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読んだ本:中村キヨ(中村珍)『お母さん二人いてもいいかな!?』(2)


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この本を読んだ後にわたしが考えていたことを文章としての読みやすさなどは考えずただ考えたままで書いてみます。
本の感想とは違うので購入を迷っている人やなんかの参考になる情報は期待しないでね!!
迷ってる、という時点でその人は読んだ方がいい人、この本と巡り会うべき人だと思う。こんなもの読んでるひまにさっさと買うのがいちばんいいはずです。

 

表紙をめくるとあらわれるのは「愛って、なんですか?」という問いかけ。これがねーすっごくきつかった!とっさに目を背けたくなりました。
それはわたしが個人的に、この質問を嫌いだから。嫌いもきらい、大嫌いだから。
でも、キヨさんがそう問いかけるのならば、と思いページを繰り始めました(うそ、本当はその前に表紙カバー外して本体見ちゃった。これはモンスター?ハンター?ですか?)(他にゲームの名前をよく知らない)。だったら考える、考えなきゃ、と。これはわたしが憎んでいる「愛とは○○である」という話では絶対にないもの、だから大丈夫。そう容易く信じられたから。
それはこれまでの(中村珍名義の)作品を読んだことでわたしの中に育っていた著者への信頼によるものなので、あらかじめ読んでいてよかったな、キヨさんのこともう知っていて、すでに好きになっていてよかったな、と思い、やだぁわたしったらえらいよねー。と自分をほめておきました。

本当はこの質問は、わたしがわたし自身に向かって何度も何度も問いかけていることでもある、んです。もうやめたいのに何度も何度もいつまでも。やめたいのにね。

物心ついてから今日までの人生を振り返ると、「愛」と顔を合わせる場所のムードはだいたい決まっていたように思います。どこかから大きな苦痛を持ち込まれるとき——分かち合うべきようなものじゃなく、理不尽で不当な類いの苦痛——「愛」に、よく会いました。引き合わされた、という感じかな。
ものすごくつらいことと併せて、その理由として、紹介されたような。君を愛しているからだと、あなたが愛されているからだと、何度となく告げられてきました。それはとっても普通で当然で正当なことのように思えたし、もしかしたらそうではないようにも思えて、どちらと断定することははじめ全然できませんでした。どちらにしても「なんだか、思える」という程度で、解明する力などなかったです、子供のうちは。ただ、いやなこと、痛いことをしてくる愛って本当の愛なのかな? と、幼いころから子供なりに考えてはいました。

痛い痛いと言う前に、深呼吸して考えてごらん。暴力の中にも、愛によるものはある。それが真実なんだよ。凝り固まった心で拒絶していては、愛の存在に気づくこともないままに淋しい人生を送ることになってしまう。自己中心的な考え方からいったん離れて、自分がいかに愛されているか振り返ってみようよ。

……なーんつったりして。まあなんかそんなような声、それはいつも心の中にあって、反論する言葉をなんにも持たなかったので、黙っているしかありませんでした。
愛に逆らうことはできない。そんなことは、許されない。
愛は尊くてかけがえのないものだもの、失ってはいけないものだもの。そんなことはみんな知っているでしょう。
たとえそれがわたしの望むものと違った姿であろうとも他人の愛の形に口出しをしてはいけない、ただ黙って受け入れることができないのは傲慢だ。そう自分に教えようともしていました。

だけどじきに成長したわたしは、最終的に、受け入れなかった。愛の名の下にもたらされた自分の苦痛を、運命だといって受け入れることを結局はしなかったです。

暴力を振るう愛は本当の愛か? と考えることを、あるときやめたのだと思います。「本当」という言葉が邪魔なんだ、と気づくに至ったのかな、きっと。
愛はいつでも人を生かすものというわけではなく(世間でそういうことになっていたとしてもね)、殺すのもまた簡単で、愛が本当か本当じゃないかは、「死んだ」という事実の前ではたいした意味を持たない。大事なのは生きるか死ぬかで、愛だったかどうかではない、ましてその愛が本当だったかどうかなんて心の底から全然どうでもいい。つくづくどうでもいいよ。そんなふうに。だいたい「本当」という言葉だって、酷くあやふやで実体のないものでしかないですもん。その前に「わたしにとって」とつけることができるなら、まだ少しはましだけど。

そこからだんだん、自分の中で整理がついていきました。暴力をもたらす愛もあるんだ、と認めるかどうかよりも、その愛とやらを受け入れるかどうかが重要で、それは自由だ、と結論付いた。愛を拒むこともしていいはずだ、誰ひとり許さないとしてもわたし自身が許せばよいということにしたいよ、と。
愛はわたしにとってシステムの名前か、なにか「仕様」のようなものをあきらめるときの言葉に成り下がりました。
だから心の底で愛に反発し、反抗し、見下した。いまだ「すばらしいもの」の顔をして語りかけてくる「愛」が恐ろしいものに思えたし、二度と取り込まれまい、二度と騙されまい、と思えばすごく冷ややかな気持ちになりました。愛という言葉を示してくる人を警戒し、それを「すばらしいもの、すばらしいだけのもの、すばらしいに決まっているもの、このすばらしさを知らない人は可哀想だね」と言う人をこっそりと軽蔑し、愛を信じなかったし、愛を持て囃す人はもっと信じませんでした。大人になったわたしを何らかの形で所有しようと愛をちらつかせてくる男性などはその最たるもので、その漢字の造形すら恐ろしく、また汚らしく見えるときだってありました。今もちょっとあります(そしてほとんど同じ憎しみの感情を「家族」という言葉に対しても持ってしまっています)(でも「鶴瓶の家族に乾杯」は好きだぜ)。

わたしを踏みにじってきたものはみな「愛の仮面をかぶせた何か」「愛と名乗らされた何か」「愛と書かれた箱に入れた何か」であったのだなあ、とやっとしっかり理解してからも、その言葉への憎しみを消すことは難しかった。その憎悪と恐怖の前ではほんとうになすすべがなくて、考えるだけで苦痛でしたから。

 

 

だけど——わたしは愛を知っている、とも、思っていました。不思議なことに、その自覚はあった。確かにわたしは『愛』が大嫌い、でも、愛を知らないわけじゃない、少しも理解できないわけじゃ、ないっぽい……と、自問自答することがありました。「それは愛じゃなくて、愛のラベルを貼った何かだ」と結論付いたのは、わたしの中にはわたしが認める愛の基準があるということではないのか?と。でも、そこから先へはなかなか進めなかった。

すっかり大人になった今でも、たいして変わらない場所にいるなあ、と思います。いまだ確執がすごいんです、愛という言葉とわたし。
たとえば今の職業に就いて、出会う人に対して思う気持ちをできるだけ簡潔に表すとしたら「できれば、愛したい」になるとは思う……できる限りの慈しみと敬意、いたわり、気遣い、おもしろさや楽しさ、肯定、心が躍るようななにか、暖かいなにかをふたりの間につくりたい。
でも、それを当事者どうしでない誰かに「愛ですね!」と呼ばれたら? と思うと(呼ばれたこともある)はらわたが煮えくりかえって吹きこぼれるわけよ。ああめんどくさい。

何回かはね、愛してる、と人から言われたことがありました、面と向かって。淋しくてどうにもならなくなっているお客さんとか、あと通りすがりのお酒に酔った人から言われるそれは、しょうがないっていうか、喜べるものじゃないけど自分の中のあしらい方マニュアルみたいなものに則ってなんとかお片付けするしかない。でも、個人的な恋愛関係にある人だとそうもいかない。受け取らなくてはなりません。
その時わたしがどうしたかというと、半ばパニックのようになり、身を固くし、相手には「あなた愛だなんて口に出して言うような人だったかしら?やだ恥ずかしいクスクス」くらいのニュアンスで伝わるように精いっぱい努めながら、わたしに対してその言葉は使わないでほしい、と遠回しに遠回しに言いました。

同じ相手に、数日後にまた言われた(遠回しすぎたんだよね。笑)ときは、「愛してるなんて言葉は一生に何度かだけ言われたいタイプだから、あまり簡単に口にしないで、わたしそういうの苦手」あたりのニュアンスで伝わるように精いっぱい言った、と思います。実はあんまりはっきり憶えてない、いっぱいいっぱいだったから。

それからはもう、言われることはありませんでした。
言ってくれた人のことは、好きだった、はずだった。カジュアルな言い方だったけど、きっと真剣な気持ちで言ってくれたのだろうとも思う……けど、今までわたしが真剣に苦しんできたその「真剣」と戦わせたら、とうてい釣り合わない、とわたしは思ってしまいました。なんと傲慢なことに、相手の真剣を自分のそれよりもかなり低く見積もってしまった。頭に血が上って、心がガタガタ震えて、一目散に逃げたかったのです。やれやれ。

 

世間がわたしへ説いてくる愛。
わたしが受け取って受け入れる愛。
わたしがどこかへ差し出すことのできる愛。

1番目はもう嫌というほど見聞きしたし傷つけられたし、お付き合いの仕方を考えながら当たり障りなくやりくりしていきたい相手です。2番目は、差し出されたその時には愛なんてリボンはついていなかったけれど、わたしが「そういうことにして」心の奥の方に大切にしまってあるものたち。3番目は、とっても重要だと分かってはいるけれど、その内容をまじまじと見て言葉にしたことはない、その作業からやっぱり逃げたい、という有様です。

 

わたしの受け入れる愛ってどんなものだっけ、と考えたとき、すぐに思い浮かぶシーンが2つあります。

ひとつは、小学校に上がる少し前のことだったかな。
母がわたしの枕元で(当時は暇さえあれば寝込んでいたのでだいたいそういう記憶)、言い聞かせてくれたこと。

ママはね、ユリのママだけど、パパでもあるのよ。それと、ユリにはおにいちゃんもおねえちゃんもいないけど……いなくてごめんね、でもママがおにいちゃんで、おねえちゃんなの。それから、もしユリが望むなら、妹でもあるし、弟でもあるよ。それから、ママはユリのお友だちでもあるのよ。もし思うように学校に行けなかったり、学校でお友だちができなかったとしても、なんにも心配いらないの。
それとね、ユリが大人になるまでは、ママは死なないことになってるからね。神様と約束したから、絶対よ。
だからゆっくりお友だちを見つければいいからね。
これからどんなことがあっても、ママはユリのママで、パパで、おねえちゃんで、お友だちだからね。どんなことがあってもよ。いちばんそばにいなくても、そうなのよ。わかるかな?

……今になってさまざまな事情を知り、当時の彼女が置かれていた状況を思えば、わたしを手放さなくてはならなくなる不安を抱えておりそれを拭い去るため自分に言い聞かせていた、という解釈もできます。その不安を察知して情緒が不安定だった幼いわたしをとにかく安心させたかったんだろうなあ、とも思えます。

ただ、このとき感じた強い安心感は、今でも思い出すことができるし、このとき授けてもらった自己肯定感はとっくに成人したわたしの中にもしっかりと存在しているものです。
これは愛ではなく「親のつとめ、保護責任」や「母性」というものだ、と言う人もいるかもしれないが、わたしにとっては愛と呼んでもかまわないものです。受取人としてそう認識するもん。これに関しては受取人が決めていいと思うんだよね。

もうひとつは、10歳くらいのとき。家族のひとりであった大人から暴力を受けた数日後のこと。

腫れがすっかり引くのを待ってから登校を再開したつもりだったのに、放課後にひとりの女の子が、わたしを見つめて言いました。ユリちゃん、顔、どうしたの。ほんの少し残った傷を、目敏く見つけられてしまったのです。
その女の子、リホちゃんのお父さんは、傷害事件を起こして服役しているという噂がありました。少なくとも暴力が原因でご両親が別居されているというのは確かでした(当時暮らしていたのはこういう話が町中にまわるような田舎だった)。わたしは「当事者の目は鋭い」ではなく「リホちゃんはよく気がつく細やかな子」と受け取って、とくに身構えもせずに答えました。ちょっとぶつけちゃったの、と。

するとリホちゃんは、そっか、ぶつけちゃったのか、痛かったね、と言って、それからわたしのことを両手で抱きしめた。そして「きいてごめんね」と言いました。

リホちゃんは、声を殺して泣いていて、驚いたわたしも泣かないでと言って泣き、しばらくふたりでシクシク言いながら抱き合っていたけど、それ以上何かを話すこともありませんでした。

ただ、リホちゃんが家族だったらどんなだったろう、と思いました。家族を自分で選べたらよかったのに、と。自分で選べない家族に意味なんかない、と激しく思い、でも同時に「かぞくをたいせつに!」と呼びかけてくるものの多さにもすでに触れる機会がたくさんあったので、ただただ困り果てました。

これもまた愛ではなく「女の子の優しさ」や「被害児童どうしの哀しい連帯」と言う人もいるかもしれません。わたしにとっては愛でいい。受取人はそう受け取った。この日のことに近い出来事は多々ありますが、代表してこのときの教室の風景が思い出されることが多いみたいです。

どっちの愛も、無力だな、と思います。母もリホちゃんも当時の状況下では非力な被害者だったし、わたしにしてくれた行いも、それ単体では無力で何もなしえない、その場ではなんの状況を変える力もない、役に立たないなぐさめのようなものでした。
でも、長い間生きている。ずっとずっと生きていて、わたしと一緒にいるものです。確かにわたしのどこかに蒔かれ、発芽し、根付いたなあ、といま思いますし、そうひしと実感する機会が思春期の後に何度も訪れました。

さて、じゃあ、両手いっぱいの苗木を抱えてわたしは、これからどうしたらいいのか。
そう思うと、わりと、途方もない気持ちになります。いい年して考えてこなかった自分へのガッカリ感もあるし、ですが愛や家族といった言葉とわたしとの確執は、決して終わった話ではないのです。定植しないと枯れるのでは、という漠然とした恐怖もあります。つらい。考えるのはつらい、苦しい、考えたくない。そう苦しがること自体が考える、に片足突っ込んでる証拠なんだけど、だったらさっさと両足突っ込みやがれよ、と自分を怒鳴りつけるとやっぱりつらいです。

「私はこの質問に答えたい!」
部外者の分際で図々しく名前をつけてしまうけど、さまざまな関係のさまざまな形の、ただただまぎれもない強い愛がそこかしこに散りばめられたこの本の最後の最後に記された言葉。本編を読んでいる間は横に置いておいた涙が、とっくに読み終わって家事をしながら(エリンギ裂いてた)ふとこの言葉を思い出したときつるりとこぼれました。答えたいと力強く言うキヨさんが眩しくて、大好きで、近づきたくて、でもわたしの胸ではどうしたって「答えたくない!」「誰も私に答えさせないで!」が優勢で……。
和解したいよね。ほんとはね。

箱の表書きに動じない練習をしたいです。
箱に書かれた品名に翻弄されたり心を乱されたりしないよう、その中身を自分で見て、なにをどれだけ受け取るかどうかを決められるようになりたい。

 

余談だよ。ちょっと前、わたしに向かって愛していると言う人物が現れて、その瞬間のわたしといったら、もしキヨさんの漫画の世界に住んでいたならば目玉がポポポポーンと飛び出してラーメンどんぶりの中にバッシャーンザブザブザブッ!!といったであろううろたえっぷりでした(いや、誰もラーメン食べてなかったけど)。あああああどうしよう!えーどうしよう!この人のこと怖くなんのちょちょちょ超ーーいやだなーーーーっていうのを、そうねだいたい愛してるの「し」くらいでもう考えて目玉ザブンザブン泳がせてたよね。こういう瞬発力ならあるんだよ。

でも続きがありました。「愛してる、と言ってもいいですか? 言わない方がいいですか?」だったの。
えっ?選ばせてくれるの!?わたしが選んでいいの?わたしが許可出していいの?権利くれるの?なにこの人!! と思ったらなんと可笑しいことに突然世界が開けて、びっくりしました。そんな簡単なことだったのか……と(その人は別にわたしの過去のなにを具体的に知ってるわけでもない、と思う)。
とはいえ想定外の質問なので、変わらずザブサブしてはいたんですが。権利をもらえるってなんてすごいことなんでしょう。わたしが長年求めてさまよい、自分が自分自身に対し許すことによってどうにか心を立て直してきたものも権利でしたけど、他人から当たり前の顔で与えられると、こんな気持ちなんですね。
今までにも与えてくれた人はいたんだよ、それは当然いっぱいいたんだけど、ここまで明確に言葉を使ってもらえたことってなかった。

「言うのはあなたのほうの権利なので、言ってもいいですよ。でもお返事はできません」

わたしの答えはこうでした。なんだよそれ……と思われるかもしれませんが、目玉ザッバザバのわりにはがんばったと思う。お酒の入った愛の告白は100%取り合わない、というマイルールがあるので仕方ありません。

何年も何年もひとりで背中を丸めて取り組んでいた暗号(100000000ピースのジグソーパズルに書いてある)を一瞬でチャカチャカチャカ〜っとつなげてそっと読んで去って行く他人っているんですね。あーびっくりした。

びっくりするわたしを、少し離れたところから10歳のわたしが見ていたと思います。いつかあの子を手招きして抱っこして、なんにも心配いらないよって言ってあげたいな。

 

 

ごっちん愛してる!!!

2015-11-10 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

読んだ本:中村キヨ(中村珍)『お母さん二人いてもいいかな!?』(1)


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「感想文」を書くのはとてもとても難しすぎたので、とりあえずわたしが特に気に入ったり印象に残った場面を端から挙げることにします。

p020 サツキさんの答えは一見ただのチャーミングだけど実はとても言い得てるし(その言葉の解釈によるんだろうけども)当てはまる人けっこういるって思った、わたしもそうだ
p024 サツキさんの「起きて!」がすごくかわいい……かわいい。はぁかわいい
p049 「創業百年おいしい亭」ててて適当!適当だけどこういう「漫画中での適当表現」におけるセンスってないですか? わたしアヴァール戦記に出てきた消費者金融の「サラサラバンク」とか好きよ(あれっごめんサラサラファイナンスだっけ)
p051〜052 わたしも「差別的で酷い話」を持ちきれずに「善い人に悪い事」思っちゃうことがあるとひしひし感じて、でもなんとなく話を聞いてもらえたような気持ちになった、うれしかった

p057 わたしも子供の頃にはそう思ってたかも……変ななつかしさ
p072〜073 サツキさんの絵柄がかわいすぎるよ!
p081 この「体感」を得る方法はライフハックとして広まるべき
p103 「そっちの家賃」でまた笑ってしまった(初見のnoteでもさんざん笑ったのに悔しい!)
p109〜 第七話でますみさんのことを大好きになってしまった(前から好きだったけど!)
p112 このコマ外の注釈が誰に向けられたものかはわかんないけど(笑)、誠実だしかわいいなって思っちゃった

p126 すいとんいいじゃん……すいとん大好きだよ……
p141 とりあえず握手、の有用性も知られるべき
p147 「遠くの一億人が理解してくれても」というサツキさんの言葉が刺さった、そそそそうなんだよ!!
p150 このページのサツキさんの心強さ頼もしさと、ご自身がうつと戦っている場面での姿とが並んで浮かぶ(それは強いサツキさんと弱いサツキさん、ということではないと思う)
p168 わたしは(noteの連載で彼女が7人、と知った時点では)勝手にサツキさんやキヨさんたちの関係を(わたしに近い)ポリアモリー(複数愛)の一形態なのかな、と思っていたのだけど、途中で必ずしもそうと言えないしわたしが何も決めちゃだめだ、と思い直して立ち止まった。「大変ヒイて」いながらもこの関係を継続運営する、できている、というのには並々ならぬキヨさんへの愛情が上回るということかしら、とか思いそうになるんだけど、わたしが感想を持ってものを言うべきじゃないし、名前をつけて理解しようとするのも違う感じするし、それを改めて考えたページがいくつかあったので書いておく

p174〜175 茶飲み話に全面的に賛同した。まったく「人は一人ずつ守るべき」だ。竹の塚せんべいうらやましい
p179 腕時計!香奈子さんなんて可愛いの!腕時計!
p183 ここの「女と女」という表現のところは決して「婦妻だから」「愛し合ってるから」ではないこと
p189 このモトナリくんの朝食における具体的で効率的で親切な注文の付け方、言葉で説明することの力がすごく鍛えられてる感じがしてさすがふたりの息子くん!と思った
p190 あとがき10回読んだ わたしの道も暗いのでわたしはどこかの街灯になりたいし、誰かがわたしの道の街灯になりたいという意思を持ってくれるなら信じて待つし、みんなで保全し合おうね

コマの枠の外(なんていうんでしょう)が黒くなるところが2カ所あるんだけど、その後半のほうのこと、わたしはその犯人が不幸になったらいいって思った。わたしに危害を加えてさらに嘲笑した人間について今もほぼ毎夜そうしているのに加えて、その犯人も呪いたいと思った。苦しんで苦しんで死ねもせずただ苦しめばいいと思い、読んだ日の明け方にベッドの上で心からそう願いながら数分間泣いた。

 

まだ2回しか読めてないのでこれからもっと読み重ねたら増える気がする、好きなページ。

ちょっと読んでみたいかも!と思った方はここから予告編みたいな試し読みが読めるよ。
《単行本試し読み》お母さん二人いてもいいかな!?〜レズビアンのママ生活〜

 

2015-11-10 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

【読んだ思い出】男しか行けない場所に女が行ってきました/田房永子

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田房永子さんの「男しか行けない場所に女が行ってきました」、迷ってる同業のひとがいるのでは、読んで嫌な思いするかもと恐れて手に取れないでいるのではって思ってる。だってこれまでわたしたちをカジュアルに侮辱してふんぞり返るような本が、似た感じの触れ込みでいっぱい世に出てきてるから。#

わたしもしばらくそれが気になってしまって手に取れなくて、でも田房さんが書くものなら泣くほど傷つきはしないだろうって、この前意を決して購入して読みました。これまでのご著書を読んでいなければ絶対にそうはしなかった、できなかった。#

まずこの「男しか行けない場所に女が行ってきました」ってタイトルがさあ、その男しか行けない場所に最初からいる女のことをハナから無きものにしてるんじゃないかって思って警戒するよね!笑。#

でね、やっぱり、無傷ではいられないというか、それってその言葉で書くべき?とか、そんなふうに言わないでよ、っていう部分がひとつもないわけにはいかない、それは誰が書いたってそうはいかないと思う。でも「風俗を体当たり取材したルポでーす!」って顔してる別の本とはやっぱりどこか違った。#

この本を書くにあたっての田房さんの葛藤が「経験していないことに口を出すことの下衆さを免罪してもらうアピール」としてではなく伝わること、セックスワーカーを特別な目で見るご自分を自覚し、それに関しても読み手に許しを要求してこないことが当事者としては安心して読めて嬉しかったです。#

でも、うーん、同業の女の子におすすめするかって言われると、自信ない、どうだろう、とても迷います。ある程度のキャリアがあって、性風俗業と自分との関係がいくらか安定してたり、あとこれまである程度失礼な本を読んじゃってきた人なら平気かなあ(ひどい基準だよ!)……あー分かんない。ごめん。#

(ここまでtwitterの転載)

 

この本はしばしば「女性目線」が新しい、という言い方で語られているけれど、わたしは風俗の「中の人」だもので「女だから行けない、見ることのない場所がどうなっているのかを『女性目線』で知ることができる」ことはなにも魅力ではありませんでした。それらについては既にあらかた見知っていて、へえ〜そんなのがあるんだ、という発見などないから。そして「失礼な本」たちの威力はすごくて、ただでさえ他人の言葉から偏見や見下しを読み取るのはつらいのに、しかもそれが活字となり出版され書店に並んでいる事実にも打ちのめされるので遭遇してしまった際のダメージといったら目も当てられないよね。グハァ。それでもこの本を(びくつきながらも)読みたいと思ったのは、やっぱり「この人の書くもの好きだな」って気持ちをあらかじめ持っていて、希望が持てたからでした。それはありがたいことでした(ちなみにわたしが持っている著書は「母がしんどい」「ママだって、人間」です)。

「私を含めた一般人にはなかなか分からないが〜」のような前置きとともに、自分とは種類の違う無関係な男女が集まる場所として性風俗や水商売を描いた上で「彼らは〜である」と断定するような文章。それを読んでしまった時の暗く悲しい怒りがじりじりと燃え上がることは、この本ではなかったです。田房さんは性風俗を、すでにこの社会に当たり前に存在し多くの人々に楽しく利用されているものとして書いていたし、ご自身もまたその社会の一部であることも、きちんと書かれていたと思う。風俗嬢に対して引け目を感じることも、同時に蔑みの目を捨てきれないことにも正直だった。正直のポーズに隠したつもりで罵詈雑言を投げつけてくるタイプのあれ(あるよね?)とも違う、シンプルな正直さ。

一方で、たとえば23ページの風俗の種類表はちょっとあまりに大ざっぱすぎて「いやいやそれは……」と思ったり、それから「そのフレーズ、本当に必要?」とか「その書き方、本心なのかな」って思わされた部分も、ちょこっとありました。

(148ページ)現役を引退したAV女優のひかるさんがかつて、AVは事情があってやっているだけで必要がなくなればすぐ辞めたい、と「ハッキリ」語っていた、その言葉を引用した直後に「ひかるさんはきっと今も、優しくて素敵な女性にちがいない。」という文が来てそれがこの章の締めとなっているところ。
これでは、AVの仕事ときっぱり訣別したひかるさんの意志がその優しさや美しさと関連付いているように読めてしまわないか? と思い不安になりました。

推測になってしまうけど、ここで彼女の「返済が終わったらすぐ辞める」という言葉を持ってきた意図、わたしは「切なさ」かなって思って。素敵な彼女がかつては裸を見ることもできるようなごく近い場所に、信じられないようなことだけど確かにいたんだということ、でも時が過ぎ今はそんな世界から離れてどこかの土地でただただ「きれいな女の人」として幸せに暮らしているのだろう、そうであってほしい、ということ……こう対比させることで過去のことが美しくすこし切ない夢のように浮かび上がるから。そこへ、田房さんからひかるさんへの、“知る術もないけれど、どうか元気で——”という気持ちをこめたかったんじゃないかって。
でも読者の偏見を助長するって言うと大げさだけど、実際そういう目的でセックスワーカーの内面について知ったように書く人は存在するので、同じものとみなされる可能性に心がウッとなったのでした。

(153ページ)「まあ、全体的に異常だけど」という言葉からの3行がうまく読み取れなくて、「全体的に」というのが何を指しているのかもう少し書いてくれたらなって思いました。他人(の体)に興味があってしょうがなくて、女性器を舐めるのも大丈夫と明るく、おそらくはちょっと得意げに語るかなちゃんに対し、彼女におどろき、惹かれながらも警戒もしている田房さん。そのムードや気持ちはすごく伝わってきたんだ。
でも、あの3行を読むとまるで「風俗店と、そこにいる風俗嬢は異常だけど、そこへ行く男達はまったく異常ではない」っていうよーく見かけるアレとそっくり丸かぶりのように読めちゃって、えっそう言いたいわけじゃないよね!?という疑いが拭いきれなくて、もどかしかった……。

など、こういう細かい部分を言い出すときりがないというか、わたし個人の感性と能力に基づいた読解の結果による感想なので著者の過失やなんかとは違うし、それなのにあげつらうようになるのはいやだなと思ったのだけど……ただ、読もうかどうしようか迷っている人へなにか参考になるだろうかと思って、ここに少し書いてみました(同業の女性に積極的に勧めることはできない、という意見は変わりません)。

「男しか行けない場所」とやらについては知っちゃってるから、それを「女性目線」とやらで書いたからって魅力にならない。とさっき書いたけれど、わたしが見ている日常を永子さんが見て、それがどんなものか表したものを読めることは、やはり魅力的でした。
わたしたちは同じ場所にはいないので同じ風には見えないの当たり前なんだけど「こっちからはこうだよ〜!」というのを、きっと、きっときっと彼女はわたしにも聞こえるように言おうとしてくれてるんだって感じ取れる。そういう人は今のところとても少なくて、風俗についてああですこうですと書いておきながらそれが風俗で働く人自身の目に触れることなど少しも考えていないようなものばかりが澄ました顔している段階です(想定していないのか、それとも見られたところでかまわないのか、それともどうせ反論できないだろうし問題ない、と考えておられるのかはわかりません)。

「そっかーそっちからはそんなふうに見えるんだね、でもね、それね、こっちからだとこんななんだよ、あのね、でもねそれでもね……」ってこっそり手紙を書きたいような気持ちがちょっぴり芽生えた気がしてる。それは、風俗で働いたことのない友だちとわたしの仕事の話をしている時の、傷つきたくない、傷つけたくない、と慎重にロープを握りあいながら(そしてときにはやっぱり傷つきながら)もできるだけ正直でいたいと、そしてもっと仲良くなりたいと思って心細くも微笑みあうあの気持ちに似ています。

 

***
ところでこの本はマミさんの食いつきがすごかったよ!「おもしろすぎて一気に読んだ!」と言っていました。そしてお互いに心に残ったフレーズを言い合ってしばらく笑ってた。「自称29歳(笑)」「近藤の崖の下に近藤(笑)」「小池キッス(笑)」「MAX松野明美(笑)」と言ってはンフンフと笑う母……あ、あと小此木さんに好感を持った点も意見が一致しました。
そのうち、ふと昔のことを思い出したみたいで、そういえばうんと若い頃友だちから、セックスしたくて頭がおかしくなりそうな時があるの、私変かも、って相談されたことがあった、あの時動揺せずにせめて変じゃないよって言ってあげられればよかったわ、という回想をきき、わたしも何も言えはしなかったけど、そのお友だちのところへも永子さんの思いが通じたらいいなってぼんやり思いました。
またマミさんは「母がしんどい」で幼いエイコちゃんがお母様に角材を持って追いかけられていたシーンが非常にショックで今も強く覚えているようで、あのエイコちゃんが仕事を見つけて自立してこんなにしっかりがんばっているのね、よかった、と安堵していたようす。

なおこの文章中で田房永子さんのことを田房さんと呼んだり永子さんと呼んだり揺れているのは、わたしは田房さんのことを頭の中で作家さんとしては「田房さん」と呼んでいるのだけど、
既刊を読んだことでその人となりやこれまでの人生を少しお話していただいたような気持ちになっていて、さらに以前ツイッターでお話……しかもどうしたら臭いを気にせずフェラチオすることが可能か!?口から吸い鼻から吐く呼吸の特訓か!!みたいなだいぶくだけた(でも深刻だよね!)話におつきあいいただいたりしたことにより、女の人生を生きる先輩としては永子さん、と思っているところもあり、ブレブレだからです。今読み返して気づいた。

本当は、エイコさん!って呼びたい感じ。

2015-02-18 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ: ,  

 

【読んだ思い出】尼のような子/少年アヤ〔3〕

本の感想でもないんだけど、読み終わって考えたことのメモです。

88ページの前半を読んで、それだいたいフォトショップだよう、ムダな落胆することなんてないよう、ははは。

とだけ最初は思ったんだけど。
もしかしたら「ああ、この時アヤちゃんが風俗だなんて大それた道に行かなくて本当に良かった。やはり心根がしっかりしているからやっていいことと悪いことの区別はついているのだ、よかったよかった」みたいに安心する人もいるのかもしれないね、いるんだろうな、と思い、少し苦い気持ちになった。

セックスワーカーの顔写真は、幸せそうには見えないことがほとんどだろう。無理もないことだと思う。
なぜなら多くの人は、その人がセックスワーカーであるという時点で幸せだとはあんまり思わないからだ。きっと幸せとは言い難いだろうな、と思っている(これは必ずしも蔑視や差別心ではなく、空想するのに使う材料がそういうものばかりしか世間にないからそうなっちゃうこともあろうとわたしは思ってる)ことの方が多いからだ。不幸なんだろうなと見なしている相手の顔は不幸そうに見える。シンプルな仕組み。

151ページに出てくる絵本の描写と同じことだ。

読み古されたミッフィーの絵本が重なり、妙に哀愁を放っている。

「読み古されたミッフィーの絵本」それ自体は、ちっとも哀しい存在ではない。
例えば『最も幸せな絵本とは、最もボロボロになった絵本です。最も淋しい絵本とは、だれにも読まれずきれいなままの絵本です』こんな風にでも言えば、背の部分は朽ち見返しは取れかけ、すでに意味を成していないセロハンテープがペタペタ貼られたような絵本が途端に輝き始めるものです。
でも不安かつ複雑な思いで訪れた病院の待合室で見た「読み古された絵本」だから、「妙な哀愁」があるのだ。胸の内を含めたニュアンスを描写するために、その絵本は哀愁あるものとして存在したのだ。

「あの日見た男の子たちの笑顔の危うさは……」もこれと同じことで、感じた「危うさ」「空虚さ」は、他でもない書いた本人の内面が投影されたものだ。
アヤちゃん自身はそれに気づいているし、よく分かっていると思う。後に続く『いまも胸に深く沈んでいる』という文章は「あの時はどうかしてたなあ、あんな風に思い詰めて人の道を踏み外さないようこの先も注意しなくちゃ」という意味ではないなと思う。はっきりと書かれている以上の著者の内面をわたしが勝手にどうこう言うのはお行儀が悪いけれど、たぶん、「あんなモデルみたいにキレイな男の子があれだけのサービスをして○○円なんだ。働くって、一体なに?」というような物思いだとわたしは解釈した。

この本の元となったブログも長く読んできているし、夜中のツイッターで心底くだらなくて心底楽しい話をし合った仲でもあることに多大な優越感を感じているわたしだけど、それなりの年齢に達した分別顔の大人でも知らず知らずに上から目線や特別視が滲んで隠せていないことがよくあるというのに、そういったものをアヤちゃんから感じたことは一度もない。
もちろん距離はあって、壁がある。でもそれは「未知である」「自分は経験していないことである」という壁だ。他人の職業だからあるところ以上には立ち入らない、という壁。

それはアヤちゃんの知性だなあと思い、尊敬している。

だから、

決してセックスワーカーを蔑視するわけではないし、なれなかったからといって僻んでいるわけでもないが、

これは、書いてくれなくてよかったのになあ、と(セックスワーカーとしてのわたしは)思った。巷にどんどこあふれている、持ち上げるふりや自分をおとすふりをしてセックスワーカーを下に見る文章に表面が似てしまうのがすごくいやだった。書きたくて書いた文じゃないよね、気配りだよね。でもそんなふうに言わなくたって大丈夫なのに、わかってるのに、と思った。
思ったんだけど、でも、でも、やっぱりそれって現実的ではないんだよね。そうして書かないと「セックスワーカーを差別しているのか」ということにされてしまう可能性がある、んだよね。アヤちゃんはニュートラルでいるだけなのに、まわりはそうと受け取ってくれないことが充分に考えられる。
そしてこのことをわたしが指摘できるというのも、現役のセックスワーカーであるから持つ、いわば特権なのかもしれない。

なんだか、悔しいな。

 

そんなようなことも考えたから、いちおう書き残しとく。
この本を読んでたのしかったってことは変わらないよ。

【追記・4/10】
引用部分を分かりやすく編集しました。
またこの文章の主旨は著者への抗議や批判ではまったくないことを、念のために改めて明言します。
わたしがここで述べているのは、
・たとえわたしの前で「アヤちゃんが風俗なんかに堕ちなくてよかった」と言う人がいたとして、その人もわたしと同じようにアヤちゃんの幸せをただ願っているという事実が胸に痛い
・いつもセックスワーカーにニュートラルに接してくれているアヤちゃんに余計な「世間へのフォロー」を書かせてしまう見えない圧力を思い胸が痛い
・しかし「フォローなんて余計だ、差別の意図がないことは明白なのに、かえって嫌味にきこえて悲しい」などと偉そうに言えるのはわたしが当事者であり友人であるから、なのかも

といった答えのないモヤモヤです。モヤモヤメモです。よろしくお願いしまモヤ。

2014-04-09 | カテゴリ: weblog, まじめなはなし | タグ: ,  

 

【読んだ思い出】尼のような子/少年アヤ〔2〕

〔1〕からのつづき

直筆サインは、厳密に言うとお手製らしきはんこだった。著者直押しサイン。その下にアザラシの小さなシールが貼ってあり、サイン本につきものの薄紙をはさんだ向こうには、おみくじが挟んであった。かわいい。

アヤちゃんに会いたいなあ、と思いながら読んだ。大小さまざまな「サゲ」がページから溢れんばかりで、ああそういえばこんなこと話していたなあ、と懐かしかった。そのひとつひとつがすべて、アヤちゃんの手で慎重に丁寧に盛りつけされていた。

自虐ネタ、なんて気軽に言うけれど、自分の負の部分やそれが生んだ思い出を示しながら、見た人に負の感情でなく可笑しみや納得、思わずふふっと吹き出すような快い気持ちをもたらすのは、とてもとても難しいことだ。
アヤちゃんは今みたいにいろんな媒体で活躍する前から、自分の「サゲ」に対して正直で誠実な言葉を選ぶ人だった。
正直で誠実で、それでいて詩的な繊細さを纏っていて、切ないのに笑顔にさせられてしまう。
一見突拍子もないことを言っているようでいて、切実さがしんしんと胸に迫る。

どうしてか、わたしが一生懸命隠している「誰にも知られたくない格好悪い私」のことも、どこか少しだけ許されたような気持ちになる。そこから出てはダメ、人に知られてはダメあなたは醜いから、と暗い部屋から出ることを禁じたのもわたしだけど、窓くらい開けてもいいわよ、と言えるような気がする。

誰の人生だって、ほんとうはサゲ話の連続だ。格好つけてキレイぶって余裕ぶっても、生きてるだけでサゲ通しだ。見られているのは、他人のサゲ話を笑っている時のわたしなのだ。

などとマジメぶったことを考えるフリをしながら、あはは、うふふ、うんうん、と読んだ。アヤちゃんかわいいなあ、アヤちゃん好きだなあ、わたしに好きって言われてもたいした足しにならないかもだけど、だったらなおさら大声で好きって言っちゃうなあ、と。

テーブルに放置していたら、すかさずマミさんも読んでいた。冒頭の数ページをめくったところで「この子、いつかドン・キホーテで露出狂に遭った子!?」と言ったので、ずっと前にわたしが見せてあげたブログをしっかり覚えていたらしい。

自分の感性に対してとても素直な子、とマミさんはアヤちゃんを評していた。それは、文章の書ける若い世代の人には珍しいように思うから、これからもどんどん書かせてもらえるといいわね、と。そして最後に「肛門科の医者ひどい、ヤブめ、同じ目にあうがいい」と付け加えていた。わたしもまったく同意見です。

2014-04-08 | カテゴリ: weblog, きらくなはなし | タグ:  

 

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