スティグマの腕に抱かれて (2) 偏見と寝て多様性の夢を見る

前記事からのつづきです。

わたしは思いつく限りの選択肢から、候補を2つに絞りました。
「いやだわ、あなたは普通の女性と幸せになるべき方でしょ」と昭和の演歌のような態度で固辞するか、もしくは「すいません少し考える時間をください……」と言ってひとまずこの場をしのぎ、店に事情を話してよい対処法の教えを仰ぐか、です。

後者の方がより波風が立たず、自らを「普通ではない女」と名乗る必要もなく、スタッフの知恵も借りられてよいように思いました。しかし、残念ながらその店には頼れるスタッフの心当たりがありませんでした。見た目だけで戦意を奪えるような腕っぷしの強い人も、理詰めや交渉術で戦える頭脳派タイプの人も、業界トラブルに精通した手練手管の黒服タイプの人もいなかった。そしてそのどれでもないけれどキャスト女性の安全だけは何にかえても守るぞ、みたいな人も、いそうになかった。
力になってもらえる見込みがないことは、日頃の勤務を通して悟っていたのです。
せいぜい、以後その客から指名が入っても「すいませんシーナ嬢はご予約様で埋まってま〜す。ガチャン」と留守番電話のように繰り返し、「義務は果たしたのでどうなろうと店の責任ではない」と言われることになるだろう、と予想できました。それでは幸せを前に足が竦んで逃げ出してしまったわたし(と思われることでしょうよ!)を追いかけようと、客の闘争心に火がついてしまうかもしれません。力尽くでまた姿を現したとして、どこにせよそこが店の管轄外であることは確かです。そうなれば何が起ころうと助けを求めることは金輪際できません。

「どこか田舎の小さな町で、この仕事をしていたことを知らない人とささやかな家庭を築くのがわたしの夢なんです。どんなに傲慢なことか分かっています、愛する人を欺くことだとも分かっています。けれども一度このような世界に身を置いた事実は消せない、わたしにできることはこの秘密を墓場まで持って行くことだけです」

なにやらそんな風な古臭いことを言ってわたしは穏やかに、しかし揺らぐことのない決心を秘めた気持ちで微笑みました。彼が無様にフラれる筋書きだけはなんとしても避けるべきだと思い、私のことは忘れて下さい、みたいな路線に賭けたのです。どれひとつ取っても本心ではないし、ちゃんちゃらおかしいし、おぞましい嘘ですし、いつの時代だよ最終章劇場版です。でも全力で取り組まなければ通用しないと思った、そういう緊張感に満ちていました。我に返れば本当に不本意なセリフなのですが、必死でした。

その後、多少の紆余曲折のあと、最終的に彼はわたしを諦めました。わたしは職場を失うことにはなったものの、肉体的には無事でしたし、受けた実害は最小限で済んだと思っています。もちろんもっと優れたやり方があったかもしれませんが、今さら何を言っても仕方がありません。

こんなふうなこと。
こんなふうに、世の中にある偏見や差別感情を利用して接客を円滑に進めたこと、ステレオタイプでネガティブな風俗嬢像を利用してこの身を守ってもらったこと……きっと何度も、あります。そのような場に立たされたわたしは、嘘をつくことができてしまいます。あのとき「心根はかわらない」という言葉は、偏見と蔑視だらけの彼のセリフの中で仄白く輝きわたしの胸をチクリと刺しました。だけどそれをも否定した。

わたしは自分を含めたセックスワーカーが不当な扱いを受ける社会を望みません。それはそうです。
けれども情けないことに、このような言動を自分に許さずに生きる強さはありません。
お客さんたちに気持ちよくお金を払ってもらい、悪感情を未然に封じこめ、自分に刃が向くことを回避する——なによりも、そちらを優先して日々働いています。
なぜ自分のみならず他のセックスワーカーを貶めるような卑怯な真似を、と思われるかもしれません。しかし、わたしを非難して一件落着と思われるのも不本意です。
密室の中で相手(それもどのような言動をするかの予測に手がかりの少ない他人です)の機嫌を損ねることにはリスクがあり、未知なるリスクのすべてを丸ごと背負うのはわたしです。あなたに替わってはもらえない。

(後者のケースレベルのサバイバル術が必要となるお客さんばかりってことじゃもちろんないですよ!!大部分の人は「苦界の女を銭で買う」ではなく「それを仕事にしている人からサービスを受ける」と捉えていると思うし、もし聞けばこのぶっ飛んだ時代錯誤感に絶句すると思います。差別的な感情を平気で表に出すような人は、個々の危険性は高いものの人数で言えば稀な存在です)

マサキさんは「『セックスワークは生き延びるための手段』と思いたかったのは自分ではないのか」とご自身に向かって問いかけてくれました。
わたしもまた「『セックスワークは生き延びるための手段』ということにしておいて欲しいのは自分ではないのか」と問わずにはいられません—— が、堂々と答えることができません。
いつかはそうじゃない社会になってほしい、などと心から思ってみたところで、短期的に、その場の感情として、ないことにはできません。

このようなわたしの弱さと過去におかしてきたこと、そして自己弁護を書き綴ること、読めば快くない思いをされる人もいることだろうと思います。ですが、書いておきたいと思いました。
マイノリティが、マイノリティ自身の言葉として、偏見の強化や差別の再生産を担ってしまう場面がある、そうすることでしか担保されないものが確かにそこにある。

セックスワークならではの問題ではありません。全然ない。セックスワーク以外のカテゴリ(職業のほかにもセクシュアリティ、病気、障害、国籍、年齢、家族構成、生育歴、身体の特徴など、いっぱいいっぱいありますね)で当事者とされる人の中にも、同じような気持ちの味を知っている方はいらっしゃることでしょう(わたしは持病の話をするときにも、屈辱的な哀れみをシャットアウトするため自ら謙りや自虐的な冗談を口にすること、やっぱりありますよ)。
こちらを傷つけてくるもの、壊したいもの、それを鎧や踏み台にすることの矛盾と情けなさ、少しの白々しさを含んだ苦しみ。個人でどうにかできる重さを超えています。
これを見ない振り、知らない振りは、やっぱりできない。かといってもう二度としませんと詫びることもまたできない自分を、せめて隠さずに書き表すことくらいしか今はできそうにありません。わたしがひとりでできることは、それくらいしかないのです。

マサキさんが“脳内裁判所”に立っていらしたとき、わたしは原告団のひとり、あるいは裁判員のなかのひとりとしてそれを見つめているかのようでありながらも、同時に傍聴席のすみっこでじっと顔を伏せていました。わたしもおなじなんだよ、と思いながら下を向き、隣に行きたいなあ、とぼんやり思っていました。とんだ分身の術です。なんかずっと昔に笑う犬のなんとかで内村さんが全登場人物をひとりで演じて時代劇やるコーナー[*1]なかったっけ? あんなふうになってたよね。

マサキチトセさん(@GimmeAQueerEye)のお書きになったものをネット上、また書籍で読ませていただく機会はこれまで何度もあり、尊敬の気持ちを抱いている方のひとりです。LGBTやクィア、セックスワークなど多岐にわたる分野において、勉強させていただいたものはとても大きいと感じています(クィア英会話も楽しいよ!)。
今回はわたしのつたない文章を読んでいただいた上さらに考えられる機会を得られて、ひときわ嬉しいことでした。
この記事を書く勇気を持てたのは、ひとえにマサキさんのおかげです。ありがとう。どうかこれからもよろしくお願いします。

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以前の記事ではこの話題のきっかけとなったものについては伏せていましたが、のちにご本人が言及してくださっていたので紹介することにします。

差別しているわたしがそこにいた – c71の一日

「椎名さんの書いていることがあまり理解できなかった」と正直に書いてくれて、それでもなおセックスワーカーとそこにある問題について考えようとしてくれていること、ありがたく思います。
個人的にお話させていただいた際も「もう間違いたくない、傷つけたくない、正解を知りたい」と言ってくれましたが、しかし当事者のわたしもこのようにもがきあがいているわけで……がっかりさせてしまうかもしれませんが、当事者が答えを持っている、「正しい」考え方を教えてあげられる、というものでは決してないんですよね。少なくともわたしはこんなにグダグダですし、正解、という言葉でまとめて解決できるものだとも、思ってはいません。「正解」があるのだろう、提示しろ、と当事者が求められることも、つらいものなのです。わたしが定義していい問題ではないと思うし、ただ「あきらかな間違い」を用心深く避けることしかできないと思います。

今回マサキさんやわたしやその他多くの人がこの問題について考えることができたのは、c71さんがわたしに対して、せっかく味方になってあげているのに口答えされるなんて心外だわきまえろ、といった態度(残念なことですが、珍しくないですよね)を取らずに耳を傾け続けてくれる、と信じて指摘するに至れたからです。c71さんにもまた、感謝しています。

「私は偏見などないから差別もしないよ」と宣言してくれる人よりも、「私の言動に偏見を感じたらいつでも教えて」と言って実際に教わり、考え、学びつづける意思を表してくれる人にわたしは安心を感じます。すべての偏見を自覚しているわけじゃない人とでも、話を聞く気持ちを持ってもらえるならばなにか語り合えるかもしれません。
個人の持つ偏見の数をかぞえてその重さを糾弾し合うためではなく、ひとつずつ見つけ解体して手がかりを拾い、お互いが、ひいてはみんながもう少し自由に、楽に話せるようになるためそうしたいのです。もうあとちょっと、いろいろ楽になったっていいと思うもん。

それらはマイノリティとされる人だけが背負う役目ではないと思います。何もかもを当事者性の高い人が担わされるのは無理(負担が大きすぎます)というものですから、さまざまな立場の人が輪になって語らうことになるでしょう。断絶せず一緒にいられるために、マジョリティとしているときのわたしもまた、誰かが「それはそうじゃなくてね……」と教えたい気持ちを持ってくれたときに手のひら返しの恐怖で口を噤ませない、そういう存在でいたいなと思います。

あの歌でしかチューリップ[*2]を知らない人が「チューリップってぜんぶ赤か白か黄色のどれかなんだな」と思い込んだとして、それを無知だ愚かだと罵りたくはありません。
ただ、わたしのはこんな色です、とピンク色のチューリップを差し出したとき、「そんなの認められない、作り物だ」とか「私は寛容なので認めたいと思う。大切なのは特殊な例であるという自覚と謙虚さだ」「一般的な3色とは分けて考える必要があるだろう」「赤か白のどちらかを目指す努力もせずに権利ばかりを主張するのはいかがなものか」と言われるのではという恐れが、わたしにこのチューリップを人目から隠させます。
あなたはいつか、わたしの庭でいろんなお花を眺めながら並んで歩いてくれるでしょうか。わたしはあなたのお庭に招いてもらえる人になれるでしょうか。水をあげ続けていればいいのでしょうか。根腐れするだけでしょうか。しまわれた球根たちもいつか芽を出す場所を得る日があるでしょうか。なにもわかりません。春への思いだけが遠くへ飛んでゆきます。

*1 検索したら「ひとり忠臣蔵」でした……ってことは討ち入りシーンとかあったの?見たかった!
*2 チューリップって、花の色や形から大きさから咲き方までものすごーくバリエーションがあり、目にする機会がないわけでもないお花なのでその多様性を多くの人が知っているのに、「チューリップ」とだけ言ったときのイメージはわりと統一されていて、すごい存在だな、ってよく思います。バラもそうですね。

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