2017-02

小さな暖炉の前の椅子

ここを読んでくださっている方にはそろそろおなじみ、2014年末のできごと について、当時から尽力してくださっていた方々とお話する嬉しい機会が最近ありました。
いろいろと心の中のものを書き出したのでよい整理になり、ログが流れていくのがもったいないのでここにまとめておきます。

今になってはたと思い至ったのですが、あのとき誰が何をしてくれていたのか、というのが、当時のわたしにはほとんど見えていなかったんです。何らかのかたちで動いていると把握していたのは自分以外にもセックスワーカー(引退後の方を含む)が多く、そのため当事者だけで矢面に立っているかのような心許なさは大きかった。じきに精神的負担の大きさに、もう無理!となり、もっと知りたいことはあるけれど、もう無理だな、という状態でわたし自身はいったん区切りをつけました。それでよいのだと言い聞かせる他なくなった、というか。

アクションを起こしてくださった方がいたことは、知っています。ただ、その後どうなったのかを知る機会がなくて。「知りたいし、言ってくれて大丈夫なので教えてください」とどこへ申し出ていいのかも分からないまま時間が経ってしまったので、それはちょっと気になってはいます。

いま初めて言うことだと思うけど、当時大きなメディアの取材も受けたんですよ。ただ、質問の問いの立て方がもう完全にズレていて(同じ女性としてどう思いますか?とか……)、つくづく悔しくて、一度は断って、でもどうしてもって真剣にお願いされて、そうかここからひとつずつ説明していくしか道はないのか、と思ってできるだけ答えた。絞り出して答えました。これでもけっこうがんばってたんだよー!
……あれは、どうなったのかなあ。実はわかりません。それきり連絡をいただいていないので。

そんなこんなで、あのときのいろいろは確かにわたしからいろいろなものを奪ったのだけど、せめて学んだことというのもいくつもありました。

 

【セックスワーカーへの中傷にもいろんな背景がある】
【それぞれに真意があり、その裏には苦悩がある(こともある)】

性的なアイコンだから、スキャンダラスな存在だから、指をさして蔑んでも世間から非難されにくいのでストレス解消にうってつけ。そういう理由で指をさしてくる人はいて、比較的見えやすい遭いやすい脅威です。だけどそれだけじゃない。
確信を持って「あなたがやっていることは犯罪(※)だ、犯罪者としての自覚を持て」「あなたのような邪な人は社会にとって害悪なので発言するな」と言われることもありました。わたしがひとりの人としてなにかを主張している、まわりがある程度それに耳を傾けている、それは異常事態であり、世の中の秩序を乱していると。彼らの心を乱しているのは「世の中が風俗嬢をひとりの人間として扱うこと」や「性風俗業があること」そのもののようでした。わたしの発した言葉の内容については、あまり関心がないように思えたのです。

性産業に直接関わっていなくとも、それに対する気持ちによって苦しんでいる人がいる。知ってはいたけれどはっきり目で見た、自分に向けられる形で。その経験は重かったです。

(※……この指摘は正しくありません。わたしの仕事は派遣型性風俗店のコンパニオンと呼ばれますが、これは犯罪にあたらないものです。様々な業種の中には現実には違法行為(≠犯罪)とされる可能性を含むものも一部あり、しかしわたし自身は業務の内容によって働く人の権利の部分に差がつけられるべきではない、たとえば所属する店がどこをつついても適法だ、権力がどんな「さじ加減」「物は言いよう」の運用を駆使してこようとも鉄壁だ、と証明できた人だけ職業差別から守ってあげましょう、それができないなら犯罪者です。とかそういうのは変だなと思っています。ただここでは「風俗店に勤務すること=犯罪」という認識は誤りである、ということだけしっかり記させてください)

(付け加えるとしたら、あまりに捉え方が雑すぎて「ああ、買売春やセックスワークにまつわる問題についてまじめに議論する気はないのですね」とすぐにわかるような『誤り』ですよね)

この社会にセックスワーカーがいるということ自体に居心地の悪さを感じたり、「私もあなたたちと同じ人間ですけど」と主張する姿や、それが一定の理解をもって取り合われているさまを見て耐え難いにくしみを抱かされる人、ばかやろう調子に乗るな死ね売女(一句詠めました)、と思わずにいられない、言わずにはいられない人というのが確かにいて、一緒に生きている。同じスーパーのレタスの山に手を伸ばしているし、同じ自動改札にピッてしてる。
それはわたしとしてはひたすら怖いことですが、納得もしました。
むき出しの悪意を侮辱的な言葉にのせてぶつける行為自体は嫌悪しつつも、その苦しさ(わたし自身は未体験のものなのに)自体はまるっきり分からないわけではない、そんなふしぎな感覚がしました。
たぶんそれは、そういう憎しみを形成したもの、個人にもたらしたもの、植えつけたものの正体をわたしもなんとなく認識したことがあるから……ではないかと思います。
それらはムクムクと伸び縮みしながら常にわたしたちをまとめて包もうとしますね。

救ってあげたいだとかそんな図々しいことは決して思えないけど、ただその苦痛がせめて無関心になれば楽になれる人がきっとたくさんいるのかもしれない、とは思ってた。
かといって、わたしにできることは何もないのです。悪意から適切な距離を取るための努力だけでいっぱいで、向き合うことはできない。いちいち紐解こうとすると、目の前にある日々の仕事に「やりづらいなー」って気分になってしまって支障が出ちゃいそうで、それがとてもいやでした。

わたしにとって大切なことは、自分の前に来た人になにか少しいいものを持って帰ってもらうこと(ほわっとした言い方ですが決して優しさいっぱい夢いっぱい♡なイメージではなく、まあ一旦そういうことにしておくと個人的に業務がやりやすいのです)。だけどお客さんにも色々な人がいます。有料で性的なケアサービスを受けるということと精神的な折り合いがつかず、性風俗を憎悪しながら性風俗を利用する人も中にはいますし、そこで出会ったコンパニオンの身体はすべて自分の自由にしてよいものと勘違いしている人、わたしのことをなぜか生きている人間ではなくオブジェクトだと思っているかのような危険な人も、稀にはいます。
最大限に身の安全を考え、警戒をしながら、それらをきれいな仕草で完全に包み隠すこともしなくてはならない。その作業に、「これは悪意を向けられて当然の仕事」という意識はものすごく、じゃまです。忘れたふりをしなくてはなりません、けっこう大変です。でも客となった人に精いっぱいのことをする、その人の心身をできる限りかけがえのないものとして優しく扱う時間をつくる、それでしかまた自分の自尊心みたいなものも守られないのです、わたしは。そのためにはやはり、まず自分の心を守らなくてはいけない。

だから、これ以上はやめようと思ってやめました。矢面に立たされたことは仕方ないとして、いつまでもそこにいることないですし、いられないと思いました。もっとできることがあったのでは?と漠然と悔やむ部分もありながら、しかし間違っていたとは思っていません。

……でもね。
でも、問題からうまく距離を取って、矢面からせめてもの安全地帯に退避して心身を守るというその大切なこと不可欠なこと、それって、加害する側のものにとって、とてもとても都合がよいんですよね。静かであるということが、許されているということになる。問題ないものになる。だって誰も文句つけてこないけど?世の中うまく回ってますけど?と言わせてしまうことになる。「そういうもの」であり、正しいということになる。
もともとの関係が対等じゃないから。

 

【では侵害に疲れて抗議をしないでいると、なにが待っているか】
【そこにもまた侵害があるだけ】

それを心底思い知らされるような出来事が、昨年(2016年1月)ありました。たくさんの方が指摘していた通り、これらの件は地続きの問題を含んでいると思います。もうね〜悲しいとか悔しいとか腹が立つとか、そういうののもっと上の言葉はないのかよ!いくつかいい感じのやつ作っておいてよ昔の人!!ってくらい悲しくて悔しくて腹立たしかったです。
今もです。
(この事件のことです – Don’t exploit my anger! わたしの怒りを盗むな

矢面地点からそっと逃げて茂みの陰ですり傷をなめてたら空から巨大な爆弾が落ちてきたぞドーン!ボカーン!!みたいな衝撃でした。おっとわたしがメソメソと傷ついていたあれはいま思えば竹でできたほっそ〜い矢みたいなものだったな!ってなりました。
なんにしてもライフがひとつ減ることに変わりはないんですけど。矢でも死ぬもんね、人は。

 

【専門家への期待は、かなわなかった】

美術館に問い合わせをしたとき、そしてその内容を公開したとき、わたしの心の中には「無知な自分が問題提起をしていいのだろうか」という不安とともに、それを振り払うだけの期待がありました。
こんなことが起こった、困ったことになった、どうしたら……という声をあげれば、んーなんて書くのが正しいのかな、その道に詳しい人たち、専門家の人たち——つまり、普段のお仕事で人権問題や性差別や写真芸術や諸々を取り扱っている方が、その知識でもってなにかヒントを示してくれるんじゃないかって。
わたしはなにも判断ができない、主観による主張しかできない。だけど、セックスワーク当事者にとって切実なこの恐怖や不安を、そうでない人にも想像しやすいように具体的に表現することなら少しできる。「取っ掛かり」になら、なれる。そうすればきっとそれぞれの専門知識がある人が具体的な説明をしてくれて、そしてわたしを含めた大勢の人が新しいことを知り、考えることにつながる。だったら最初の取っ掛かりとなる価値がきっとあるはず。そう思ってた。

でも、そうでも、なかったんですよ。何ひとつ全くなかったとは決して思わないです!でも、思ったよりずっと少なかった。
特に芸術に関わる立場の人(仕事にしている人とか、愛好している人も)が、アートの名誉と言えばいいかな、そういうものを守るために何か話してくれるかもしれないって思っていたんです。人が嫌がることでも何でも芸術と言いふらせばオッケーさ、という考え方ですべてができている業界だと思わないでくれ、という話になるのでは、って思った。
でも、思ったほど、そうでもなかった。
これはわたしが勝手に期待していただけのことで、そうならなかったからといって仕方のないことです。しかしそれだけで済ませてよいものかどうか疑問が残っています。

《わたしの予想に反して彼らのところまで届かず、リアクションを得られなかった》では、ないからです。リアクションはあったのです。

まず聞こえたのは「あの人(ことの発端となったアーティストたち)はそういう人だから仕方がないだろう」というたくさんの声。中には「仕方がないだろ(笑)」というニュアンスのものも見られました。

それって、本当にあの写真を撮った人やワークショップを企画した人が「あの人はああいう人だから、いくら我々が議論をしても無駄骨になるだけだ」「あきらめたほうが無駄な傷を負わないよ」と思っていたわけじゃなくて……外野から波紋を起こされようとその内容が「セックスワーカー?とやらの、なんか知んないけど人権とか? について、なんやかんや言われてるらしいわ」なら、放っておいても大丈夫だわい。というのに近かったんじゃないかなと思ってます。
脅かされていない名誉は、そりゃあ守る必要ないですよね。だから起こったことを見るよりも先に「ほほう、セックスワーカー自身がみずからの人権を主張する世の中になったとは時代も変わったものですな、興味深い現象ですな」みたいなことを言う人すらいたんだと思う。アートの名誉を守るために自分で動き話すより、その方がかっこ悪くないということなのかな。

そして「いちいち被写体の許可をとっていたら写真表現自体がダメになる」「『倫理的なことを言っても通じない』ことを芸術と呼ぶのだ、認識を改めろ」という意見もありました。後者は美術家の方から直接わたしに向けて届けられた言葉のひとつです。
あきれましたし、淋しかったです。それで、ああ、わたしは何か期待をしていたんだな、と思って、もうやめよう、二度と自分以外に期待なんかしない、するもんかい、ってちょっと思った。
(すぐに忘れちゃったけど。それは自分だけでもそこそこのことができる見込みのある人が言うことだもんね。わたしは誰かと協力しないとなんにもできないし、やっぱりこれからも、相手を選びながらもちょびっとこっそり他人に期待、しそうです。だめなら落ち込み、かなえば喜び、で生きていきそうです)

 

【終わった話、にならない理由】

わたしはメールフォームをオープンにしているので時々おたよりをいただくんですけど、あの件に関して何かを書いてくれる人が、まだ、いらっしゃるんですよ。2016年でもまだいくつかいただきました。そしてそういうときって必ず「終わった話を蒸し返して申し訳ないんですが」って書いてくれてるんですよね。ふふ。
やだー終わってないよ!!あなたがあなたの中に生まれたことをそうやって書いて、わたしに送ってくれたって以上、それが続いてるってことそのものだよ。っていつも思ってます。蒸し返してわるいかな、なんて思わないでください、大丈夫です。ずっととろ火がついてるのでいつでも蒸したてふかふかだよ。

わたしのツイッターをずっと読んでくださってる人はぴんと来ると思うのだけど、昨年の春には、社会学におけるフィールドワーク、の名でひどいことをしたり書いたりされたこともありましたね。あのときメールくれた人もいた。わたしがリプライを送って、お返事してもらえなくて、それを見ていてくれた人。何も出来ないけど確かに見ました、と言ってくれた。
ありがとう。あれうれしかったです。
それから、わたしの文章を読んでいるうちに「突破口が見えた」って書いてくれたひともいた、これはもう、うんとうれしかった、セックスワークを考えるにあたっての誠実な姿勢が文面から伝わってきて、本当にうれしかったです。自分を疑ってくれているあなたをわたしは信じます。思いがけずこんなところでお返事してごめんなさい。

そりゃあ……「終わった話」にできたら、すごくいいですよ。そういう時代がかつてあった、まともに話も聞いてもらえなくて当然なころもあったのよ、って昔話にできる日がくればいい。でも今は、そんな景色はとても見えない。

つい最近になって、東京都立写真美術館の方とお話する機会を持ってくれた方がいらっしゃいました。
お話してくれた学芸員さんによると、写真家本人から美術館に対し、謝罪の言葉があったそうです。そしてそれは美術館に対する謝罪ではなく、この件で不快に思った方全体に対する謝罪であった、と。
ならばなぜその「全体に対する謝罪」を美術館に向かって行うのか、わかりません。今日までわたしが知らずにいたのかと思っていちおう探してみたのですが、ご自身のブログで一度釈明(わたしはあれを謝罪ではなく釈明、もっといえば弁解だと受け取っています)された文章以外には見つかりませんでした。
たぶん、なにがまずかったのか、どういった点が批判されてしまったのか、今でもはっきりとは認識されていないんじゃないかな、でも形式的にでも謝らないとまずい状況に追い込まれてしまったのかも、と個人的には思っています。
わたし自身は彼から謝ってもらうべき者ではないので、「あいつがあやまるまでおこるぞプン!」みたいな気持ちではない(そう思ってる人もいそうですが、ちがいますよ)ですし、仮に彼が認識を改めたとすればすべてが解決するかというとそれも違います。そういうことでも全然ないです。
(まるっきりどうでもいい、ということではなくて、一部のエリアで失われたかもしれない彼の名誉や信用がこの先挽回される機会が全くなくてかまわない、というふうには思っていません)

ただ、このままだと別の人たちによって同じようなことが何度でも起きることは十分考えられるし、それを避けようとして短絡的な方向に向かう(たとえば性的なニュアンスの濃い作品がとりあえずやたら疎まれるとか)(セックスワーカーの存在を単なるめんどくさいタブーとして隔離するとか)(権威のないアーティストたちが理不尽な制約を課されるとか、いろいろ)のはいやだな、とかは思っています。

わたしにできることがまだあるのかどうか分かりません。
でも、ちょっとあるかもしれない、と思いながらずっと考え続けます。こうしてブログに書くことも「これにて終わりです」とはずっと言わないだろうと思っています。セックスワーク自体をいつか引退するとして、それで終わりにもならない。
そう、本当は終わりにできたらいい、だけど、いまは終わらせるわけにいかない。終わらせてなんかやるもんですか。
いつかのいつかには本当に終わらせなくちゃならない、そのために、わたしたち(って言ってもいいよね?)は続けます。
好きでやるんじゃないです。力があるからやるんでもない。もうそうせざるを得ない、どこにも逃げられないからです。
細々と、しつこく、できるだけ明るく、できるだけしぶとくできたらいい。あなたにもいつでもきてほしいです。胸から抜いた矢を暖炉にくべてお待ちしております。とても小さな部屋ですがなぜか無限に椅子が置けます。おやつにお芋も焼いてます。

2017-02-23 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

まーた指の混ざりの話かよ

またフィクションの指と仕事の話ですみません。こんなことばかり考えているもので。

去年『逃げ恥』のキスシーンがちょっと話題になったことがあった。
恋愛経験がまったくない男の人が、感極まって衝動的にしてしまうキス……という設定の場面なのに、相手役の女優さんの手に重ねた指が動くその様があまりに情緒的で、「これは女性に慣れたモテ男でなければできない芸当なのでは!?」「演出ではなく、演じている人の素の部分が出ているのでは!?」って。

それをきいてノコノコとTverでそのシーンを見ちゃったんだけど、

ああ、うーん、でも、全体的に不慣れでぎこちなくて、てんで分かってなくてヘンテコなこともたくさんやらかして、だけど本人もそれを重々承知しているから謙虚でいてくれてふたりで目的地を探せる……って感じのお客さん(たまにいます)が突然自然で滑らかでこっちがびっくりするような動きをひとつだけ(ひとつだけ…)すること、ある、あるよなあ——

って思いました。それで(あれれーなんだ今のは!?)と思って「今のもういっかいしてよ♡」って言うと、ちっとも再現できなかったり、それどころか本人はまったくの無意識で、なんのことだかも分かっていなくて二度とできなかったりするの。

その一瞬は確かにたった今ここに存在したのに、もうわたしの記憶の中にだけ閉じこめられて誰も永遠に取り出せない。そしてわたしも時間がきて退室すればあっけなく忘れてしまう。忘れてしまったけど、何度もあった、何度もこんな風に触れてもらったんだってことは覚えてる、知っている。それ以外のすべて、相手のこととかは、きれいさっぱり忘れてしまったけど。

そんなふうに思うと、あのキスシーンも案外リアルな気がしてきて。とめどなく恋する気持ちが溢れてあなたも私を好きになればいいのにと大それたことを堂々と神様に願うように挑戦的にも見える、でもただひたすら小さなものを消えないでくれと祈り愛おしんでいるようにも見える、不思議な指の動き。

演技の一環なのか、それとも誰かが言ってたみたいに俳優さんの無意識の仕草なのかはわたしはちっとも分からないけど、あの繊細な指の動きとキスの切羽詰まり感とのギャップ、けっこう好きでした。

そこまで考えて、ああ、こないださんざん書き散らした「ヴィクトルさんの指の動き方めっちゃヤバくないすか!?」っていうの、あれは絵だから「無意識のうちにそう動いてました」とか「なにかのタイミングで偶然そういうふうになってました」あと「役者さんがたまたまこういう体格だったから必然的にこうなりました」っていうのはないってことか、いつでも描いた人の意図がそこにあってそうなってるんだよね、絵だから。と思ってしばらくポヤ〜ンってなってました。すごい当たり前だけど。絵を動かしてお芝居にするって、アニメーションってすごい。
わたしの気づいてないこと、意図した通りに受け取れていないこと、いっぱいあるんだろうな。意図したのときっと全然ちがうふうに興味を持ったことも、いっぱいあるし。こないだのティッシュの話とかほんとひどい。

 

去年読んでとてもおもしろかった本のひとつに、『触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか 』(デイヴィッド・J. リンデン著)があります。
五感の中でちょっとあとまわしにされることのある「触覚」について、あれやこれやとことん語る本。皮膚、神経、脳、かゆみ、痛み、熱い冷たい、錯覚、それから、性的な感覚のことも。触覚に関する話題だけで埋め尽くされた1冊だった。もしかしたら仕事の参考になるかも、という下心で読んだのだけどこれが本当にためになったの。

わたしたちの皮膚にはいくつかのセンサーがあり、それぞれ振動してるだとか、引っ張られてるだとか、そういう刺激を感じ取っては信号を脳に伝え、わたしがボケーッとしてる時も絶え間なく仕事をしてくれているのだけど、「誰かに触れられて、心地よい」の信号を送る仕事専用のセンサーがあるんですって。人と人とがふれ合う(セクシャルな意味合いを持ったふれ合いだけじゃなくて)こと、そこにある感情のトーンを読み取ることに特化したセンサー。
このセンサーが作動する触れ方には決まった条件があって(第3章に書いてあるよ)、優しく触られた、って検知しないと動かないのだけど、それを満たしていると

〈実際に触られたときだけでなく、映画などで誰か他人が触られているところを見た場合にも、同じ形で作動する〉

んだそうです。きゃっ。本当ですかそれ。なんか、ファンタジーみたい! でも事実なんだよね。皮膚ってすごい。人間の身体ってときどきこんなにもロマンティック。

 

ティッシュの話の時に書いた「ただの『よく動く性分の人』には見えなくて、エレガントで余裕があって、惜しみなく分け与える感がすごくて」「歩み寄りと慈しみに少しのお誘いが乗っかったボディランゲージ」っていうの、あの感動、あれはたぶんわたしのセンサーが働いたんだよね。たしかに条件を満たしていると思うんですよ、ヴィクトルさんがユウリくんに指で触れるときの動き。
うわあ、絵でもいいんだ……!!
心地よさが脳に伝わる条件を満たしていて、なおかつ見たときに美しくて、あとは表情とか声のトーンや言葉の組み合わせが行き違わなければ「自分の肉体が少なくとも今このとき、目の前の他人から大切なものとして扱われている、尊重されている」っていう難しいメッセージ(そう、難しい、これはコマーシャルセックスだと途端にとても難しいのです、そのことがわたしはいつももどかしいけれど、個人の努力では太刀打ちできない大きな壁が世の中にある)を伝えるのにきっと適してる。

シンプルにわたしもそんなふうに触れられてみたいっていうのもそうだし、その触れ方をしてあげられたらきっと心地よくたのしく感じてくれるだろう人に心当たりがたくさんあった。
もっと素敵な気分にしてあげられるかも、もっと安心感をもたらしてあげられるかも、お金でサービスを買うことになぜか貼り付けられた後ろめたさを軽減して、楽しいギブアンドテイクに感じてもらえやすくなるかも……そういう希望が生まれたんでした。
だから「もっと近くでちゃんと見せてほしい、わたしもできるようになりたい」って思って生まれて初めてアニメーションの中の人に憧れたんだと思う。いますぐ弟子入りしたい! 先生おカバンお持ちします! しかしヴィクトル師匠のおカバンはとても持てないほど数があった上におそらくカバン本体だけで目から火が出るほどの金額、さらに何よりお弟子さんの枠は埋まっていることが明らかよね。知ってる。だから自分なりに見て学んで応用して(そのままだと派手だし、あとなんといっても彼の身体は絵なので手の屈折腱とかの仕組みがわたしとは違う。薬指だけを自由に動かすこともきっとできる)(うらやましすぎる)、少しずつ日々の仕事に生かしています。フィクションからヒントをもらうことは今までもときどきあったけど、こんなに楽しいのはひさしぶり。

とはいえ憧れ方がちょっとこじれているし、好きなキャラクターがわたしたちの仕事と関連づけたかたちで観察されてるだなんて聞いたらこころよくは思えない人もやっぱりいるかもしれないから、あんまり言っちゃいけないか、いけないよね……っていうのも、いちおう、気にはなります。なのでせめて作品名の表記とかちょっとうやむやにしてる……。

(でも「なにそれおもしろい」って思ってくれる人となら、ちょっとこそこそ話したいなあ。
いつかどこかで話せるときがくるかしら、いつか。検索されにくいかたちで書けばいい?)

とりあえずね、最終回の前にみんなの自律神経がおかしくなって見ず知らずの女の子たちと「細かいことはどうでもいいからちょっとみんなで励まし合わない?」って息切れしながら手をつないで走ったあの感じがいま振り返ると楽しかったし、なかなかなれない気持ちを味わわせてもらったので、本当にもうなんとお礼を言っていいかわからないのではい黙ってブルーレイを買います。師匠がいつまでもその魔法が使える手をお怪我されませんように。なにを言っているんだわたしは。手で滑る競技じゃないぞ。根本的ななにかが揺らいできたのできょうはここで終わります。

 

追記・
ガチ恋全開嫁になれ要求の激しい客から突然「君にとってオレはどういう存在なんだよ!?」と壁際に追い詰められて絶体絶命のときに「そんなの気持ちの問題だから言葉になんかできないよ♡佐藤(仮名)さんてそんなこと考えながら私を指名してたの?他のお客さんとちがう感じしてたけど、やっぱりおもしろいね♡」とかなんとか言って応急処置したことある人きっと100万人いるよね。

2017-02-11 | カテゴリ: たわいないはなし | |