まじめなはなし

【お願い】取材や出演などのご依頼について

さっきあんなにワアワア言ってた人がまだ何か書くようです。今年のうちに言いたいことをぜんぶ言う作戦です。

前回はわたしの本業、風俗業での2017年の話をしました。それと別に、「椎名こゆり」の名前の方で今年を振り返ると、こちらではトークショーなどイベントの出演依頼やインタビュー取材の依頼、そういうお話をいただくことが増えたなあと思います。

そして、そのすべてをお断りした年でした。

声をかけていただいたことにはありがたく思っているのですが、お受けできるものがひとつもなかったのです。
わたしのプライバシーについてどのように取り扱っていただけるのか、という点について、あまり考慮されないままお誘いをくださった件が多かったように感じています。そのため、納得いく形でお引き受けすることができず、すべてをお断りすることになりました。

「顔写真は提供できません」「働いている店やそこでの名前(源氏名)は公表できません」「知らない人の前で被害経験を語りません」ということをわざわざ言わなければならないのか……と思い、落ち込んでしまったのも正直な気持ちです。
でも、わたしにとっていつの間にか当たり前になった感覚だというだけで、セックスワークを取り巻く問題について興味を持ったのがごく最近、という方には難しいことかもしれない。性犯罪など取り扱いに注意が必要なトピックについて考える期間がまだ浅かったり、ふだん関係の薄いお仕事に携わっている方にとっては、誰かから指摘されて気づくことが多いものかもしれない、と思い、どこかで機会を見つけて書いておこうかなと思っていました。なので今やります。

次に引用するのは、ある方にわたしから差し上げたメールです。主催するイベントのトークショーにゲストとして登壇して欲しい、というご依頼へのお返事です(一部書き換えており、お名前なども架空のものです)(見りゃわかるよねごめんね!)。長いお手紙をいただいたのですがお断りせざるを得ず、なぜだめなのか、ということを詳しく説明させていただいたので、他の方にも読んでもらえたら何かの役に立つかもしれないな、と思って載せることにします。

《以下引用》

(株)当欠エージェンシー パネ山マジ太郎 様

この度のお話、残念ながらやはりお受けすることができません。
大切なイベントにお招きくださるほどですから、わたしが何者なのかということは多少ご存じかとは思いますが、この「椎名こゆり」という名前は書き物のお仕事をする上でのペンネームであり、本業である派遣型風俗店での勤務にあたっては別の名前(いわゆる源氏名です)を使って仕事をしております。
源氏名でのわたしと「椎名こゆり」が紐付くことはあってはならないことですので、椎名として活動するにあたって顔や姿をはじめ、諸々の個人情報は明かしておりません。

性的サービスの仕事は、しばしば客となった方から強い執着を持たれることがあり、そのリスクは個人の努力や工夫で避けきれるものではありません。
お客様の数は多いので、中には○○を愛好する方も、△△に関心のある方もいるでしょう。
(注:○○や△△には今回のイベントに関連するテーマやモチーフとなるもの、取り上げられる社会問題が入る)
わたしに対し特別な感情を持ってはいない人であっても、見覚えのある顔だとわかった途端に「自分はあの女を買ったことがあるぞ」と高揚し、あることないこと話したくなるのも、人間の感情の動きとしてありえるでしょう(「奇遇」に遭った人は魔が差しやすいものですよね)。
なにかの拍子に偶然が重なる可能性は充分にあり、そのときわたしが被る不利益は予測がつきません。所属する店の外で起きたトラブルは、店も面倒をみてはくれません。
安心して働き続けるためには、筆名、源氏名、本名、そして顔などの見た目、これらを繋げられないよういつも個人で注意を払う必要があります。
もちろん、「テレビのドキュメンタリー番組であるような、磨りガラスでできたついたて越しでも出演したい!」のように思う人もいるかもしれません。まったく無頓着で、そういったリスクについては起こってから考える、という人もいないとは言いきれません。ですが、多くの場合で「東京のセックスワーカーが、東京のイベントで、顔を出して壇上に上がりものを言う」ことは、おそらく経験者ではない方が思い描くよりもずっと難しいことであり、危険を伴うことなのです。今後同業の方にコンタクトを取られる折には、どうか思い出していただけると幸いです。

身に余るお誘いでしたのに、このようなことを申し上げてすみません。こういったお誘いや取材依頼の類は多いのですが、わたしたちの身の安全にお気遣いをいただけるケースがあまりに少なく(むしろ蔑ろにされることが多く)、同じような形で活動している現役のセックスワーカーたちもおそらく同じ思いをしていると思うのです。
末筆ながら、イベントの成功をお祈りいたしております。
《引用おわり》

この件はイベントへの出演依頼、というものでしたが、研究でも調査でも取材でも同じことです。
セックスワーカーの意見が聞きたい、と思ったときに、わたしのことを思い浮かべてくれる人がいる、そのこと自体はたいへんうれしいです。いろいろ書いてきてよかったなって思えます。わたしにできることがあるならしたい、というのは本当の気持ちです。誰にもなにも頼まれたくない、というわけではありません。

しかし、その「できること」というのにはそれぞれ範囲があり、人が想像するよりも実際は狭かったりするものだ、ということです。それぞれに違う、できることの範囲を尊重してほしいのです。軽く見積もらないでほしいのです。

とくに舞台に上がること、本に掲載されること、テレビに出演すること……これらについて、お断りしたときに「なぜ嫌なのです? 皆さんこぞって出たがるのに」「チャンスを与えてあげているのに」といったニュアンスを返されると、とりわけつらいものです。ちょっと卑屈な見方をすれば、日の当たらない隅っこにいるあなたを表舞台に引き上げてあげると言っているのに断るのは生意気、と思われているのでは? とも思えてきます。もしそうなら、その感覚こそがわたしたちを閉じこめていると気づいてください。

いかにわたしの書くものに共感したかを強調し「あなたが味わった辛い目をたくさんの人に知ってもらいたいのに」「声を上げる場所を作ってあげるのに」というのもそうです。「人々の気づき」「人々の学び」のために、とよく言われますが、そのために前に出た人が差し出すものは何か、それによってなにを失う恐れがあり、どうすればできるだけケアできるか、そういうことに考えを至らせた上で相談してくれている、と感じられない場合、頼まれた側は「これは搾取では」と警戒します。「貴重なご体験」とはどういう意味なのか、誰にとって貴重なのか、と思います。

セックスワーカーを「面白い、興味深い」と見る人がたくさんいるのは知っています。しかし「面白いところだけよこしてくれればいいです、リスク管理は適宜ご自分でいいようにしてください、こっちは素人なので」という姿勢で持ち込まれた話には乗れるわけがない。セックスワーカーとしての意見を求めるのであれば、セックスワーカーが置かれている立場やさらされている状況についてもご一考の上で声をかけてくだされば幸いです。

「何でも協力するから気軽に声かけてね!」とは決して言えませんが、なにかありましたらご連絡ください。

以前からときどき依頼をいただくものには学生さんの卒業論文もあります。そちらについては、申し訳ないのですが現在すべてお断りしています。これまでいくつか協力させてもらう機会があったのですが、心身ともに疲れることがとても多かったので……。

このあたりのことはとても分かりやすく説明されている文章がありますので、MEMEさんとマサキチトセさんのブログを紹介します。どちらも“LGBT”を取り上げた研究に関して書かれたものですが、セックスワーカーに関してもまったく同じことが言えると思いました。(特にさまざまなマイノリティについての)多くの研究や調査において、そういうことが起こっているのだろうと思います。


MEMEさんの記事中に「本人の性格が悪いなどということではなく(むしろ良い子なかんじ),ただお作法を教えられていない&全然勉強していない(本とか読んでない)という印象を受ける例が私の場合多かった」とありますが、わたしも同じことを思います。あーほんとそれ! って感じです。
「やっているのは学生だが,しかしバックには研究のプロたる大学教員がついているわけで,それなのに」ともあり、わたしは(自分が大学生であったことがないために)指導教官という大人がついている、ということに考えが至らず「まだ学生の人がたったひとりでがんばっているのだから」といった変な義務感をもってしまい、ずいぶん無理難題であったりちょっと失礼であったりする要求(だと知っていてぶつけているわけではないんだと思います)に応えてきてしまった、と反省しています。

お受けしてよかった、と感じている「調査」もごくわずかながらあります。その中に大学の教授をしていらっしゃる方からのインタビュー調査があり、それを経験してようやく「ああ、『調査』の対象となるときは本来このくらいしっかりとした配慮があるものなのだ、ああ、それはそうだ!」と、本当にようやく気づくことができたのです。そのときのインタビューを録音したものと、元にして書かれた論文はわたしも持っていて(ちゃんと渡していただけたので)、すごく時々聞き返す(読み返す)とほんのり元気が出ます。わたしの当事者性を尊重し、堅苦しい雰囲気ではないながらも敬意と慎重さをもって質問してもらえている、つまりマサキさんの翻訳記事にあるようなことがしっかり守られているからです。
調査や研究をする人とされる人との間には、マイノリティとされる人を対象とする場合はなおさら、どうしても立たされている場所の違いから力の差のようなものができます。でも、それを越えて良いコミュニケーションを作り上げることもできるのだと知れた経験でした(しかしそのためには、調査や研究をする側の人の知識と心がけが不可欠です)。

2017-12-31 | カテゴリ まじめなはなし | | Comments Closed