まじめなはなし

読んだ本:中村キヨ(中村珍)『お母さん二人いてもいいかな!?』(2)


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この本を読んだ後にわたしが考えていたことを文章としての読みやすさなどは考えずただ考えたままで書いてみます。
本の感想とは違うので購入を迷っている人やなんかの参考になる情報は期待しないでね!!
迷ってる、という時点でその人は読んだ方がいい人、この本と巡り会うべき人だと思う。こんなもの読んでるひまにさっさと買うのがいちばんいいはずです。

 

表紙をめくるとあらわれるのは「愛って、なんですか?」という問いかけ。これがねーすっごくきつかった!とっさに目を背けたくなりました。
それはわたしが個人的に、この質問を嫌いだから。嫌いもきらい、大嫌いだから。
でも、キヨさんがそう問いかけるのならば、と思いページを繰り始めました(うそ、本当はその前に表紙カバー外して本体見ちゃった。これはモンスター?ハンター?ですか?)(他にゲームの名前をよく知らない)。だったら考える、考えなきゃ、と。これはわたしが憎んでいる「愛とは○○である」という話では絶対にないもの、だから大丈夫。そう容易く信じられたから。
それはこれまでの(中村珍名義の)作品を読んだことでわたしの中に育っていた著者への信頼によるものなので、あらかじめ読んでいてよかったな、キヨさんのこともう知っていて、すでに好きになっていてよかったな、と思い、やだぁわたしったらえらいよねー。と自分をほめておきました。

本当はこの質問は、わたしがわたし自身に向かって何度も何度も問いかけていることでもある、んです。もうやめたいのに何度も何度もいつまでも。やめたいのにね。

物心ついてから今日までの人生を振り返ると、「愛」と顔を合わせる場所のムードはだいたい決まっていたように思います。どこかから大きな苦痛を持ち込まれるとき——分かち合うべきようなものじゃなく、理不尽で不当な類いの苦痛——「愛」に、よく会いました。引き合わされた、という感じかな。
ものすごくつらいことと併せて、その理由として、紹介されたような。君を愛しているからだと、あなたが愛されているからだと、何度となく告げられてきました。それはとっても普通で当然で正当なことのように思えたし、もしかしたらそうではないようにも思えて、どちらと断定することははじめ全然できませんでした。どちらにしても「なんだか、思える」という程度で、解明する力などなかったです、子供のうちは。ただ、いやなこと、痛いことをしてくる愛って本当の愛なのかな? と、幼いころから子供なりに考えてはいました。

痛い痛いと言う前に、深呼吸して考えてごらん。暴力の中にも、愛によるものはある。それが真実なんだよ。凝り固まった心で拒絶していては、愛の存在に気づくこともないままに淋しい人生を送ることになってしまう。自己中心的な考え方からいったん離れて、自分がいかに愛されているか振り返ってみようよ。

……なーんつったりして。まあなんかそんなような声、それはいつも心の中にあって、反論する言葉をなんにも持たなかったので、黙っているしかありませんでした。
愛に逆らうことはできない。そんなことは、許されない。
愛は尊くてかけがえのないものだもの、失ってはいけないものだもの。そんなことはみんな知っているでしょう。
たとえそれがわたしの望むものと違った姿であろうとも他人の愛の形に口出しをしてはいけない、ただ黙って受け入れることができないのは傲慢だ。そう自分に教えようともしていました。

だけどじきに成長したわたしは、最終的に、受け入れなかった。愛の名の下にもたらされた自分の苦痛を、運命だといって受け入れることを結局はしなかったです。

暴力を振るう愛は本当の愛か? と考えることを、あるときやめたのだと思います。「本当」という言葉が邪魔なんだ、と気づくに至ったのかな、きっと。
愛はいつでも人を生かすものというわけではなく(世間でそういうことになっていたとしてもね)、殺すのもまた簡単で、愛が本当か本当じゃないかは、「死んだ」という事実の前ではたいした意味を持たない。大事なのは生きるか死ぬかで、愛だったかどうかではない、ましてその愛が本当だったかどうかなんて心の底から全然どうでもいい。つくづくどうでもいいよ。そんなふうに。だいたい「本当」という言葉だって、酷くあやふやで実体のないものでしかないですもん。その前に「わたしにとって」とつけることができるなら、まだ少しはましだけど。

そこからだんだん、自分の中で整理がついていきました。暴力をもたらす愛もあるんだ、と認めるかどうかよりも、その愛とやらを受け入れるかどうかが重要で、それは自由だ、と結論付いた。愛を拒むこともしていいはずだ、誰ひとり許さないとしてもわたし自身が許せばよいということにしたいよ、と。
愛はわたしにとってシステムの名前か、なにか「仕様」のようなものをあきらめるときの言葉に成り下がりました。
だから心の底で愛に反発し、反抗し、見下した。いまだ「すばらしいもの」の顔をして語りかけてくる「愛」が恐ろしいものに思えたし、二度と取り込まれまい、二度と騙されまい、と思えばすごく冷ややかな気持ちになりました。愛という言葉を示してくる人を警戒し、それを「すばらしいもの、すばらしいだけのもの、すばらしいに決まっているもの、このすばらしさを知らない人は可哀想だね」と言う人をこっそりと軽蔑し、愛を信じなかったし、愛を持て囃す人はもっと信じませんでした。大人になったわたしを何らかの形で所有しようと愛をちらつかせてくる男性などはその最たるもので、その漢字の造形すら恐ろしく、また汚らしく見えるときだってありました。今もちょっとあります(そしてほとんど同じ憎しみの感情を「家族」という言葉に対しても持ってしまっています)(でも「鶴瓶の家族に乾杯」は好きだぜ)。

わたしを踏みにじってきたものはみな「愛の仮面をかぶせた何か」「愛と名乗らされた何か」「愛と書かれた箱に入れた何か」であったのだなあ、とやっとしっかり理解してからも、その言葉への憎しみを消すことは難しかった。その憎悪と恐怖の前ではほんとうになすすべがなくて、考えるだけで苦痛でしたから。

 

 

だけど——わたしは愛を知っている、とも、思っていました。不思議なことに、その自覚はあった。確かにわたしは『愛』が大嫌い、でも、愛を知らないわけじゃない、少しも理解できないわけじゃ、ないっぽい……と、自問自答することがありました。「それは愛じゃなくて、愛のラベルを貼った何かだ」と結論付いたのは、わたしの中にはわたしが認める愛の基準があるということではないのか?と。でも、そこから先へはなかなか進めなかった。

すっかり大人になった今でも、たいして変わらない場所にいるなあ、と思います。いまだ確執がすごいんです、愛という言葉とわたし。
たとえば今の職業に就いて、出会う人に対して思う気持ちをできるだけ簡潔に表すとしたら「できれば、愛したい」になるとは思う……できる限りの慈しみと敬意、いたわり、気遣い、おもしろさや楽しさ、肯定、心が躍るようななにか、暖かいなにかをふたりの間につくりたい。
でも、それを当事者どうしでない誰かに「愛ですね!」と呼ばれたら? と思うと(呼ばれたこともある)はらわたが煮えくりかえって吹きこぼれるわけよ。ああめんどくさい。

何回かはね、愛してる、と人から言われたことがありました、面と向かって。淋しくてどうにもならなくなっているお客さんとか、あと通りすがりのお酒に酔った人から言われるそれは、しょうがないっていうか、喜べるものじゃないけど自分の中のあしらい方マニュアルみたいなものに則ってなんとかお片付けするしかない。でも、個人的な恋愛関係にある人だとそうもいかない。受け取らなくてはなりません。
その時わたしがどうしたかというと、半ばパニックのようになり、身を固くし、相手には「あなた愛だなんて口に出して言うような人だったかしら?やだ恥ずかしいクスクス」くらいのニュアンスで伝わるように精いっぱい努めながら、わたしに対してその言葉は使わないでほしい、と遠回しに遠回しに言いました。

同じ相手に、数日後にまた言われた(遠回しすぎたんだよね。笑)ときは、「愛してるなんて言葉は一生に何度かだけ言われたいタイプだから、あまり簡単に口にしないで、わたしそういうの苦手」あたりのニュアンスで伝わるように精いっぱい言った、と思います。実はあんまりはっきり憶えてない、いっぱいいっぱいだったから。

それからはもう、言われることはありませんでした。
言ってくれた人のことは、好きだった、はずだった。カジュアルな言い方だったけど、きっと真剣な気持ちで言ってくれたのだろうとも思う……けど、今までわたしが真剣に苦しんできたその「真剣」と戦わせたら、とうてい釣り合わない、とわたしは思ってしまいました。なんと傲慢なことに、相手の真剣を自分のそれよりもかなり低く見積もってしまった。頭に血が上って、心がガタガタ震えて、一目散に逃げたかったのです。やれやれ。

 

世間がわたしへ説いてくる愛。
わたしが受け取って受け入れる愛。
わたしがどこかへ差し出すことのできる愛。

1番目はもう嫌というほど見聞きしたし傷つけられたし、お付き合いの仕方を考えながら当たり障りなくやりくりしていきたい相手です。2番目は、差し出されたその時には愛なんてリボンはついていなかったけれど、わたしが「そういうことにして」心の奥の方に大切にしまってあるものたち。3番目は、とっても重要だと分かってはいるけれど、その内容をまじまじと見て言葉にしたことはない、その作業からやっぱり逃げたい、という有様です。

 

わたしの受け入れる愛ってどんなものだっけ、と考えたとき、すぐに思い浮かぶシーンが2つあります。

ひとつは、小学校に上がる少し前のことだったかな。
母がわたしの枕元で(当時は暇さえあれば寝込んでいたのでだいたいそういう記憶)、言い聞かせてくれたこと。

ママはね、ユリのママだけど、パパでもあるのよ。それと、ユリにはおにいちゃんもおねえちゃんもいないけど……いなくてごめんね、でもママがおにいちゃんで、おねえちゃんなの。それから、もしユリが望むなら、妹でもあるし、弟でもあるよ。それから、ママはユリのお友だちでもあるのよ。もし思うように学校に行けなかったり、学校でお友だちができなかったとしても、なんにも心配いらないの。
それとね、ユリが大人になるまでは、ママは死なないことになってるからね。神様と約束したから、絶対よ。
だからゆっくりお友だちを見つければいいからね。
これからどんなことがあっても、ママはユリのママで、パパで、おねえちゃんで、お友だちだからね。どんなことがあってもよ。いちばんそばにいなくても、そうなのよ。わかるかな?

……今になってさまざまな事情を知り、当時の彼女が置かれていた状況を思えば、わたしを手放さなくてはならなくなる不安を抱えておりそれを拭い去るため自分に言い聞かせていた、という解釈もできます。その不安を察知して情緒が不安定だった幼いわたしをとにかく安心させたかったんだろうなあ、とも思えます。

ただ、このとき感じた強い安心感は、今でも思い出すことができるし、このとき授けてもらった自己肯定感はとっくに成人したわたしの中にもしっかりと存在しているものです。
これは愛ではなく「親のつとめ、保護責任」や「母性」というものだ、と言う人もいるかもしれないが、わたしにとっては愛と呼んでもかまわないものです。受取人としてそう認識するもん。これに関しては受取人が決めていいと思うんだよね。

もうひとつは、10歳くらいのとき。家族のひとりであった大人から暴力を受けた数日後のこと。

腫れがすっかり引くのを待ってから登校を再開したつもりだったのに、放課後にひとりの女の子が、わたしを見つめて言いました。ユリちゃん、顔、どうしたの。ほんの少し残った傷を、目敏く見つけられてしまったのです。
その女の子、リホちゃんのお父さんは、傷害事件を起こして服役しているという噂がありました。少なくとも暴力が原因でご両親が別居されているというのは確かでした(当時暮らしていたのはこういう話が町中にまわるような田舎だった)。わたしは「当事者の目は鋭い」ではなく「リホちゃんはよく気がつく細やかな子」と受け取って、とくに身構えもせずに答えました。ちょっとぶつけちゃったの、と。

するとリホちゃんは、そっか、ぶつけちゃったのか、痛かったね、と言って、それからわたしのことを両手で抱きしめた。そして「きいてごめんね」と言いました。

リホちゃんは、声を殺して泣いていて、驚いたわたしも泣かないでと言って泣き、しばらくふたりでシクシク言いながら抱き合っていたけど、それ以上何かを話すこともありませんでした。

ただ、リホちゃんが家族だったらどんなだったろう、と思いました。家族を自分で選べたらよかったのに、と。自分で選べない家族に意味なんかない、と激しく思い、でも同時に「かぞくをたいせつに!」と呼びかけてくるものの多さにもすでに触れる機会がたくさんあったので、ただただ困り果てました。

これもまた愛ではなく「女の子の優しさ」や「被害児童どうしの哀しい連帯」と言う人もいるかもしれません。わたしにとっては愛でいい。受取人はそう受け取った。この日のことに近い出来事は多々ありますが、代表してこのときの教室の風景が思い出されることが多いみたいです。

どっちの愛も、無力だな、と思います。母もリホちゃんも当時の状況下では非力な被害者だったし、わたしにしてくれた行いも、それ単体では無力で何もなしえない、その場ではなんの状況を変える力もない、役に立たないなぐさめのようなものでした。
でも、長い間生きている。ずっとずっと生きていて、わたしと一緒にいるものです。確かにわたしのどこかに蒔かれ、発芽し、根付いたなあ、といま思いますし、そうひしと実感する機会が思春期の後に何度も訪れました。

さて、じゃあ、両手いっぱいの苗木を抱えてわたしは、これからどうしたらいいのか。
そう思うと、わりと、途方もない気持ちになります。いい年して考えてこなかった自分へのガッカリ感もあるし、ですが愛や家族といった言葉とわたしとの確執は、決して終わった話ではないのです。定植しないと枯れるのでは、という漠然とした恐怖もあります。つらい。考えるのはつらい、苦しい、考えたくない。そう苦しがること自体が考える、に片足突っ込んでる証拠なんだけど、だったらさっさと両足突っ込みやがれよ、と自分を怒鳴りつけるとやっぱりつらいです。

「私はこの質問に答えたい!」
部外者の分際で図々しく名前をつけてしまうけど、さまざまな関係のさまざまな形の、ただただまぎれもない強い愛がそこかしこに散りばめられたこの本の最後の最後に記された言葉。本編を読んでいる間は横に置いておいた涙が、とっくに読み終わって家事をしながら(エリンギ裂いてた)ふとこの言葉を思い出したときつるりとこぼれました。答えたいと力強く言うキヨさんが眩しくて、大好きで、近づきたくて、でもわたしの胸ではどうしたって「答えたくない!」「誰も私に答えさせないで!」が優勢で……。
和解したいよね。ほんとはね。

箱の表書きに動じない練習をしたいです。
箱に書かれた品名に翻弄されたり心を乱されたりしないよう、その中身を自分で見て、なにをどれだけ受け取るかどうかを決められるようになりたい。

 

余談だよ。ちょっと前、わたしに向かって愛していると言う人物が現れて、その瞬間のわたしといったら、もしキヨさんの漫画の世界に住んでいたならば目玉がポポポポーンと飛び出してラーメンどんぶりの中にバッシャーンザブザブザブッ!!といったであろううろたえっぷりでした(いや、誰もラーメン食べてなかったけど)。あああああどうしよう!えーどうしよう!この人のこと怖くなんのちょちょちょ超ーーいやだなーーーーっていうのを、そうねだいたい愛してるの「し」くらいでもう考えて目玉ザブンザブン泳がせてたよね。こういう瞬発力ならあるんだよ。

でも続きがありました。「愛してる、と言ってもいいですか? 言わない方がいいですか?」だったの。
えっ?選ばせてくれるの!?わたしが選んでいいの?わたしが許可出していいの?権利くれるの?なにこの人!! と思ったらなんと可笑しいことに突然世界が開けて、びっくりしました。そんな簡単なことだったのか……と(その人は別にわたしの過去のなにを具体的に知ってるわけでもない、と思う)。
とはいえ想定外の質問なので、変わらずザブサブしてはいたんですが。権利をもらえるってなんてすごいことなんでしょう。わたしが長年求めてさまよい、自分が自分自身に対し許すことによってどうにか心を立て直してきたものも権利でしたけど、他人から当たり前の顔で与えられると、こんな気持ちなんですね。
今までにも与えてくれた人はいたんだよ、それは当然いっぱいいたんだけど、ここまで明確に言葉を使ってもらえたことってなかった。

「言うのはあなたのほうの権利なので、言ってもいいですよ。でもお返事はできません」

わたしの答えはこうでした。なんだよそれ……と思われるかもしれませんが、目玉ザッバザバのわりにはがんばったと思う。お酒の入った愛の告白は100%取り合わない、というマイルールがあるので仕方ありません。

何年も何年もひとりで背中を丸めて取り組んでいた暗号(100000000ピースのジグソーパズルに書いてある)を一瞬でチャカチャカチャカ〜っとつなげてそっと読んで去って行く他人っているんですね。あーびっくりした。

びっくりするわたしを、少し離れたところから10歳のわたしが見ていたと思います。いつかあの子を手招きして抱っこして、なんにも心配いらないよって言ってあげたいな。

 

 

ごっちん愛してる!!!

2015-11-10 | カテゴリ まじめなはなし | タグ: Comments Closed