2014-04

【読んだ本】尼のような子/少年アヤ〔3〕

本の感想でもないんだけど、読み終わって考えたことのメモです。

88ページの前半を読んで、それだいたいフォトショップだよう、ムダな落胆することなんてないよう、ははは。

とだけ最初は思ったんだけど。
もしかしたら「ああ、この時アヤちゃんが風俗だなんて大それた道に行かなくて本当に良かった。やはり心根がしっかりしているからやっていいことと悪いことの区別はついているのだ、よかったよかった」みたいに安心する人もいるのかもしれないね、いるんだろうな、と思い、少し苦い気持ちになった。

セックスワーカーの顔写真は、幸せそうには見えないことがほとんどだろう。無理もないことだと思う。
なぜなら多くの人は、その人がセックスワーカーであるという時点で幸せだとはあんまり思わないからだ。きっと幸せとは言い難いだろうな、と思っている(これは必ずしも蔑視や差別心ではなく、空想するのに使う材料がそういうものばかりしか世間にないからそうなっちゃうこともあろう)(それを偏見と呼ぶのですが)ことの方が多いからだ。不幸なんだろうなと見なしている相手の顔は不幸そうに見える。シンプルな仕組み。

151ページに出てくる絵本の描写と同じことだ。

読み古されたミッフィーの絵本が重なり、妙に哀愁を放っている。

「読み古されたミッフィーの絵本」それ自体は、ちっとも哀しい存在ではない。
例えば『最も幸せな絵本とは、最もボロボロになった絵本です。最も淋しい絵本とは、だれにも読まれずきれいなままの絵本です』こんな風にでも言えば、背の部分は朽ち見返しは取れかけ、すでに意味を成していないセロハンテープがペタペタ貼られたような絵本が途端に輝き始めるものです。
でも不安かつ複雑な思いで訪れた病院の待合室で見た「読み古された絵本」だから、「妙な哀愁」があるのだ。胸の内を含めたニュアンスを描写するために、その絵本は哀愁あるものとして存在したのだ。

「あの日見た男の子たちの笑顔の危うさは……」もこれと同じことで、感じた「危うさ」「空虚さ」は、他でもない書いた本人の内面が投影されたものだ。
アヤちゃん自身はそれに気づいていると思う。後に続く『いまも胸に深く沈んでいる』という文章は「あの時はどうかしてたなあ、あんな風に思い詰めて人の道を踏み外さないようこの先も注意しなくちゃ」という意味ではないなと思う。はっきりと書かれている以上の著者の内面をわたしが勝手にどうこう言うのはお行儀が悪いけれど、たぶん「あんなモデルみたいにキレイな男の子があれだけのサービスをして○○円なんだ。働くって、一体なに?」というような物思いだとわたしは解釈した。

この本の元となったブログも長く読んできているし、夜中のツイッターで心底くだらなくて心底楽しい話をし合った仲でもあることに多大な優越感を感じているわたしだけど、それなりの年齢に達した分別顔の大人でも知らず知らずに上から目線や特別視が滲んで隠せていないことがよくあるというのに、そういったものをアヤちゃんから感じたことは一度もない。
もちろん距離はあって、壁がある。でもそれは「未知である」「自分は経験していないことである」という壁だ。他人の職業だからあるところ以上には立ち入らない、という壁。

それはアヤちゃんの知性だなあと思い、尊敬している。

だから、

決してセックスワーカーを蔑視するわけではないし、なれなかったからといって僻んでいるわけでもないが、

これは、書いてくれなくてよかったのになあ、むしろ書かないでほしかった、と(セックスワーカーとしてのわたしは)思った。巷にどんどこあふれている、持ち上げるふりや自分をおとすふりをしてセックスワーカーを下に見る文章に表面が似てしまうのがすごくいやだった。書きたくて書いた文じゃないよね、気配りだよね。でもそんなふうに言わなくたって大丈夫なのに、わかってるのに、と思った。
思ったんだけど、でも、でも、やっぱりそれって現実的ではないってことだ。そうして書かないと「セックスワーカーを差別しているのか」ということにされてしまう可能性がある、ってことだよね。アヤちゃんはニュートラルでいるだけなのに、まわりはそうと受け取ってくれないことが充分に考えられる。
そしてこのことをわたしが指摘できるというのも、現役のセックスワーカーだって明かしたアカウントを持ってるからで、いわば特権なのかもしれない。

なんだか、悔しいな。

 

そんなようなことも考えたから、いちおう書き残しとく。
この本を読んでたのしかったってことは変わらないよ。

【追記・4/10】
引用部分を分かりやすく編集しました。
またこの文章の主旨は著者への抗議や批判ではまったくなく

・たとえわたしの前で「アヤちゃんが風俗なんかに堕ちなくてよかった」と言う人がいたとして、その人もわたしと同じようにアヤちゃんの幸せをただ願っているという事実が胸に痛い
・いつもセックスワーカーにニュートラルに接してくれているアヤちゃんに余計な「世間へのフォロー」を書かせてしまう見えない圧力を思い胸が痛い
・しかし「フォローなんて余計だ、差別の意図がないことは明白なのに、かえって嫌味にきこえて悲しい」などと偉そうに言えるのはわたしが当事者であり友人であるから、なのかも

といった答えのないモヤモヤです。モヤモヤメモです。よろしくお願いしまモヤ。

2014-04-09 | カテゴリ: まじめなはなし | タグ:  

 

【読んだ本】尼のような子/少年アヤ〔2〕

〔1〕からのつづき

直筆サインは、厳密に言うとお手製らしきはんこだった。著者直押しサイン。その下にアザラシの小さなシールが貼ってあり、サイン本につきものの薄紙をはさんだ向こうには、おみくじが挟んであった。かわいい。

アヤちゃんに会いたいなあ、と思いながら読んだ。大小さまざまな「サゲ」がページから溢れんばかりで、ああそういえばこんなこと話していたなあ、と懐かしかった。そのひとつひとつがすべて、アヤちゃんの手で慎重に丁寧に盛りつけされていた。

自虐ネタ、なんて気軽に言うけれど、自分の負の部分やそれが生んだ思い出を示しながら、見た人に負の感情でなく可笑しみや納得、思わずふふっと吹き出すような快い気持ちをもたらすのは、とてもとても難しいことだ。
アヤちゃんは今みたいにいろんな媒体で活躍する前から、自分の「サゲ」に対して正直で誠実な言葉を選ぶ人だった。
正直で誠実で、それでいて詩的な繊細さを纏っていて、切ないのに笑顔にさせられてしまう。
一見突拍子もないことを言っているようでいて、切実さがしんしんと胸に迫る。

どうしてか、わたしが一生懸命隠している「誰にも知られたくない格好悪い私」のことも、どこか少しだけ許されたような気持ちになる。そこから出てはダメ、人に知られてはダメあなたは醜いから、と暗い部屋から出ることを禁じたのもわたしだけど、窓くらい開けてもいいわよ、と言えるような気がする。

誰の人生だって、ほんとうはサゲ話の連続だ。格好つけてキレイぶって余裕ぶっても、生きてるだけでサゲ通しだ。見られているのは、他人のサゲ話を笑っている時のわたしなのだ。

などとマジメぶったことを考えるフリをしながら、あはは、うふふ、うんうん、と読んだ。アヤちゃんかわいいなあ、アヤちゃん好きだなあ、わたしに好きって言われてもたいした足しにならないかもだけど、だったらなおさら大声で好きって言っちゃうなあ、と。

テーブルに放置していたら、すかさずマミさんも読んでいた。冒頭の数ページをめくったところで「この子、いつかドン・キホーテで露出狂に遭った子!?」と言ったので、ずっと前にわたしが見せてあげたブログをしっかり覚えていたらしい。

自分の感性に対してとても素直な子、とマミさんはアヤちゃんを評していた。それは、文章の書ける若い世代の人には珍しいように思うから、これからもどんどん書かせてもらえるといいわね、と。そして最後に「肛門科の医者ひどい、ヤブめ、同じ目にあうがいい」と付け加えていた。わたしもまったく同意見です。

2014-04-08 | カテゴリ: きらくなはなし | タグ:  

 

【読んだ本】尼のような子/少年アヤ〔1〕

発売日に手に入れるためamazonで予約しようかと思ったけれど、なんとなくしそびれた。
気持ちのよい休みの日に出かけていった本屋さんで買いたいな、と思ったのだ。
それもターミナル駅の大型書店より、そのへんの○○書房がいい。
近くには古い大学があり、おそらくそこへ通う男の子がぎこちなくエプロンを着けて働いている本屋さん。

書名とISBNのメモを渡すと、では入荷次第お電話しますんで、とレジにいた男の子は言ったけれど、発売日の3月3日にしかし電話はかかってこなかった。
twitterには購入した人の感想などがちらほらと現れ、いいなぁと思いながらそれを見ていた。
読んでよかった、面白かった、と興奮気味のツイートを見るとうらやましくて、薄目で眺めるようにした。
次の日も電話はかかってこなかった。その次の日も、一週間が過ぎても。

3月12日、レジには別の男の子がいた。
あのう、お願いしていた本のことで、と声をかけると、難しいことを頼まれたらどうしよう、という表情になり、
椎名と申しますがと名乗ると、あっ、あっ、と言ってレジの下からボール紙で出来た箱を取り出した。
それから銀色の目玉クリップで束ねられた伝票のようなものを一枚ずつめくっては「椎名、しいな、し……」と一生懸命に探しはじめた。

椎名様、と書かれた紙は、ついに見つからなかった。

あっ、とまた彼は小さく呟き、今すべて確かめ終えたばかりの伝票の束をもう一度持ち直した。
そして改めてまた最初から一枚ずつめくり始めた、しいなしいな。
5枚ほどめくられたところで、わたしはなんとかしなければという義務感のようなものに駆られて言った。
あの、お願いしてたんですけど、別のところで手に入ったので。入荷がまだのようなら取り消していただこうかと思ったんです。お金も払っていないので、あの。
あっ、あー、と彼は言い、握りしめた伝票の束をほんの少し上下させた。
キャンセルできますか、すみません。そうわたしが言うと、あっ、はい、と言ってから少し間があり、ぺこりと頭を下げた。
お願いします、とこちらもおじぎをした。
その間わたしは彼の目を見過ぎないように、なんとなく頬から首筋の辺りに視線を置いていた。色白で、きめの細かい肌の男の子だった。彼はずっと、わたしではなく、わたしのコートの袖口についている白いファーを見ているようだった。

店を出て、地下鉄に乗った。
今のできごとをアヤちゃんが知ったらなんと言うかしら、と思った。

ネット上で知り合った頃アヤちゃんはまだ学生さんで、韓流スターを熱烈に愛し、新大久保のことをよく話していた。わたしとはこれといった共通点も見つからなかったけれど、アヤちゃんはとても輝いて見えて(その頃からたいへんに文章がすばらしかったのだ)、話しかけずにはいられなかった。
やれ電器屋の店員が可愛かっただの、縁結びのお守りを買いたいだの、夜中にとりとめのない話をした。

その中でも、自分の苦い思い出やテンションの下がるような出来事を「サゲ」エピソードと呼んで多少自虐的にユーモラスに語ることが、アヤちゃんはほんとうに上手だった。その面白さに、まわりに集まった女の子たちも安心して自分の過去の経験を披露しては笑い合う光景がよく見られた(サゲを集めたイベントまでやっていたと思う)。

わたしも楽しくなって、むかし街中で暴力に遭い、駆け付けた警察官の前でわんわん泣いたエピソードなど話した。保護されたあと、パトカーで家へ送り届けてもらう途中で若いお巡りさんが運転を誤って車体を盛大に擦ってしまい、乗っていた一同で「ああっ……」としょんぼりしたということも。
聞かされたアヤちゃんは、降りかかった受難を自らに留めず警察官まで巻き込んで厄を払ったんですね、最高にかっこいい、みたいに言って面白がってくれた。嬉しかった。

ねえアヤちゃん、買えなかったよ。予約してたのに買えなかったよ、もう世に出てから10日が経とうとしているのにわたしったらまだ一文字も読めてないよ。そう言ったなら、ちょっとこゆりさん、せっかくの初書籍を勝手に変なサゲに巻き込むのやめてよ〜!って言って笑ってくれるかな。
そんなことを考えているうちに有楽町に着いたので、電車を降りて三省堂書店に行き、尼のような子を探した。それはとてもあっけなく売られていたので、「著者直筆サイン本」の腰巻きがついたものを、えいっ、と手に取ってレジへ向かった。

〔2〕につづく。

2014-04-07 | カテゴリ: きらくなはなし | タグ: