まじめなはなし

【読んだ思い出】尼のような子/少年アヤ〔3〕

本の感想でもないんだけど、読み終わって考えたことのメモです。

88ページの前半を読んで、それだいたいフォトショップだよう、ムダな落胆することなんてないよう、ははは。

とだけ最初は思ったんだけど。
もしかしたら「ああ、この時アヤちゃんが風俗だなんて大それた道に行かなくて本当に良かった。やはり心根がしっかりしているからやっていいことと悪いことの区別はついているのだ、よかったよかった」みたいに安心する人もいるのかもしれないね、いるんだろうな、と思い、少し苦い気持ちになった。

セックスワーカーの顔写真は、幸せそうには見えないことがほとんどだろう。無理もないことだと思う。
なぜなら多くの人は、その人がセックスワーカーであるという時点で幸せだとはあんまり思わないからだ。きっと幸せとは言い難いだろうな、と思っている(これは必ずしも蔑視や差別心ではなく、空想するのに使う材料がそういうものばかりしか世間にないからそうなっちゃうこともあろうとわたしは思ってる)ことの方が多いからだ。不幸なんだろうなと見なしている相手の顔は不幸そうに見える。シンプルな仕組み。

151ページに出てくる絵本の描写と同じことだ。

読み古されたミッフィーの絵本が重なり、妙に哀愁を放っている。

「読み古されたミッフィーの絵本」それ自体は、ちっとも哀しい存在ではない。
例えば『最も幸せな絵本とは、最もボロボロになった絵本です。最も淋しい絵本とは、だれにも読まれずきれいなままの絵本です』こんな風にでも言えば、背の部分は朽ち見返しは取れかけ、すでに意味を成していないセロハンテープがペタペタ貼られたような絵本が途端に輝き始めるものです。
でも不安かつ複雑な思いで訪れた病院の待合室で見た「読み古された絵本」だから、「妙な哀愁」があるのだ。胸の内を含めたニュアンスを描写するために、その絵本は哀愁あるものとして存在したのだ。

「あの日見た男の子たちの笑顔の危うさは……」もこれと同じことで、感じた「危うさ」「空虚さ」は、他でもない書いた本人の内面が投影されたものだ。
アヤちゃん自身はそれに気づいているし、よく分かっていると思う。後に続く『いまも胸に深く沈んでいる』という文章は「あの時はどうかしてたなあ、あんな風に思い詰めて人の道を踏み外さないようこの先も注意しなくちゃ」という意味ではないなと思う。はっきりと書かれている以上の著者の内面をわたしが勝手にどうこう言うのはお行儀が悪いけれど、たぶん、「あんなモデルみたいにキレイな男の子があれだけのサービスをして○○円なんだ。働くって、一体なに?」というような物思いだとわたしは解釈した。

この本の元となったブログも長く読んできているし、夜中のツイッターで心底くだらなくて心底楽しい話をし合った仲でもあることに多大な優越感を感じているわたしだけど、それなりの年齢に達した分別顔の大人でも知らず知らずに上から目線や特別視が滲んで隠せていないことがよくあるというのに、そういったものをアヤちゃんから感じたことは一度もない。
もちろん距離はあって、壁がある。でもそれは「未知である」「自分は経験していないことである」という壁だ。他人の職業だからあるところ以上には立ち入らない、という壁。

それはアヤちゃんの知性だなあと思い、尊敬している。

だから、

決してセックスワーカーを蔑視するわけではないし、なれなかったからといって僻んでいるわけでもないが、

これは、書いてくれなくてよかったのになあ、と(セックスワーカーとしてのわたしは)思った。巷にどんどこあふれている、持ち上げるふりや自分をおとすふりをしてセックスワーカーを下に見る文章に表面が似てしまうのがすごくいやだった。書きたくて書いた文じゃないよね、気配りだよね。でもそんなふうに言わなくたって大丈夫なのに、わかってるのに、と思った。
思ったんだけど、でも、でも、やっぱりそれって現実的ではないんだよね。そうして書かないと「セックスワーカーを差別しているのか」ということにされてしまう可能性がある、んだよね。アヤちゃんはニュートラルでいるだけなのに、まわりはそうと受け取ってくれないことが充分に考えられる。
そしてこのことをわたしが指摘できるというのも、現役のセックスワーカーであるから持つ、いわば特権なのかもしれない。

なんだか、悔しいな。

 

そんなようなことも考えたから、いちおう書き残しとく。
この本を読んでたのしかったってことは変わらないよ。

【追記・4/10】
引用部分を分かりやすく編集しました。
またこの文章の主旨は著者への抗議や批判ではまったくないことを、念のために改めて明言します。
わたしがここで述べているのは、
・たとえわたしの前で「アヤちゃんが風俗なんかに堕ちなくてよかった」と言う人がいたとして、その人もわたしと同じようにアヤちゃんの幸せをただ願っているという事実が胸に痛い
・いつもセックスワーカーにニュートラルに接してくれているアヤちゃんに余計な「世間へのフォロー」を書かせてしまう見えない圧力を思い胸が痛い
・しかし「フォローなんて余計だ、差別の意図がないことは明白なのに、かえって嫌味にきこえて悲しい」などと偉そうに言えるのはわたしが当事者であり友人であるから、なのかも

といった答えのないモヤモヤです。モヤモヤメモです。よろしくお願いしまモヤ。

2014-04-09 | カテゴリ まじめなはなし | タグ: Comments Closed