2015-01

ヨンへの気持ち〔2〕

〔1〕のつづき。
東京都写真美術館は、わたしが送ったのと同じ通数のメールを返してくださっています。
お返事をくださる、ということだけで少なくとも「無視するつもりはありません」というメッセージだけは、しっかりと受け取っています。公共機関がわたしを無視しないってことが、たったそれだけの普通のことがなんでこんなに泣けるくらい身にしみるのか。さあー、どうしてでしょうねえ(相棒の右京さんみたいに読んでほしい)。


東京都写真美術館の責任範囲- [娼婦の無許可撮影を考える 7 ] 松沢呉一のビバノン・ライフ

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今のわたしは、この記事に書かれていることについてああ、そうだ、そうだなあ!と思って考えているところです。特に2についてはまったく考えが及んでいませんでした、思いつけなかった。わたしにとって美術館というのはとても大きな存在で、そこへ働きかければわたしの見ている4について何か変わるんじゃないかみたいなイメージを持ってしまってたんですけど、そうとは言えないと学びました。3については、なんていうか、4への気持ちそのものですよね……(これまでを読んでいる方にしか分からない書き方ですみません)こうして自分以外のひとの言葉で目の前に出てくると、本当に弱い。苦しくなります。4はわたしにすごく強くて、ちょっと睨まれただけでもう竦んでしまう。

「芸術だからといってこれは行き過ぎですよ!これだから芸術なんかやってる男はダメなんですよ云々」とわたしに言ってきてくれた方は何人かいらっしゃいました。でも、その「これは行き過ぎ」って誰がどうやって判定しているものなのか。
例の写真が展示された当時、美術館には意見が寄せられなかったそうですね。「行きすぎた行為」だとは誰も言わなかったわけです。「これだから芸術家は」の問題だとはわたしは思わないです。
(ただ、観賞しに来たお客さんが美術館に対して何か意見することは困難だろうとも思います。それから、これは友人と話していて気づかされたことなんだけど、関係者だからこそ指摘できない、っていうこともきっとありますね)
展示に際してはおそらく大橋氏の手によってアンケートボックスが設置されていてそこには否定的な意見もあったようですが、これが何に対するものであるかは今のところわかりません。「ものすごく怒ってるのもあった」という言葉に、誰かが指摘してくれていたかもしれない……と思うとささやかな希望が胸に灯ります。しかし直後の「面白かったよ」が同時に目に入ってあっという間に消えちゃいそうになるので、風よけの囲いが必要です。

——そうそう、あれが2007年! たしか、展示スペースにアンケートボックスが置いてあって。自分も感想、書きましたよ。

ホント? 嬉しい嬉しい。最終的に、2、300枚かな。けっこうな数が集まって。写美がアンケートボックスの設置を認めてくれたのも大きかったね。老若男女が書いてくれたよ。ものすごく怒ってるのもあったし、ただ『ウンコ!』とだけ書いてあるヤツとか。オレの意図を理解してくれた人もいたし、色んな意見をもらえたね。面白かったよ。

——大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。 | TOMO KOSUGA – Part 2

松沢呉一さんの「セックスワークを考える – 娼婦の無許可撮影を考える」シリーズは、この問題を考えたい人すべてに読まれるべきことがたくさん書いてあって、特にわたしとしては「これだから芸術なんかやってる男はダメなんですよ」とか思っている人の目に入るといいなあと思っています。あと「芸術は全て犯罪だからあきらめろ」とか「勝手にタイ人のセクシャルワーカーを代弁するな」とか「あなたのように自分の意見を持っている風俗嬢なら尊敬しますよ」とか。そうやってわたし(たち)の4への気持ちを見ない振りする人、見ない振りでこれからもやっていくべき、それが結局は全員にとって幸せだ、と思っている人に。

一部は有料ですが、分厚くない文庫本一冊ぶんくらいの値段です。10冊買ってもなかなか得られない気持ちを得ることができたのでわたしはとても買ってよかった。

 

もう何年も前だけど、源氏名が「ナナ」だったことがあります。
そのお店はわりとあっという間に潰れてしまいました。お給料は安いし駅から歩くしホテルも遠いし女の子は数える程しかおらずそれなのにタオルは常に足りないし(つまり隅から隅まで資金力がなかったのですね)という店でしたが、待機室(兼事務所、兼撮影スタジオの狭い部屋)になんとこたつがあった。いかにも旧式の、あちこち塗装が剥げている大きめのこたつ。仕事を終えて疲れ果て、ここで一休みしているうちに眠り込んでしまう、という形の「店泊」をしょっちゅうしている女の子がいました。
わたしがコートを着て帰ろうとしていると「奈々ちゃん、帰るの、お疲れ、またね、気をつけてね、またねえ」と、3割は夢の中みたいな声で言って。玄関でブーツをはいてもう一度振り返ると、こたつ布団に埋もれたまま1円にもならないはずの笑顔をちゃんと作って手を振ってくれていた。

一度くらい一緒にお泊まりしたらよかったよ。一緒にこたつで寝て、遠慮してちょっと浅く体勢をとったりして、次の日には若干頭が痛くなったりすればよかったよ。

 

ナナへの気持ちナナへの気持ち

収録アルバム:インディゴ地平線
2012/7/11 | フォーマット: MP3

 

2015-01-16 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

ヨンへの気持ち〔1〕

去年最後にした買い物は、中村珍さんの漫画でした。
今年最初にした買い物は、久保みねヒャダこじらせナイトのスタンプでした。
充実の自宅バカンスが伺えますね。すばらしいです。kindle本もいっぱい買った。
抹茶ババロアをまた作ろうと思ったら抹茶が全然足りなくてしかたなく黒ごまババロアにしてみたり、
「さらば恋人」の2番の歌い出しをど忘れして気持ちが悪いので大至急検索してくれというマミさんの要求に応じたり、その流れでYouTubeに半日を捧げたり、
おそらく泥酔したお客さんからのまったく意味がわからないが全編赤ちゃん言葉なメールをシカトしたり、翌朝に「すまん!一生の不覚!忘れてくれ!」と来たので「なんのことでちゅか♡」と返信してあげたり、そんなふうにして過ごしたお正月でした。

前回書いたこれこれその前ほどじゃないけれど反響が大きくて、いろいろなご感想を読みました。

その中には、読んで気分が悪くなった、というものもあって、それはわたしへ向けられた言葉たちがあまりに暴力的なために見ていて辛くなったり、途中で読めなくなったり、過去に同じような目に遭った記憶が甦ってしまったり、というものでした。

胸が痛くなりました。
ごめんなさい。

そのまま載せることはわたしも憚られて、それであんなふうに口調だけでもととのえてお見せしたのだけど、それでもやっぱり重いものに変わりはないし、ショックを与えてしまったことがとても苦しいです。

ああいうの、わたしが慣れているとは言わないけれど(慣れられるものとは思わないし)、セックスワーカーがなんか言った時あるある、なんです。わたしとしては「このアプローチは初めて見たなあ」というものはなかった。

セックスワーカーとして発言した人間がそのあと目にする風景を少しだけ公開したい、そんな気持ちがありました。嫌悪する人がいる、発言の内容ではないところに罵詈雑言をぶつけたり、自分の無知をはばかることなく掲げながら何もかも説明しろと甘えてくる人にしばしば遭遇する、という現実を示したかった。それはなぜなのか?ってことを考えてもらえたらいいなと思うから。それはセックスワーカーではない人を助けることにもつながるのではないかしらと思っているから。よく書いてるけど。
だから、罵詈雑言に分類されるようなものも、わたしのメールボックスに人知れず埋もれたのち消去される運命をたどる前に一度くらいは白日の下に晒されてみていいと思ったの。
でもそれだけでは「わたしたちはみんなをムカつかせる日陰者、自分の意見を持つべきでない」という結論になりかねないから、返事もした。拳の代わりにわたしを殴るためだけのツールだったかもしれない言葉を、でもどこまでもあくまでも言葉として受取り言葉を返信することで、わたしたちは罵られてしかるべき存在ではないよ、と言いたかった。

そうしたら、見ず知らずの優しい方はもちろん、わたしをよく知っているひと、会ってお茶を飲んだり日頃仲良くしてくれているお友達には特に大きなショックを与えることになってしまい、本当に申し訳なかったと思っています。ごめんね。超ごめん。

 

それから、「丁寧に答えないでちゃんと怒ればいいのに」っていうのも、ありました。

もっと感情をあらわにぶちキレてくれればいいのにそうでないから読んでいて辛い、とか(気持ちはわかる)丁寧に答えると相手は調子に乗るぞ、とか、こういう姿勢をよしとすると暴言を受けている側にどこまでも毅然とした態度を求める風潮を後押ししてよくない、筋の通っていない悪口を取り合ってはいけない、とか。

耳が痛いです。でもね。

なんでもいいからストレスを解消したいだけで、でも目の前に殴ってもよいものが見当たらないのでさし当たり目に付いたこの女をバカにしよう、って感じのもの、あまりにも意味を持っていなさすぎて返事ができないようなものはね、あれでも一応省いたんです。
「ご臨終になられてはいかがでしょう」これもけっこう迷いました、原文はご想像の通りで、ほんとにただ手軽な暴言をぶつけてきただけなんだろうなと思う。でもそんな言葉にもお返事する形をとったのは、それを通して何かを表せそうな気がしたからです。おい「られそうな」とか「気がした」じゃ意味ねえんだよ寝ぼけてないではっきり言えよ。といま非常に思いましたのでこれから書きます。

どんなに汚い言葉を投げつけられても、わたしたちは対等な存在同士です。
言った人がいて、言われた人がいて、ふたりは同じ人間です。対等なままであり続けます。
激しい言葉で罵れば、一時的に気力を失わせ黙らせることはできるかもしれない。でも、口を塞げたからといってその言葉が正しいことになるわけではありません。ある言葉でもって相手の心を完璧に踏みにじることに成功したとしても、それを投げつけた人が格上だということではありません。

そういうようなことを言いたかった。投げつけられてしまう側の人に言いたかった。
誰のどれほどの悪意を持ってしても決して覆せないはずのものを、わたしたちの誰しもがあらかじめ持っている。

「差別発言を放つ者たちを広い心で受け容れ、赦している」という主旨でわたしを、おそらくはほめようとした方がいらっしゃいました。しかしこれはいけません。
とんでもないことです。穿った見方で恐縮ですが、わたしを美化し天使的ポジションにおくことで発言者を迷える子羊にして責任をうやむやにして話をまとめようったってそうはいかないぞ。
売春婦に人権なんかねーよ死ね。そんな言葉を広い心で受け容れることなどできやしません。わたしにそんな慈悲の力などありはしません。「殴られている」と「拳を受け容れている」は全然ちがいます。わたしたちは同じ人間で対等だと言いましたが、同じ重さの人権を持っていても行いの貴賎には差が出ます。この発言をわたしにぶつける行いは愚劣です。ただ、わたしに死ねと言った人は別の場所では死ねと言われる人であるかもしれないな、とぼんやり思う、思うだけです。

もちろんはげましのおたよりもあり、全部読ませていただいています。ありがとうございました。

今回のいろいろにおいて、最もわたしを動かしているのはここで挙げた 「4)」なんです。自分でも思い知りました。いちばん深くて、いちばん口にしにくい4への気持ち。
4について何かを表明している人は少ない。たとえば今度のことで「負けないでがんばってください!」と言ってくださる方はいても、4にまつわることにふれた言葉は極端に少なかったです。それが不満だ見て見ぬふりだ、というのもちょっとちがいます。だって4に対してかける言葉、あまりなさそうだから。わたしも大した言葉を持っていません。

長すぎるので分けます。〔2〕につづきます。

2015-01-16 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ: