToを持っています(それでもいたちごっこなところもあるけど)。たしかに女性のお客さんは数が少ないので広く受け入れる必要があるでしょうし、腕力にものを言わせて危険な行為に及ぶ率は男性に比べて低いでしょう。といっても、この先母数が増える可能性もあるし、人間同士にはどんなことも起こりうる。今ほどお客さんを信用してはやっていけない日も来るかもしれません。本書にも「相手が女性だからそんなに危なくはないだろう、というのは考えが甘い」「危険というのは身体的なものに限りません」としっかり書かれています(p093)。

いま男性向けの業界にあるもので、女性向けが利用できるものはすべて利用してほしい。使えそうなものなんでも持っていってほしいと思います。だってせっかくあるのにもったいないでしょう。
だからできれば、「安全で清潔で精神的な癒しを得られる[*6]女性向け、危険で不潔で公序良俗に反する男性向け」といった対比を生む未来を避けてほしいし、逆に女性向けがなんとな〜くバカにされたり除け者にされるようなこともあっちゃいけない。必要に応じて互いにつながれるような舵取りがなされてほしい。そういうのって、雰囲気みたいなボンヤリしたもので決まっちゃうから誰かが何かをしてどうにかできるものじゃないのかもしれないし、心の隅っこでうっすらヤキモキするしかないんですけど。

それから、既存の風俗業界(水商売とか、他のところにも)って、働き方によってうっすらとしたふしぎなヒエラルキー? みたいなものを着せられています。
本番あり/本番なし 脱ぎあり/脱ぎなし 抜きあり/抜きなし 高級店/激安店 みたいなジャンル分けによる階層といったらいいでしょうか(といってもこれが常に一定の方向を向いていなくて、複雑)。ここへさらに貧困がどうだのプロ意識がどうだの誇りを持って働いてるからどうだのこうだのと絡めて論じられ、無遠慮で無責任で気ままな飲み屋の雑談レベルから知的にかしこまったふうの書籍まで、分析とジャッジメントが日々下されている。自分に向けられたものでなくとも、感じ取ることは多々あります。

これを働く人が内面化してしまっていることがあり、「私はソープやるほど堕ちてないから」「オナクラ(基本的に手だけのサービス)みたいなハンパなことしてるやつに言われたくない」とか、書いてて胸が痛いけどそんな感じにいろいろ複雑なのです。
他人への意識だけじゃなくて、業種を移るにあたってひどく自分を責めてしまったりとか。そんなのめちゃめちゃ不毛すぎるし悲しいですよね、でも、完全に切り離されることは誰にもできない。それにあてはめることで自分の心を自分で支えてがんばるしかない時だってあると思うし、わるいのは着せてきた外野だし。

ここに「レズビアン風俗」が加わってひとつ階層が増える、そういう未来も十分起こりうると思うんです。
さっき書いたような、「準風俗」で「名誉堅気」の、そして「マイノリティ」というねじれた立ち位置に置かれてしまったとしたらと思うと、押し付けられるものはあまりにも重たい。だけど世間はそれをいともたやすくやるかもしれない。

もしそうなったら、ひときわ苛酷な分断が待っている気がするんですよ。

それ、ほんと無理。こわい。直接巻き込まれるのも、遠くからふと目にするのもいやです。うまく説明できないけど心がじりじりして泣きたくなる。

女性のための風俗が、目新しく面白い話題ってだけで終わらないで、すくすく育ったらいいなとは思います。でもできれば、こういうこといろいろ見知って勉強して考えてくれる人たちの手で育ててくれると嬉しいけど……それは難しいことだろう、ってあきらめるような気持ちもあります。近いようで遠い、だけど決して無関係ではいられない、つながったおなじ世界。女性向け風俗と男性向け風俗(この呼び分け方って不便で不十分でもっとなにかほしいと思うんだけどどうしていいかわからない)もそうだし、性風俗全般とそうじゃない場所だってそうなのにね。

はぁ、この先どうなんのかな。どうなっちゃうのかなぁ。
読み終わってそういう気持ちになりました。

 

 

*1 60分3900円の店は現在サッと検索しただけでは見つからなかった/あと実際には料金の高い店って60分コース自体があんまりないけど一応こういう書き方にしました
ボリュームゾーンといってもものすごく幅広いものなのは確かだし、わたしも関東以外の相場を把握できてはいないと思う、それでも違和感があるということです

*2 ああいう記事をすでに書いていてこのブログの読者は読んでいるはずなので許してほしい…とかそんな風に考えてしばらくドキドキした、そのくらいギャップがあった

*3 羽振りの良い常連本指名(やや高価格帯の店で、長いコースで何度も呼ばれていた)にお金をちょろまかされた(彼自身が払ったお金を後でこっそり抜き取られた)ことがあります
お金に困っていたとは思えないので腹いせ(店で怒られて立場が悪くなることを期待、とか)の方がまだありえるけど、結局分からない
なんでそんなことを、と理解に苦しむようなことって普通に起こるんだよね

*4 この慣習がいまどれくらい残っているのか廃れているのか分からないけど(ふと気づけばベテランになっていたからです…)実技講習では店からキャストに報酬が支払われていた(1本分の仕事の最安値と同等かやや安い程度の金額だったかな)
講習中にうっかり(?)抜いてしまい多めの額をもらったりもした(特別な場合を除いて講習で射精するのは不名誉かつご法度なのだが、経験の乏しいキャストには勃起しないと教えづらいこともそれなりにあるしフニャフニャだとただでさえ非常にナーバスな状態の新人からなけなしの自信を奪ってしまうため「全くそういう雰囲気じゃなくても必ずたたせられる能力」を買われた彼、めっぽう早い体質の人だったのである)
講習は店の利益につながるもので、その都合につき合って通常の仕事と同等の行為を行ったキャストには対価を支払うべきと解釈されていたってことかな

望まれていないと知りながら裸になり、あれこれ説明しながら勃起を持続させねばならないかつ射精してはいけない、かように講習は精神的肉体的にハードで敬遠される仕事だと聞いた
実際にまともだった講習は地位が高くないスタッフから受けたことが多い(チクられたらボコられるってのもあるだろうけど)
一方ろくな指導もなく「ちょっと締まり具合を確認します、これは決まりですから(ニヤニヤ)」みたいなパターンはぜんぶそれなりの権力を持った人間だった、ぜったいゆるさん

*5 といってもそれがワーカーの間で効率的に共有されていないという問題があるんだけど

*6 この「精神的な癒し」を期待されること、セールスされることの問題もすごく大切な話なんですが、また別の機会にします

余談が多くてすみません!

2018-04-26 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

読んだ本:お母さん二人いてもいいかな!?/中村キヨ(中村珍)(2)


↑このリンクはアソシエイトです
この本を読んだ後にわたしが考えていたことを文章としての読みやすさなどは考えずただ考えたままで書いてみます。
本の感想とは違うので購入を迷っている人やなんかの参考になる情報は期待しないでね!!
迷ってる、という時点でその人は読んだ方がいい人、この本と巡り会うべき人だと思う。こんなもの読んでるひまにさっさと買うのがいちばんいいはずです。

 

表紙をめくるとあらわれるのは「愛って、なんですか?」という問いかけ。これがねーすっごくきつかった!とっさに目を背けたくなりました。
それはわたしが個人的に、この質問を嫌いだから。嫌いもきらい、大嫌いだから。
でも、キヨさんがそう問いかけるのならば、と思いページを繰り始めました(うそ、本当はその前に表紙カバー外して本体見ちゃった。これはモンスター?ハンター?ですか?)(他にゲームの名前をよく知らない)。だったら考える、考えなきゃ、と。これはわたしが憎んでいる「愛とは○○である」という話では絶対にないもの、だから大丈夫。そう信じられたから。
それはこれまでの(中村珍名義の)作品を読んだことでわたしの中に育っていた著者への信頼によるものなので、あらかじめ読んでいてよかったな、キヨさんのこともう知っていて、すでに好きになっていてよかったな、と思い、わたしったらえらいわー。と自分をほめておきました。

本当はこの質問は、わたしがわたし自身に向かって何度も何度も問いかけていることでもある、んです。もうやめたいのに何度も何度もいつまでも。やめたいのにね。

物心ついてから今日までの人生を振り返ると、「愛」と顔を合わせる場所のムードはだいたい決まっていたように思います。どこかから大きな苦痛を持ち込まれるとき——分かち合うべきようなものじゃなく、理不尽で不当な類いの苦痛——「愛」に、よく会いました。引き合わされた、という感じかな。
ものすごくつらいことと併せて、その理由として、紹介されたような。君を愛しているからだと、あなたが愛されているからだと、何度となく告げられてきました。それはとっても普通で当然で正当なことのように思えたし、もしかしたらそうではないようにも思えて、どちらと断定することははじめ全然できませんでした。どちらにしても「なんだか、思える」という程度で、解明する力などなかったです、子供のうちは。ただ、いやなこと、痛いことをしてくる愛って本当の愛なのかな? と、幼いころから子供なりに考えてはいました。

痛い痛いと言う前に、深呼吸して考えてごらん。暴力の中にも、愛によるものはある。それが真実なんだよ。凝り固まった心で拒絶していては、愛の存在に気づくこともないままに淋しい人生を送ることになってしまう。自己中心的な考え方からいったん離れて、自分がいかに愛されているか振り返ってみようよ。

……なーんつったりして。まあなんかそんなような声、それはいつも心の中にあって、反論する言葉をなんにも持たなかったので、黙っているしかありませんでした。
愛に逆らうことはできない。そんなことは、許されない。
愛は尊くてかけがえのないものだもの、失ってはいけないものだもの。そんなことはみんな知っているでしょう。
たとえそれがわたしの望むものと違った姿であろうとも他人の愛の形に口出しをしてはいけない、ただ黙って受け入れることができないのは傲慢だ。そう自分に教えようともしていました。

だけどじきに成長したわたしは、最終的に、受け入れなかった。愛の名の下にもたらされた自分の苦痛を、運命だといって受け入れることを結局はしなかったです。

暴力を振るう愛は本当の愛か? と考えることを、あるときやめたのだと思います。「本当」という言葉が邪魔なんだ、と気づくに至ったのかな、きっと。
愛はいつでも人を生かすものというわけではなく(世間でそういうことになっていたとしてもね)、殺すのもまた簡単で、愛が本当か本当じゃないかは、「死んだ」という事実の前ではたいした意味を持たない。大事なのは生きるか死ぬかで、愛だったかどうかではない、ましてその愛が本当だったかどうかなんて心の底から全然どうでもいい。つくづくどうでもいいよ。そんなふうに。だいたい「本当」という言葉だって、酷くあやふやで実体のないものでしかないですもん。その前に「わたしにとって」とつけることができるなら、まだ少しはましだけど。

そこからだんだん、自分の中で整理がついていきました。暴力をもたらす愛もあるんだ、と認めるかどうかよりも、その愛とやらを受け入れるかどうかが重要で、それは自由だ、と結論付いた。愛を拒むこともしていいはずだ、誰ひとり許さないとしてもわたし自身が許せばよいということにしたいよ、と。
愛はわたしにとってシステムの名前か、なにか「仕様」のようなものをあきらめるときの言葉に成り下がりました。
だから心の底で愛に反発し、反抗し、見下した。いまだ「すばらしいもの」の顔をして語りかけてくる「愛」が恐ろしいものに思えたし、二度と取り込まれまい、二度と騙されまい、と思えばすごく冷ややかな気持ちになりました。愛という言葉を示してくる人を警戒し、それを「すばらしいもの、すばらしいだけのもの、すばらしいに決まっているもの、このすばらしさを知らない人は可哀想だね」と言う人をこっそりと軽蔑し、愛を信じなかったし、愛を持て囃す人はもっと信じませんでした。大人になったわたしを何らかの形で所有しようと愛をちらつかせてくる男性などはその最たるもので、その漢字の造形すら恐ろしく、また汚らしく見えるときだってありました。今もちょっとあります(そしてほとんど同じ憎しみの感情を「家族」という言葉に対しても持ってしまっています)(でも「鶴瓶の家族に乾杯」は好きだぜ)。

わたしを踏みにじってきたものはみな「愛の仮面をかぶせた何か」「愛と名乗らされた何か」「愛と書かれた箱に入れた何か」であったのだなあ、とやっとしっかり理解してからも、その言葉への憎しみを消すことは難しかった。その憎悪と恐怖の前ではほんとうになすすべがなくて、考えるだけで苦痛でしたから。

 

 

だけど——わたしは愛を知っている、とも、思っていました。不思議なことに、その自覚はあった。確かにわたしは『愛』が大嫌い、でも、愛を知らないわけじゃない、少しも理解できないわけじゃ、ないっぽい……と、自問自答することがありました。「それは愛じゃなくて、愛のラベルを貼った何かだ」と結論付いたのは、わたしの中にはわたしが受け入れる愛の基準があるということではないのか?と。でも、そこから先へはなかなか進めなかった。

すっかり大人になった今でも、たいして変わらない場所にいるなあ、と思います。いまだ確執がすごい、愛という言葉とわたし。
たとえば今の職業に就いて、出会う人に対して思う気持ちをできるだけ簡潔に表すとしたら「できれば、愛したい」になるとは思う……できる限りの慈しみと敬意、いたわり、気遣い、おもしろさや楽しさ、肯定、心が躍るようななにか、暖かいなにかをふたりの間に一時的につくりたい。
でも、それを当事者どうしでない誰かに「愛ですね!」と呼ばれたら? と思うと(呼ばれたこともある、めっちゃある)はらわたが煮えくりかえって吹きこぼれるわけよ。ああめんどくさい。

何回かは、愛してる、と人から言われたことがありました、面と向かって。淋しくてどうにもならなくなっているお客さんとか、あと通りすがりのお酒に酔った人から言われるそれは、しょうがないっていうか、喜べるものじゃないけど自分の中のあしらい方マニュアルみたいなものに則ってなんとかお片付けするしかない。でも、個人的な恋愛関係にある人だとそうもいかない。受け取らなくてはなりません。困る。
その時わたしがどうしたかというと、半ばパニックのようになり、身を固くし、相手には「あなた愛だなんて口に出して言うような人だったかしら? やだ恥ずかしいクスクス」くらいのニュアンスで伝わるように精いっぱい努めながら、わたしに対してその言葉は使わないでほしい、と遠回しに遠回しに言いました。

同じ相手に、数日後にまた言われた(遠回しすぎたんだね。笑)ときは、「愛してるなんて言葉は一生に何度かだけ言われたいタイプだから(超絶ウソ)、あまり簡単に口にしないで、わたしそういうの苦手」あたりのニュアンスで伝わるように精いっぱい言った、と思います。実はあんまりはっきり憶えてない、いっぱいいっぱいだったから。

それからはもう、言われることはありませんでした。
言ってくれた人のことは、好きだった、はずだった。カジュアルな言い方だったけど、きっと真剣な気持ちで言ってくれたのだろうとも思う……けど、今までわたしが真剣に苦しんできたその「真剣」と戦わせたら、とうてい釣り合わない、とわたしは思ってしまいました。傲慢だけど、相手の真剣を自分のそれよりもかなり低く見積もってしまった。頭に血が上って、心がガタガタ震えて、一目散に逃げたかったのです。うるせえな!と思っちゃったんですやれやれ。

 

世間がわたしへ説いてくる愛。
わたしが受け取って受け入れる愛。
わたしがどこかへ差し出すことのできる愛。

1番目はもう嫌というほど見聞きしたし傷つけられたし、お付き合いの仕方を考えながら当たり障りなくやりくりしていきたい相手です。2番目は、差し出されたその時には愛なんてリボンはついていなかったけれど、わたしが「そういうことにして」心の奥の方に大切にしまってあるものたち。3番目は、とっても重要だと分かってはいるけれど、その内容をまじまじと見て言葉にしたことはない、その作業からやっぱり逃げたい、という有様です。

 

わたしの受け入れる愛ってどんなものだっけ、と考えたとき、すぐに思い浮かぶシーンが2つあります。

ひとつは、小学校に上がる少し前のことだったかな。
母がわたしの枕元で(当時は暇さえあれば寝込んでいたのでだいたいそういう記憶)、言い聞かせてくれたこと。

ママはね、ユリのママだけど、パパでもあるのよ。それと、ユリにはおにいちゃんもおねえちゃんもいないけど……いなくてごめんね、でもママがおにいちゃんで、おねえちゃんなの。それから、もしユリが望むなら、妹でもあるし、弟でもあるよ。それから、ママはユリのお友だちでもあるのよ。もし思うように学校に行けなかったり、学校でお友だちができなかったとしても、なんにも心配いらないの。
それとね、ユリが大人になるまでは、ママは死なないことになってるからね。神様と約束したから、絶対よ。
だからゆっくりお友だちを見つければいいからね。
これからどんなことがあっても、ママはユリのママで、パパで、おねえちゃんで、お友だちだからね。どんなことがあってもよ。いちばんそばにいなくても、そうなのよ。わかるかな?

……やれやれだよ。今になってさまざまな事情を知り、当時の彼女が置かれていた状況を思えば、わたしを手放さなくてはならなくなる不安を抱えておりそれを拭い去るため自分に言い聞かせていた、という解釈もできます。その不安を察知して情緒が不安定だった幼いわたしをとにかく安心させたかったんだろうなあ、とも思えます。かわいそうにのう。

ただ、このとき感じた強い安心感は、今でも思い出すことができるし、このとき授けてもらった自己肯定感はとっくに成人したわたしの中にもしっかりと存在しているものです。
これは愛ではなく「親のつとめ、保護責任」や「母性」というものだ、と言う人もいるかもしれないが、わたしにとっては愛と呼んでもかまわないものです。受取人としてそう認識するもん。これに関しては受取人が決めていいと思うんだよね。

もうひとつは、10歳くらいのとき。家族のひとりであった大人から暴力を受けた数日後のこと。

腫れがすっかり引くのを待ってから登校したつもりだったのに、放課後にひとりの女の子が、わたしを見つめて言いました。ユリちゃん、顔、どうしたの。ほんの少し残った傷を、目敏く見つけられてしまったのです。
その女の子、リホちゃんのお父さんは、傷害事件を起こして服役しているという噂がありました。少なくとも暴力が原因でご両親が別居されているというのは確かでした(当時暮らしていたのはこういう話が町中にまわるような田舎だった)。わたしは「当事者の目は鋭い」ではなく「リホちゃんはよく気がつく細やかな子」と受け取って、とくに身構えもせずに答えました。ちょっとぶつけちゃったの、と。

するとリホちゃんは、そっか、ぶつけちゃったのか、痛かったね、と言って、それからわたしのことを両手で抱きしめた。そして「きいてごめんね」と言いました。

リホちゃんは、声を殺して泣いていて、驚いたわたしも泣かないでと言って泣き、しばらくふたりでシクシク言いながら抱き合っていたけど、それ以上何かを話すこともありませんでした。

ただ、リホちゃんが家族だったらどんなだったろう、と思いました。家族を自分で選べたらよかったのに、と。自分で選べない家族に意味なんかない、と激しく思い、でも同時に「かぞくをたいせつに!」と呼びかけてくるものの多さにもすでに触れる機会がたくさんあったので、ただただ困り果てました。

これもまた愛ではなく「女の子の優しさ」や「被害児童どうしの哀しい連帯」と言う人もいるかもしれません。わたしにとっては愛でいい。受取人はそう受け取った。この日のことに近い出来事は多々ありますが、代表してこのときの教室の風景が思い出されることが多いみたいです。

どっちの愛も、無力だな、と思います。母もリホちゃんも当時の状況下では非力な被害者だったし、わたしにしてくれた行いも、それ単体では無力で何もなしえない、その場ではなんの状況を変える力もない、役に立たないなぐさめのようなものでした。
でも、長い間生きている。ずっとずっと生きていて、わたしと一緒にいるものです。確かにわたしのどこかに蒔かれ、発芽し、根付いたなあ、といま思いますし、そうひしと実感する機会が思春期の後に何度も訪れました。

さて、じゃあ、両手いっぱいの苗木を抱えてわたしは、これからどうしたらいいのか。
そう思うと、わりと、途方もない気持ちになります。いい年して考えてこなかった自分へのガッカリ感もあるし、ですが愛や家族といった言葉とわたしとの確執は、決して終わった話ではないのです。定植しないと枯れるのでは、という漠然とした恐怖もあります。つらい。考えるのはつらい、苦しい、考えたくない。そう苦しがること自体が考える、に片足突っ込んでる証拠なんだけど、だったらさっさと両足突っ込みやがれよ、と自分を怒鳴りつけるとやっぱりつらいです。

「私はこの質問に答えたい!」
部外者の分際で図々しく名前をつけてしまうけど、さまざまな関係のさまざまな形の、ただただまぎれもない強い愛がそこかしこに散りばめられたこの本の最後の最後に記された言葉。本編を読んでいる間は横に置いておいた涙が、とっくに読み終わって家事をしながら(エリンギ裂いてた)ふとこの言葉を思い出したときつるりとこぼれました。答えたいと力強く言うキヨさんが眩しくて、大好きで、近づきたくて、でもわたしの胸ではどうしたって「答えたくない!」「誰も私に答えさせないで!」が優勢で……。
和解したいよね。ほんとはね。

箱の表書きに動じない練習をしたいです。
箱に書かれた品名に翻弄されたり心を乱されたりしないよう、その中身を自分で見て、なにをどれだけ受け取るかどうかを決められるようになりたい。

 

余談だよ。ちょっと前、わたしに向かって愛していると言う人物が現れて、その瞬間のわたしといったら、もしキヨさんの漫画の世界に住んでいたならば目玉がポポポポーンと飛び出してラーメンどんぶりの中にバッシャーンザブザブザブッといったであろううろたえっぷりでした(いや、誰もラーメン食べてなかったけど)。あああああどうしよう!えーどうしよう!この人のこと怖くなんのちょちょちょ超ーーいやだなーーーーっていうのを、そうねだいたい愛してるの「し」くらいでもう考えて目玉ザブンザブン泳がせてたよね。こういう瞬発力ならあるんだよ。

でも続きがあって「愛してる、と言ってもいいですか? 言わない方がいいですか?」だったの。
えっ? 選ばせてくれるの? それわたしが選ぶの? そこに許可出していいの? 権利くれるの? でももう言ったのと同じじゃね? あ、同じじゃないか。と思ったらなんと可笑しいことに突然世界が開けて、びっくりしました。(その人は別にわたしの過去のなにを具体的に知ってるわけでもない、と思う)。
とはいえ想定外の質問なので、変わらずザブサブしてはいたんですが。わたしが長年求めてさまよい、自分が自分自身に対し許すことによってどうにか心を立て直してきたものも権利でしたけど、他人から当たり前の顔で与えられると、こんな気持ちなんですね。
今までにも与えてくれた人はいたんだよ、それは当然いっぱいいたんだけど、こういう言われ方はなかった。

「言うのはあなたのほうの権利なので、言ってもいいですよ。お返事できませんけど」

とりあえずそう言っといたけど、あーびっくりした。いろんな人がいますよね。

びっくりするわたしを、少し離れたところから10歳のわたしが見ていたと思います。いつかあの子を手招きして抱っこして、なんにも心配いらないよって言ってあげたいな。

 

 

ごっちん愛してる!!!

2015-11-10 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

読んだ本:お母さん二人いてもいいかな!?/中村キヨ(中村珍)(1)


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「感想文」を書くのはとてもとても難しすぎたので、とりあえずわたしが特に気に入ったり印象に残った場面を端から挙げることにします。

p020 サツキさんの答えは一見ただのチャーミングだけど実はとても言い得てるし(その言葉の解釈によるんだろうけども)当てはまる人けっこういるって思った、わたしもそうだ
p024 サツキさんの「起きて!」がすごくかわいい……かわいい。はぁかわいい
p049 「創業百年おいしい亭」ててて適当!適当だけどこういう「漫画中での適当表現」におけるセンスってないですか? わたしアヴァール戦記に出てきた消費者金融の「サラサラバンク」とか好きよ(あれっごめんサラサラファイナンスだっけ)
p051〜052 わたしも「差別的で酷い話」を持ちきれずに「善い人に悪い事」思っちゃうことがあるとひしひし感じて、でもなんとなく話を聞いてもらえたような気持ちになった、うれしかった

p057 わたしも子供の頃にはそう思ってたかも……変ななつかしさ
p072〜073 サツキさんの絵柄がかわいすぎるよ!
p081 この「体感」を得る方法はライフハックとして広まるべき
p103 「そっちの家賃」でまた笑ってしまった(初見のnoteでもさんざん笑ったのに悔しい!)
p109〜 第七話でますみさんのことを大好きになってしまった(前から好きだったけど!)
p112 このコマ外の注釈が誰に向けられたものかはわかんないけど(笑)、誠実だしかわいいなって思っちゃった

p126 すいとんいいじゃん……すいとん大好きだよ……
p141 とりあえず握手、の有用性も知られるべき
p147 「遠くの一億人が理解してくれても」というサツキさんの言葉が刺さった、そそそそうなんだよ!!
p150 このページのサツキさんの心強さ頼もしさと、ご自身がうつと戦っている場面での姿とが並んで浮かぶ(それは強いサツキさんと弱いサツキさん、ということではないと思う)
p168 わたしは(noteの連載で彼女が7人、と知った時点では)勝手にサツキさんやキヨさんたちの関係を(わたしに近い)ポリアモリー(複数愛)の一形態なのかな、と思っていたのだけど、途中で必ずしもそうと言えないしわたしが何も決めちゃだめだ、と思い直して立ち止まった。「大変ヒイて」いながらもこの関係を継続運営する、できている、というのには並々ならぬキヨさんへの愛情が上回るということかしら、とか思いそうになるんだけど、わたしが感想を持ってものを言うべきじゃないし、名前をつけて理解しようとするのも違う感じするし、それを改めて考えたページがいくつかあったので書いておく

p174〜175 茶飲み話に全面的に賛同した。まったく「人は一人ずつ守るべき」だ。竹の塚せんべいうらやましい
p179 腕時計!香奈子さんなんて可愛いの!腕時計!
p183 ここの「女と女」という表現のところは決して「婦妻だから」「愛し合ってるから」ではないこと
p189 このモトナリくんの朝食における具体的で効率的で親切な注文の付け方、言葉で説明することの力がすごく鍛えられてる感じがしてさすがふたりの息子くん!と思った
p190 あとがき10回読んだ わたしの道も暗いのでわたしはどこかの街灯になりたいし、誰かがわたしの道の街灯になりたいという意思を持ってくれるなら信じて待つし、みんなで保全し合おうね

コマの枠の外(なんていうんでしょう)が黒くなるところが2カ所あるんだけど、その後半のほうのこと、わたしはその犯人が不幸になったらいいって思った。わたしに危害を加えてさらに嘲笑した人間について今もほぼ毎夜そうしているのに加えて、その犯人も呪いたいと思った。苦しんで苦しんで死ねもせずただ苦しめばいいと思い、読んだ日の明け方にベッドの上で心からそう願いながら数分間泣いた。

 

まだ2回しか読めてないのでこれからもっと読み重ねたら増える気がする、好きなページ。

ちょっと読んでみたいかも!と思った方はここから予告編みたいな試し読みが読めるよ。
《単行本試し読み》お母さん二人いてもいいかな!?〜レズビアンのママ生活〜

 

2015-11-10 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

【読んだ本】男しか行けない場所に女が行ってきました/田房永子

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田房永子さんの「男しか行けない場所に女が行ってきました」、迷ってる同業のひとがいるのでは、読んで嫌な思いするかもと恐れて手に取れないでいるのではって思ってる。だってこれまでわたしたちをカジュアルに侮辱してふんぞり返るような本が、似た感じの触れ込みでいっぱい世に出てきてるから。#

わたしもしばらくそれが気になってしまって手に取れなくて、でも田房さんが書くものなら泣くほど傷つきはしないだろうって、この前意を決して購入して読みました。これまでのご著書を読んでいなければ絶対にそうはしなかった、できなかった。#

まずこの「男しか行けない場所に女が行ってきました」ってタイトルがさあ、その男しか行けない場所に最初からいる女のことをハナから無きものにしてるんじゃないかって思って警戒するよね!笑。#

でね、やっぱり、無傷ではいられないというか、それってその言葉で書くべき?とか、そんなふうに言わないでよ、っていう部分がひとつもないわけにはいかない、それは誰が書いたってそうはいかないと思う。でも「風俗を体当たり取材したルポでーす!」って顔してる別の本とはやっぱりどこか違った。#

この本を書くにあたっての田房さんの葛藤が「経験していないことに口を出すことの下衆さを免罪してもらうアピール」としてではなく伝わること、セックスワーカーを特別な目で見るご自分を自覚し、それに関しても読み手に許しを要求してこないことが当事者としては安心して読めて嬉しかったです。#

でも、うーん、同業の女の子におすすめするかって言われると、自信ない、どうだろう、とても迷います。ある程度のキャリアがあって、性風俗業と自分との関係がいくらか安定してたり、あとこれまである程度失礼な本を読んじゃってきた人なら平気かなあ(ひどい基準だよ!)……あー分かんない。ごめん。#

(ここまでtwitterの転載)

 

この本はしばしば「女性目線」が新しい、という言い方で語られているけれど、わたしは風俗の「中の人」だもので「女だから行けない、見ることのない場所がどうなっているのかを『女性目線』で知ることができる」ことはなにも魅力ではありませんでした。それらについては既にあらかた見知っていて、へえ〜そんなのがあるんだ、という発見などないから。
そして「失礼な本」たちの威力はすごくて、ただでさえ他人の言葉から偏見や見下しを読み取るのはつらいのに、しかもそれが活字となり出版され書店に並んでいる事実にも打ちのめされるので遭遇してしまった際のダメージといったら目も当てられないよね。グハァ。それでもこの本を(びくつきながらも)読みたいと思ったのは、やっぱり「この人の書くもの好きだな」「正直に書く人だな」って気持ちをあらかじめ持っていて、希望が持てたからでした(ちなみにわたしが読んだことのあるご著書は「母がしんどい」「ママだって、人間」です)。

「私を含めたごく普通の一般人にはなかなか分からないが〜」のような前置きとともに、自分とは種類の違う無関係な男女が集まる場所として性風俗や水商売を描いた上で「彼らは〜である」と断定するような文章。それを読んでしまった時の暗く悲しい怒りがじりじりと燃え上がることは、この本ではなかったです。田房さんは性風俗を、すでにこの社会に当たり前に存在し多くの人々に楽しく利用されているものとして書いていたし、ご自身もまたその社会の一部であることも、きちんと書かれていたと思う。風俗嬢に対して引け目を感じることも、同時に蔑みの目を捨てきれないことにも正直だった。正直のポーズに隠したつもりで罵詈雑言を投げつけてくるタイプのあれ(あるよね?)とも違う、シンプルな正直さ。

一方で、たとえば23ページの風俗の種類表はちょっとあまりに大ざっぱすぎて「いやいやそれは……」と思ったり、それから「そのフレーズ、本当に必要?」とか「その書き方、本心なのかな(あるいはむしろ正直さの発露なのかな、と迷う)」と思わされた部分も、ちょこっとありました。

(148ページ)現役を引退したAV女優のひかるさんがかつて、AVは事情があってやっているだけで必要がなくなればすぐ辞めたい、と「ハッキリ」語っていた、その言葉を引用した直後に「ひかるさんはきっと今も、優しくて素敵な女性にちがいない。」という文が来てそれがこの章の締めとなっているところ。
これでは、AVの仕事ときっぱり訣別したひかるさんの意志がその優しさや美しさと関連付いているように読めてしまわないか? と思い不安になりました。

推測になってしまうけど、ここで彼女の「返済が終わったらすぐ辞める」という言葉を持ってきた意図、わたしは「切なさ」かなって思って。素敵な彼女がかつては裸を見ることもできるようなごく近い場所に、信じられないようなことだけど確かにいたんだということ、でも時が過ぎ今はそんな世界から離れてどこかの土地でただただ「きれいな女の人」として幸せに暮らしているのだろう、そうであってほしい、ということ……こう対比させることで過去のことが美しくすこし切ない夢のように浮かび上がるから。そこへ、田房さんからひかるさんへの、“知る術もないけれど、どうか元気で——”という気持ち、感傷的だけど切実に願う気持ちをこめたかったんじゃないかって。
でも読者の偏見を助長するって言うと大げさだけど、実際そういう目的でセックスワーカーの内面について知ったように書く人は存在するので、同じものとみなされる可能性に心がウッとなったのでした。感傷めいたセリフで雑にまとめて結局偏見を上塗りした文章ももよくあるし。

(153ページ)「まあ、全体的に異常だけど」という言葉からの3行がうまく読み取れなくて、「全体的に」というのが何を指しているのかもう少し書いてくれたらって思いました。他人(の体)に興味があってしょうがなくて、女性器を舐めるのも大丈夫と明るく、おそらくはちょっと得意げに語るかなちゃんに対し、彼女におどろき、惹かれながらも警戒もしている田房さん。そのムードや気持ちはすごく伝わってきたんだ。
でも、あの3行を読むとまるで「風俗店と、そこにいる風俗嬢は異常だけど、そこへ行く男達はまったく異常ではない」っていうよーく見かけるアレとそっくり丸かぶりのように読めちゃって、えっ? そう言いたいわけじゃないよね!? という疑いが拭いきれなくて、もどかしかった。

など、こういう細かい部分を言い出すときりがないというか、わたし個人の感性と能力に基づいた読解の結果による感想なので著者の過失とは言えない(本来の意図を知りようもないし)し、あげつらうようになるのはいやだなと思ったのだけど……ただ、読もうかどうしようか迷っている人へなにか参考になるだろうかと思って、ここに少し書いてみました(同業の女性に積極的に勧めることはできない、という意見は変わりません)。

「男しか行けない場所」とやらについては知っちゃってるから、それを「女性目線」とやらで書いたからって魅力にならない。とさっき書いたけれど、わたしが見ている日常を永子さんが見て、それがどんなものか表したものを読めることは、やはりおもしろかった。
わたしたちは同じ場所にはいないので同じ風には見えないの当たり前なんだけど「こっちからはこうだよ!」というのを、きっと、たぶん彼女はわたしにも聞こえるように言おうとしてくれてるんだって感じ取れる。そういう人は今のところとても少なくて、風俗についてああですこうですと書いておきながらそれが風俗で働く人自身の目に触れることなど少しも考えていないようなものばかりが澄ました顔している段階です(想定していないのか、それとも見られたところでかまわないのか、それともどうせ反論できないだろうし問題ない、と考えてるのかはわかりません)。

「そっかーそっちからはそんなふうに見えるんだね、でもね、それね、こっちからだとこんななんだよ、あのね、でもねそれでもね……」ってこっそり手紙(反論じゃない、抗議じゃない、でも全部肯定でもない)を書きたいような気持ちがちょっぴり芽生えた気がしてる。それは、風俗で働いたことのない友だちとわたしの仕事の話をしている時の、できれば傷つきたくない、傷つけたくない、と慎重にロープを握りあいながら(そしてときにはやっぱり傷つきながら)もできるだけ正直でいたいと、そしてもっと仲良くなりたいのにと思って心細く微笑みあうあの気持ちに似ています。

 

***
ところでこの本はマミさんの食いつきがすごかったよ!「おもしろすぎて一気に読んだ!」と言っていました。そしてお互いに心に残ったフレーズを言い合ってしばらく笑ってた。「自称29歳(笑)」「近藤の崖の下に近藤(笑)」「小池キッス(笑)」「MAX松野明美(笑)」と言ってはンフンフと笑う母……あ、あと小此木さんに好感を持った点も意見が一致しました。
そのうち、ふと昔のことを思い出したみたいで、そういえばうんと若い頃友だちから、セックスしたくて頭がおかしくなりそうな時があるの、私変かも、って相談されたことがあった、あの時動揺せずにせめて変じゃないよって言ってあげられればよかったわ、という回想をきき、わたしも何も言えはしなかったけど、そのお友だちのところへも永子さんの思いが通じたらいいなってぼんやり思いました。
またマミさんは「母がしんどい」で幼いエイコちゃんがお母様に角材を持って追いかけられていたシーンが非常にショックで今も強く覚えているようで、あのエイコちゃんが仕事を見つけて自立してこんなにしっかりがんばっているのね、よかった、という点に安堵していたようす。

なおこの文章中で田房永子さんのことを田房さんと呼んだり永子さんと呼んだり揺れているのは、わたしは田房さんのことを頭の中で作家さんとしては「田房さん」と呼んでいるのだけど、
既刊を読んだことでその人となりやこれまでの人生を少しお話していただいたような気持ちになっていて、さらに以前ツイッターでお話……しかもどうしたら臭いを気にせずフェラチオすることが可能か? 口から吸い鼻から吐く呼吸の特訓か!!みたいなだいぶくだけた(でも深刻だよね!)話におつきあいいただいたりした(さらにそこへ割り込んできたまったく知らない男性からの不快なリプライに対しともに戦った)ことにより、女の人生を生きる先輩としては永子さん、と思っているところもあり、頭の中がブレブレだからです。今読み返して気づいた。

本当は、エイコさん!って呼びたい感じ。

2015-02-18 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ: ,  

 

【読んだ本】尼のような子/少年アヤ〔3〕

本の感想でもないんだけど、読み終わって考えたことのメモです。

88ページの前半を読んで、それだいたいフォトショップだよう、ムダな落胆することなんてないよう、ははは。

とだけ最初は思ったんだけど。
もしかしたら「ああ、この時アヤちゃんが風俗だなんて大それた道に行かなくて本当に良かった。やはり心根がしっかりしているからやっていいことと悪いことの区別はついているのだ、よかったよかった」みたいに安心する人もいるのかもしれないね、いるんだろうな、と思い、少し苦い気持ちになった。

セックスワーカーの顔写真は、幸せそうには見えないことがほとんどだろう。無理もないことだと思う。
なぜなら多くの人は、その人がセックスワーカーであるという時点で幸せだとはあんまり思わないからだ。きっと幸せとは言い難いだろうな、と思っている(これは必ずしも蔑視や差別心ではなく、空想するのに使う材料がそういうものばかりしか世間にないからそうなっちゃうこともあろう)(それを偏見と呼ぶのですが)ことの方が多いからだ。不幸なんだろうなと見なしている相手の顔は不幸そうに見える。シンプルな仕組み。

151ページに出てくる絵本の描写と同じことだ。

読み古されたミッフィーの絵本が重なり、妙に哀愁を放っている。

「読み古されたミッフィーの絵本」それ自体は、ちっとも哀しい存在ではない。
例えば『最も幸せな絵本とは、最もボロボロになった絵本です。最も淋しい絵本とは、だれにも読まれずきれいなままの絵本です』こんな風にでも言えば、背の部分は朽ち見返しは取れかけ、すでに意味を成していないセロハンテープがペタペタ貼られたような絵本が途端に輝き始めるものです。
でも不安かつ複雑な思いで訪れた病院の待合室で見た「読み古された絵本」だから、「妙な哀愁」があるのだ。胸の内を含めたニュアンスを描写するために、その絵本は哀愁あるものとして存在したのだ。

「あの日見た男の子たちの笑顔の危うさは……」もこれと同じことで、感じた「危うさ」「空虚さ」は、他でもない書いた本人の内面が投影されたものだ。
アヤちゃん自身はそれに気づいていると思う。後に続く『いまも胸に深く沈んでいる』という文章は「あの時はどうかしてたなあ、あんな風に思い詰めて人の道を踏み外さないようこの先も注意しなくちゃ」という意味ではないなと思う。はっきりと書かれている以上の著者の内面をわたしが勝手にどうこう言うのはお行儀が悪いけれど、たぶん「あんなモデルみたいにキレイな男の子があれだけのサービスをして○○円なんだ。働くって、一体なに?」というような物思いだとわたしは解釈した。

この本の元となったブログも長く読んできているし、夜中のツイッターで心底くだらなくて心底楽しい話をし合った仲でもあることに多大な優越感を感じているわたしだけど、それなりの年齢に達した分別顔の大人でも知らず知らずに上から目線や特別視が滲んで隠せていないことがよくあるというのに、そういったものをアヤちゃんから感じたことは一度もない。
もちろん距離はあって、壁がある。でもそれは「未知である」「自分は経験していないことである」という壁だ。他人の職業だからあるところ以上には立ち入らない、という壁。

それはアヤちゃんの知性だなあと思い、尊敬している。

だから、

決してセックスワーカーを蔑視するわけではないし、なれなかったからといって僻んでいるわけでもないが、

これは、書いてくれなくてよかったのになあ、むしろ書かないでほしかった、と(セックスワーカーとしてのわたしは)思った。巷にどんどこあふれている、持ち上げるふりや自分をおとすふりをしてセックスワーカーを下に見る文章に表面が似てしまうのがすごくいやだった。書きたくて書いた文じゃないよね、気配りだよね。でもそんなふうに言わなくたって大丈夫なのに、わかってるのに、と思った。
思ったんだけど、でも、でも、やっぱりそれって現実的ではないってことだ。そうして書かないと「セックスワーカーを差別しているのか」ということにされてしまう可能性がある、ってことだよね。アヤちゃんはニュートラルでいるだけなのに、まわりはそうと受け取ってくれないことが充分に考えられる。
そしてこのことをわたしが指摘できるというのも、現役のセックスワーカーだって明かしたアカウントを持ってるからで、いわば特権なのかもしれない。

なんだか、悔しいな。

 

そんなようなことも考えたから、いちおう書き残しとく。
この本を読んでたのしかったってことは変わらないよ。

【追記・4/10】
引用部分を分かりやすく編集しました。
またこの文章の主旨は著者への抗議や批判ではまったくなく

・たとえわたしの前で「アヤちゃんが風俗なんかに堕ちなくてよかった」と言う人がいたとして、その人もわたしと同じようにアヤちゃんの幸せをただ願っているという事実が胸に痛い
・いつもセックスワーカーにニュートラルに接してくれているアヤちゃんに余計な「世間へのフォロー」を書かせてしまう見えない圧力を思い胸が痛い
・しかし「フォローなんて余計だ、差別の意図がないことは明白なのに、かえって嫌味にきこえて悲しい」などと偉そうに言えるのはわたしが当事者であり友人であるから、なのかも

といった答えのないモヤモヤです。モヤモヤメモです。よろしくお願いしまモヤ。

2014-04-09 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

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